126 うちの家族
蒼井さんを降ろしてから家に着くまで三十分ちょっとかかった。ということは、迎えは七時過ぎに家を出れば良いということだ。
今日はもう一度会えると思うと心が弾む。彼女には「ただ心配だから」と説明したけれど、もちろん、二人で会いたいという気持ちはあるのだ。
家に入ると奥から賑やかな話し声がする。ダイニングで母と姉がおやつでも食べているのだろう。
「ただいま」
ダイニングのドアを開けて声を掛けると、冷房のさわやかな空気と一緒に三人の視線がぶつかって来た。「おかえり」と笑顔で答えた母と一緒にテーブルを囲むのは一番上と三番目の姉だ。三人の前には予想どおり、チョコレートの箱が置いてあった。
「いらっしゃい、雪姉さん。また亮二さんとケンカ?」
「違うよ、今日は沙雪の顔を見せに来たの。亮くんもあとで夕飯食べにくるよ」
「ああ、そうなんだ?」
うなずきながら、雪姉さんが自宅に来る頻度を考えてみる。だいたい月に一、二回というところか。だとすると、蒼井さんに比べて格段に多い。まあ、姉さんの家は近所だから当然と言えば当然だけれど……。
「母さん、俺、今日は七時過ぎにまた出かけるから」
予定を伝えると、母親は「夕飯どうするの?」と尋ねた。「飲みに行くの?」と尋ねたのは雪姉さん。「夜遊び? いいねえ」とからかうのは三番目の咲姉さんだ。
「飲み会じゃないよ、車で出かける。出かける前に何かちょっと食べて行くけど。じゃあ」
「ちょっと待ちなさい」
ドアを開けた俺を雪姉さんが呼び止めた。振り向くと、少し怖い顔をしていた。
「誰と、どこに、何をしに行くのか話してないよ?」
「何だよ? 俺はもう中学生じゃないよ」
姉たちと母は昔から俺をからかって遊ぶ。本気で相手にするのは労力の無駄だ。だから答えてすぐに背を向けた……ら。
「ってことはデートか……」
背後から声が。こっそりの口調で、でも、俺に聞こえるように言っているのが見え見えだ。
「あ、そうなの? へえ、そういう相手、いるんだ?」
「いるよねー、雷斗?」
「あら、じゃあ、今日は帰って来ないの? チェーン締めちゃっていい?」
(「帰って来ないの?」って!)
母のあっけらかんとした問いかけにびっくりした。母親が息子にそんなことを簡単に言うなんて!
「えっ、やっ、チェーンは……あ」
あわてた拍子に肩のテニスバッグがドアにぶつかって大きな音を立てた。
「動揺してる〜! やっぱりデートなんだ〜!」
「夜から出かけるって露骨すぎない?」
「奥手だと思ってた雷斗もとうとうねえ……」
ドアの無事を確かめる耳に三人三様の声がのしかかってくる。それと一緒に、帰らない場合の情景がどーんと浮かんできた。明かりを落とした部屋。見つめ合う蒼井さんと俺――
それを急いで振り払い、平静を装う。
「あー、ええと、帰ってくるから、玄関のチェーンは掛けないでくれる?」
けれど、頭の中では蒼井さんとの甘い場面が続いている。間近に迫る潤んだ瞳、ふっくらした唇。もしもこれが実現したら……、ああ、胸がざわざわする!
(いや。ダメだダメだ!)
気を抜いちゃダメだ。姉さんたちはそこから攻めてくる。しかも、今日は三人だ。
「でも、万が一ってことが――」
「無いです」
「勢いで、とか」
「ありません」
「でも、誘われるかもよ?」
「!」
(蒼井さんが?)
また想像が走り出す。
(誘う? 俺を?)
もしも「帰らないで」って言われたら。「一人は淋しい」って言われたら。「一緒にいて」って言われたら……。
(もしかしたら…………言ってくれるかも)
最初は言わなくても、素直な蒼井さんのことだ、俺が上手く誘導すれば――。
(うわ、ダメだ、そんなこと!)
俺は蒼井さんになんてことを!
「ぜっっったいに無いから!」
蒼井さんにそんなことをしちゃいけない。させてもいけない!
「なーんだ、つまんない」
「雷斗に外泊なんてできるはずがないとは思ったけどねー」
「あなたたち、よしなさい。きっと単なるお友だちなのよ」
母の言葉が胸を刺した。
「違うからっ」
そこだけは言っておかなくちゃ。断じて「単なるお友だち」ではない。そりゃあ、俺たちは恋人未満だけど、間違いなく友だち以上なのだ。
「俺たちは特別な仲なんだよ」
「そう思ってるのはアンタだけじゃないの?」
「そうだよ。車持ってるから便利に使われてるだけかもよ?」
「やだ! 雷斗ったら、いくらモテないからって、そこまで卑屈にならないくてもいいのよ?」
「違うよ!」
まったくなんてことを言うんだ!
「蒼井さんはそんな子じゃないよ! 向こうは来なくていいって言ったんだよ。だけど夜だし、ちょっと離れたところに出かけてるから、心配…だから………」
三人がニヤニヤしていることに気付いた。
「蒼井さんねー」
「どんなお嬢さんかしら?」
わざとらしく顔を見合わせる三人。苦々しい思いでいたら、雪姉さんが身を乗り出した。
「ねえねえ、あのときの子?」
「え、雪佳、見たの?」
「あのときって?」
俺よりも早く、母と咲姉さんが反応。
「いや、見たわけじゃないんだけどね、夏の初めだったっけ? 雷斗がワイシャツに抱き合った跡を付けて帰って来たのは」
(うわ、その表現……)
俺にぼろを出させようと、わざと品の無い言葉を使っているのだ。そういうの、沙雪ちゃんの教育上も良くないと思うけど。
「夏の初め?」
「もう三か月くらい?」
「あのときは『やさしいお兄ちゃん』って言われたとかで喜んでたよねー? 雷斗のことだから、どうせ進展してないんでしょう? まだお兄ちゃん役で喜んでるんじゃないの?」
雪姉さんの言葉に残りの二人が納得したように深くうなずいた。
「ふ」
思わず勝ち誇った笑みが出た。たちまち余裕も戻って来た。
(いつまでもそのままだと思っていればいいさ!)
蒼井さんの気持ちは分かっている。今度こそ間違いない。表情だけじゃなく、握り返してくれた手からも伝わって来た。彼女と俺は相思相愛だ。姉さんたちが何を言おうとも。
「想像だけならご自由にどうぞ」
そう言うと、三人とも少し驚いたように俺を見上げた。
「俺たちはちゃんと信頼関係を築いてるから、何を言われても平気だよ」
三人に背を向けながら、自分の言葉を確信していた。姉たちへの反撃のつもりで口にした言葉だけど、揺るぎの無い真実だ。
「あ、そうだ、母さん」
ドアの取っ手に手をかけたところで思い付いた。
「もし俺が結婚するって言ったら」
振り向くと、姉たちが「あんた、結婚って!」「大学卒業したばっかりじゃない」とツッコミを入れてきた。でも、母はすうっと表情をあらためて、ただ姿勢を正して無言で俺を見た。
「相手の家族事情とか……気にする?」
蒼井さんが以前、気にしていたこと。貧しいことやご両親が離婚していること、そして、今日の車内で気になった彼女とお母さんとの関係。そういったことをうちの家族がどの程度の重さで捉えるのか、念のために聞いておきたい。
「家族の事情?」
「うん」
「婿に欲しいとか、そういうこと?」
「それは……どうかな? その……、どんな家族かってこと……かな」
「ああ、そうねえ……」
母が軽く眉を寄せて首をかしげる。数秒後、不意に明るい表情で微笑んだ。二人の姉も今は黙って母を見守っている。
「ご本人次第かな」
「本人次第?」
「そう。そのお嬢さんが素敵な人ならあんまり気にしない。逆に、『どうしてかしら?』って思うような人だったら、どんな育ち方をしたのか気になると思うの」
「ああ……、なるほど」
言いたいことは分かる。
「でも、ご家族の状況だけで結婚に賛成か反対か……という判断はしないな。あくまでもご本人次第ね。その子があなたに相応しいかどうか、ね」
「相応しいって?」
「その子と結婚して雷斗が幸せになれるかどうかってこと。その子の背景じゃなく、その子自身が雷斗を幸せにできるかどうか。それが一番」
それを聞いた姉たちが顔を見合わせてうなずき合う。俺も母の考えに満足した。
「わかった。ありがとう」
母が俺の幸せを願ってくれていることがよく分かった。それが思いのほか嬉しい。
「たぶん大丈夫だよ。合格する」
その点は何も心配していない。俺は蒼井さんと一緒なら幸せになれる自信がある。いや、二人で幸せになるのだ。さらに、彼女が母の眼鏡に適うことも、姉たちと父が彼女を気に入ることもほぼ間違いない。
「ねえ、一度連れて来なさいよ」
微笑んだまま、母が言った。今はもうふざけてなんかいない。俺の判断を信じて、その一方で心配もして、俺がどんな相手を選んだのか確認したいと真剣に思ってくれているのだろう。姉たちももう何も言わず、そっと俺を見ている。
「うん。そうだね。近いうちに」
それだけ言ってダイニングを後にした。
(うちの家族は大丈夫だ)
階段を上りながら一人でうなずいた。
問題ないとは思っていたけれど、確認が取れて良かった。後になって不都合なことを言われて、蒼井さんを傷付けるようなことになるのは最悪だから。
(あとは蒼井さんだけだ)
彼女が「うん」と言ってくれればすべてが丸く収まる。彼女が決心してくれれば。
それは簡単ではないかも知れない。でも、大丈夫。俺は待てる。
(そう。待てる)
だって。
蒼井さんも俺と一緒にいたいと思ってくれているはずだから。




