15 託されたバトン
テニスの帰りに横崎駅で用事があるふりをして電車を降りることまでして、やっと蒼井さんを誘うことができた。それも何故か赤面までして。
なのに一人になってから、今度はそれが余計なお節介だったような気がしてきて、不安になってしまった。
だって、俺が知らないだけで、彼女にはちゃんと息抜きができる友だちがいるのかも知れない。せっかくの休日を俺の親切の押し売りで逆に気を遣う日にさせてしまうかも知れない。
そんな考えが浮かんできたので、蒼井さんの返事を葵に連絡できなかった。そしてそのまま、翌日から税務研修に突入した。
税務研修ではまた次々に新しいことがらが登場し、個人的なことを思い煩っている暇などなかった。一方、同期がかなりいて、お互いの情報交換ができたことにほっとした。
意外なことに、規模の小さな区も相応に仕事がきついということを知った。なぜなら、職員が少ないからだ。人口や企業数が少ない分、全体の件数は少ないけれど、業務の種類はどの区でも同じだ。そのため、職員が少ない区は、一人が担当する業務の種類が多くなる。さらに、窓口のローテーションも早くなる。件数だけで、簡単に楽だとは言えないのだ。
研修中は、窓口や電話のために身構えていなくても済むことに気付いた。それがどれほどほっとするかということも。思えば区役所という職場は絶えず市民の視線にさらされている。ということは、これからも気を引き締めていかなくてはならないということだ!
花澤さんから飲みに行かないかと誘われたのは二日目のことだった。新人の宗屋と俺のことを気に掛けていてくれたらしい。連れて行ってくれたのは、気取らない小さな小料理屋だった。
気さくな花澤さんのおかげで、料理と酒に舌鼓を打ちながら楽しい時間を過ごせた。仕事や人間関係についてアドバイスをもらうこともできて、とてもありがたかった。
話題が蒼井さんのことになったのは、先日のテニス部の様子を話していたとき。宗屋が、練習のときの蒼井さんは結構根性があると言ったのがきっかけだった。
「蒼井は一生懸命すぎるところがあるからなあ。」
花澤さんが苦笑交じりに言った。
「高校までずっと、真面目に頑張るってことしかやってきてないんだよ。手を抜いたり、他人を頼ったり、甘えたりすることを知らないんだ。」
「あ〜、わかります! 俺、いっつも『もっと俺たちを使ってくれよ』って思ってるんですよ!」
「あはは、ありがとう。この前、蒼井も言ってたよ、いつも宗屋くんたちが親切にしてくれるって。」
(「ありがとう」なんだ……。)
蒼井さんのことなのに、花澤さんが。
「でも、姫はいつも遠慮してばっかりで。」
「そうだろうな。あの子は親切を素直に受け取ることができないんだよ。親切にされることに慣れてないんだ。」
「親切にされることに慣れていない……?」
冷酒のお猪口に口を付けて、一息ついてから花澤さんが言った。
「俺もあんまり詳しくは知らないけど、お母さんが厳しかったらしいよ。」
「家のしつけ、ってことですか。」
「うん。自分のことは自分でっていうのは当然だし、誰かが仕事をしているときに手伝わないのは悪いことだって言われて育ったらしい。いつだったか、『お母さんが家事をしているときに勉強をしていると怒られた』って言ってたよ。お母さんが台所にいるときには、一緒に台所にいなくちゃいけなかったって。家の手伝いが何よりも優先だったんだな。」
「勉強でもダメって、今どき珍しいっすね。」
「まあ、家族はお互いに協力し合うってことだから、悪いことじゃないけどね。」
それであんなにしっかりしてるんだ。一人暮らしで、お弁当まで作って。
「あんなふうに真面目できちんとした子は、学校では『しっかりしてる』って思われてたはずだよ。当然だろ? 礼儀正しくて、わがままは言わないし、自分のことは自分でやって、ほかのひとの手伝いはする。蒼井みたいな子は学校では頼られる側だったはずだよ。そして、そのまま社会に出てきちゃったんだ。」
頼られる側しか経験しないで社会に……。
「なんてことだ! 姫だって手伝ってほしいことがあっただろうに。」
憤慨している宗屋の言葉に花澤さんがふとやさしい目をした。
「だけど、言えないんだよ。…っていうよりも、手伝ってもらうなんてことは思い付かないみたいだよ。」
「そうなんですか……。」
「去年もね、大量の仕事が来て必死で仕事をしてるのに、電話を率先して取るのはやめなかったりね。」
そう言えば、この研修中も俺の分の仕事もこなしているはずだ。きっと電話もどんどん取っているんだろうな……。
「うちの六人は忙しいときはお互いに手伝い合ってて、自分だってほかのひとの仕事を手伝ったりしてるのに、自分のことは言えないんだよ。まあ、入力でも計算でも慣れたら速くて、自分でどうにかやり切っちゃったりもするんだけど、」
花澤さんはそこで小さくため息をついた。
「あんまりがむしゃら過ぎて心配になるよ。仕事中に息抜きすることもできなかった……っていうか、息抜きなんかしちゃいけないと思ってたんだから。」
「あ。そう言えば。」
「ん? どうした?」
「僕、蒼井さんに息抜きさせてもらいました。電話に慣れようと思って、一日中、電話に出ていた日に。夕方になってから、『一緒に売店に行きましょう』って誘ってもらって。」
「プッ、そうか! そう言えばこの前、宇喜多くんのことを『真面目すぎて心配だ』って言ってたなあ。」
「真面目な姫に心配されてるなんて、お前はどんだけ真面目なんだよ?!」
そう言われても。
「僕は心配されるほど真面目じゃないと思ってますけど。」
「はは、うん、俺もそうだと思ってるよ。宇喜多くんは蒼井よりもおとなだから。」
「ってことは、姫は子どもですか?」
「そうだな、経験が足りないっていうのかな。さっきも言ったように、真面目に頑張ることだけしかやってこなかったから。」
そこで花澤さんは楽しそうにニヤリとした。
「でも、一年で少しは学んだかな。宇喜多くんに息抜きさせようと思うくらいには。はは。」
軽く笑ったあと、花澤さんは静かな表情を見せた。遠くを見るような、懐かしそうな。
「俺はこの一年、蒼井に甘えることを教えようとしてきたんだ。」
その口調と表情にハッとした。花澤さんは、本当に蒼井さんのことを大事に育ててきたのだ……と思った。
「くだらない話をしたり、遠慮なくからかったり、無理やり休暇を取らせたりした。そのうち向こうも、俺には遠慮しなくなった。愚痴もこぼすし、悪態もついたりする。でも、そういう相手はあんまり多くないんだ。あの子は本当は人見知りなんだよ。」
(そうか。)
蒼井さんの礼儀正しさ。あれは相手との距離を開けるための柵だ。
「学校時代の友だちとかは……?」
宗屋の質問に、花澤さんは静かに答えた。
「めったに連絡とってないようだよ。いろんな思いを抱えてるんだ。たまにぽつっと漏らすだけだけど。だから」
そこで花澤さんは宗屋と俺を交互に見た。
「蒼井のこと、よろしく頼むよ。きみたちとは気が合うみたいだし。あの子は少し強引に甘やかすくらいでちょうどいいんだ。慣れると生意気な口を利くときもあるけど、そういうときは怒ってくれていいから。怒られれば素直に反省するよ。そういう本音のやり取りができる相手があの子には必要なんだよ。」
(そうか……。)
花澤さんは、これを言うために俺たちを誘ったのかも知れない。あそこに残してきた蒼井さんのことを頼むために。
「それじゃあ、僕たちはお節介でもいいってことですね?」
「姫に親切にしていいっていうなら、いくらでもやりますよ。」
「ありがとう。あ、でも。」
そこで花澤さんがちょっと慌てた。
「これは二人だけに頼むんだからね。ほかのひとには言わないでくれよ?」
「はい。」
宗屋がちらりと俺を見た。視線を合わせながら、俺も宗屋の言いたいことがわかった。
これは、特に前下さんには知られない方がいい。
家に帰ってから葵に電話をした。蒼井さんがOKしたことを伝えるために。
一緒に、蒼井さんがどんなひとなのかも簡単に話した。当日は楽しく過ごさせてあげたいという俺の気持ちも。
「大丈夫。楽しくなるに決まってるよ。」
葵はそう請け合ってくれた。
「宇喜多さんがいい子だって思うなら、きっとわたしたちも気に入るから心配しないで。」
「うん。俺もそう思う。」
あのメンバーと一緒に蒼井さんが大笑いしている場面が目に浮かんできて、つい自分も笑ってしまった。
「ちゃんと計画が決まったら連絡するね。」
「よろしく頼むよ。」
葵なら大丈夫。きっと蒼井さんを楽しく過ごさせてくれるだろう。




