155 紙山さんとの会見
蒼井さんのお母さんは俺との一連のやり取りが済むと、ほっとした様子でたちまち饒舌になった。いつだったか蒼井さんがお母さんは社交的な性格だと言っていたし、少しお祝い的な気分にもなっていたのかも知れない。
「ちゃんとした店じゃなくて申し訳ないけど」とお母さんが近所の回転寿司に誘ってくれて、史也くんも一緒に四人で食事をした。俺のことを気に入ってくれたようだったけれど、もしかしたら、もう少し調査したい気持ちがあったのかも知れない。でも、食事は楽しかったし、帰るときにはお母さんの信用を勝ち得ていたと思う。
「何だったんですか、あれ?」
蒼井さんを乗せて車を出すとすぐに彼女が尋ねた。
「あれって?」
「宇喜多さんがお母さんに渡した封筒の中身です」
「ああ、あれか」
思わず笑いが漏れてしまう。
「釣書だよ。簡単なものだけど」
「釣書?」
「魚釣りの「釣る」っていう字を書くんだ。お見合いのときに交わす自己紹介みたいなもの。ネットでひな型を見付けて作ったんだよ」
「へえ。お見合いで相手を釣るための書類ってことですか? 変な名前」
「そうじゃなくて、釣り合いをとる方の釣りじゃないかな」
「ああ、そうか。……でも、今回はお母さんを釣ろうとしましたね?」
「あはは、まあ、そんなところだね」
きのうの夜から、蒼井さんのお母さんには何が有効かさんざん考えた。その結果、あれしか思い付かなかったというのが正直なところ。
なにしろ今、俺が親世代に感心されそうなものと言ったら学歴しか無いのだ。それを形式ばって仕立てることで、効果が高まることを期待した。
それに、そもそも俺は見た目が真面目だし、友人たちによれば性格も真面目だし、地方公務員という堅い職業でもある。そこに正式っぽい釣書を付ければ、いくら厳しいお母さんでも少しは気を許してくれるに違いない。万が一、興信所などで俺の過去や周囲を調べてられも、犯罪歴も元恋人とのトラブルも出て来やしない。仕事だってルールをきちんと守っている。真面目で品行方正な人生を送ってきた――自然とそうなっただけだけど――俺には何もやましいことが無いのだ!
……というわけで、俺は釣書をパソコンで仕上げ、畏まった口上を考えて練習し、蒼井さんのお母さんとの会見に臨んだ。そして見事に成功した。たぶんそれはあの釣書の内容ではなく、いろいろな準備をして会見に臨んだ俺の覚悟をお母さんが認めてくれたからだと思う。
「だけど、蒼井さんのお母さん、やっぱり蒼井さんのことを心配しているんだね」
話してみて一番感じたのはそのことだった。俺との関係を了承してくれたとき、お母さんは少し淋しそうだったのだ。
「そうなんですよね……」
彼女はしんみりと答えた。
たぶん、お母さんは優しさや愛情を表現するのが苦手なのだ。今日の食事中も俺には愛想良く話すのに、蒼井さんにはずっとぶっきらぼうなものの言い方をしていた。史也くんにはそれほどでもないのに。
「必ず幸せにするから」
思わず出た言葉に彼女が微笑んだ。
「宇喜多さんがわたしを好きでいてくれたら、わたしは幸せでいられます」
「大丈夫。それなら保証書を付けられるよ」
照れくさくても、何度でも好きだと伝えよう。言葉と態度で。蒼井さんとお母さんのようにすれ違ってしまわないように。
年末の休みに入った日、俺は紙山さんと会った。蒼井さんのお母さんを通して会見の申し込みがあったのだ。二人で話ができないか、と。
とある喫茶店で会った紙山さんは人の良さそうな中年の男性だった。小さな不動産紹介の店を営んでいて、離婚歴があるそうだ。蒼井さんと史也くんを自分の子どものように思っているというのは、会えなくなってしまった自分の子どもの代わりということらしい。
「この間は私が余計なことを言ったせいで春希ちゃんに嫌な思いをさせてすまなかったと思っているんだ」
穏やかに紙山さんが切り出した。
「うちの甥っ子に春希ちゃんみたいなお嫁さんが来てくれたらいいなあと思ったものだから、つい。ちらっと口に出したら、佑子さんが乗り気になっちゃってね。ちょうど二十歳のお祝いの話もあったから、大人の間だけで話が進んじゃったんだよ」
「そうだったんですか……」
「奥手な甥っ子も春希ちゃんのことが気に入ったようだったから……。でも、春希ちゃんには可哀想なことをしてしまった。君にも申し訳なかった。すまなかったね」
「それは……、僕もご挨拶が遅れていたので……」
大人に頭を下げられるのはなんとなく落ち着かないし、俺にも責任はあるのだ。それに、この人だってあんなことになるとは思わなかっただろうから。
一つため息をつくと、紙山さんはまた静かに話し出した。
「私が佑子さんに、春希ちゃんに一人暮らしをさせるようにと勧めたことは聞いている?」
「いいえ……。そうだったんですか?」
「うん。僕が会ったころ……、高校二年生だった春希ちゃんに佑子さんは依存し過ぎていたからね」
「依存……ですか?」
「うん。いや、依存というよりも……常に命令する立場と言うか……」
コーヒーを一口飲んで、紙山さんが先を続けた。
「もともと夫婦で仕事をやっていて、春希ちゃんは家にいない両親の代わりに小学生のころから家事と史也くんの世話を引き受けていたらしい。中学に上がる前に料理は揚げ物以外は作れたそうだよ」
そう言えば、蒼井さんは家の手伝いの話をしていたっけ……。
「お金の苦労はずっと続いていたし、そこに旦那さんの借金と離婚という事件があって、当時の佑子さんはストレスで精神面も健康面も不安定になっていたようだった。仕事には出ていたものの、家にいるときは寝込んでいることが多くて、春希ちゃんが学校とアルバイトの傍ら、家事も頑張っていたよ。そんな春希ちゃんに佑子さんは『家族なんだから助け合って当たり前』だと言っていたし、気に入らないことがあると辛く当たることもあってね」
そこで小さく息をついた。
「まあ、それは佑子さんの無念さから出る言葉でもあったんだろうけどね。春希ちゃんに高校生らしいことをさせてあげられないことへの……罪悪感とでも言うか、そんな自分たちの境遇への恨みとでも言うか」
(恨み……)
本来なら頑張っている蒼井さんに「ありがとう」と言えば良いところだ。けれど、恨みの気持ちが感謝の気持ちを邪魔してしまうのだろうか。負の感情はそれほど強いということなのか。
「春希ちゃんを可哀想だと思っていると、僕にはよく言っていたよ。感謝しているとも。でも、本人にはそういう言葉は言えないようだった。愚痴ならいくらでも言っていたのに。佑子さんも佑子さんなりに頑張ってはいたのだけれど、春希ちゃんはあまりにもしっかり者で我慢強かったから、佑子さんの言いそうなことを先に汲み取ってこなすようになっていた。それが当たり前になって、今度は春希ちゃんができなかったときに厳しく叱ったりしてね」
話している紙山さんも辛そうだ。
「僕はなるべく二人の緩衝材になれるようにと思ったんだけど、どうだったんだろうなあ……」
「そうだったんですね……」
だから紙山さんは蒼井さんの家によく行っていたのだ。今でも彼女が実家に行くと紙山さんがいるというのは、こんな経過があったからだったのだ……。
「そんな生活の中で、春希ちゃんは就職すると決まった時点で将来への希望を失くしてしまった。卒業間近のころのあの子は本当に可哀想だったよ」
進学をあきらめた話をしていた彼女を思い出す。あのとき彼女は笑顔だったけれど、今思ってもやっぱりつらくて、俺も下を向かなければならなくなった。
「僕はあの状況からあの子を解放してあげなくちゃならないと思ったんだ。あそこに一緒に住んでいたら、働きに出る春希ちゃんは今度は金銭面でも依存されることになる。責任感の強い子だから、そうなると抜け出せなくなるのは目に見えていた。だから佑子さんに、春希ちゃんを独立させるように提案したんだ」
「すぐに賛成されたのですか?」
「最初はショックだったみたいだよ。あれこれ不安材料を挙げていた。でも、自分たちの暮らしのことはあまり言っていなかった。不安だったとは思うけどそれまでやってこられたわけだし、春希ちゃんが家を出れば、食費や光熱費が減るわけだから。それを心配したのは春希ちゃんの方だったよ」
「そうですか……」
「佑子さんたちは家賃が安い低所得者向けの住宅を申し込むことにして、春希ちゃんを説得した。一緒に住んでいると収入オーバーで申し込めないからって」
それで、蒼井さんが家を出た後にお母さんたちの引っ越しが決まったのだ。俺は彼女が一人で放り出されたように感じていたけれど、それは解放だったのだ。
「僕は通信教育課程のある大学の案内をいくつかもらってきてあげた。あの子が進学できなかったことを悲しんでいることが分かっていたからね。春希ちゃんならきっとやり抜くだろうと思ったし」
「ええ。頑張っています」
「そうみたいだね。良かった。自分の力で大学を卒業できれば、きっと大きな自信になるよ。それに、君みたいな人にもめぐりあえたしね、就職して良かったんじゃないかと思っているよ」
「僕は……」
俺はまだ十分ではない。彼女をしっかりとささえられるほどには。でも。
「努力します」
その覚悟だけはある。困難なことにも一緒に立ち向かう覚悟は。
「うん、信じるよ。佑子さんも君を見てほっとしたようだったよ」
紙山さんは微笑み、居住まいを正した。そして。
「春希ちゃんを幸せにしてあげてほしい。どうか」
頭を下げる姿はきっと本当の父親と何も変わらないだろう。幸せを願う気持ちも。
「はい。約束します」
彼女は気付いていなかったけれど、ちゃんと家族に愛されていたのだ。
次回、最終話です。




