108 ◇ 思い出と今、そしてこれから? ◇
思い出さないようにしてきた二年生の合唱大会。それが今、樫森くんの言葉でよみがえる。
(あのとき……。)
忘れたかったのは自分が上手くできなかったからだけじゃない。その思い出が樫森くんともつながっているからだ。忘れられない、そして淋しい思い出と。
それを今、こんなふうに持ち出されるなんて……。
戸惑うわたしの前で、樫森くんがクスりと笑った。
「あの本番のとき、蒼井、すげえ緊張してたよな? 俺、女子にあんなに真剣に見つめられたの初めてで、ドキドキしちゃったよ。」
ふざけ気味の態度にほっとする。気軽な思い出話なら大丈夫だ。
「きっと怖い顔してたよね。もう不安で不安で、何かにすがりつかずにはいられなくて……。」
「そこに俺しかいなかったってわけか、ははは。」
「笑い事じゃないよ。思い出すと、今でも憂うつになるんだから。」
クラスの女子から投げ付けられた言葉がまだ耳に残っている。それを追い払いながら、紅茶にゆっくりと口を付ける。
「蒼井が気にすること無いだろ? 無理に押し付けられたんだから。」
「でも、引き受けたからにはちゃんとできなきゃ。」
「だけど蒼井、頑張ってただろ? 俺、知ってるよ。」
再びの静かな口調に思わず顔を上げた。向けられた表情は穏やかなのに、胸の中で不安とも警戒ともつかない何かが小さくゆらめく。
「放課後、一人で練習してたじゃん。伴奏が決まったすぐ後から。東棟の一階、窓から何回も見かけたよ。」
「あ……。」
古いピアノが置いてあった部屋。音楽の先生が希望者に予約制で使わせてくれていたのだ。
窓の外を行き来する生徒がいるのは知っていた。けれど、わたしのことなど気にするひとはいないと思っていた。
「借りてたキーボードだって、毎日、家に持って帰ってたよな。」
(それも知ってるの……?)
なるべく生徒が少ない時間を見計らっていたのに。
「あんなでっかいの、よく担いでるなって思ってた。」
「まあ……、家にピアノが無かったからね。」
習うのをやめた中一のときに売ってしまったのだ。
それを知られることも嫌だった。貧しいことを証明するみたいで。それも断った理由の一つだった。
けれど、同じ小学校だったクラスメイトがわたしの名前を出してしまった。そうして、みんなから誰もできるひとがいないと言われ、下手でも良いからと拝み倒されて、仕方なく引き受けた。でも、そもそも技術的に無理があったのだ。結果的に嫌な思い出になってしまい、あれからずっと後悔している。
(でも……。)
あれをやったから樫森くんと連絡先を交換することになって、それが今日につながっている。そう思うと不思議な気がする……。
「蒼井が頑張ってるの見て、俺もちゃんとやらなくちゃって前向きになったんだ。本当は指揮者なんてガラじゃないし、前に出て一人で何かするなんて恥ずかしかったけど。」
「そうだったの? どうしてやることになったんだっけ?」
「……覚えてない?」
がっかりされてる? でも本当に、樫森くんが指揮者に決まった経過はあまり記憶が無い。自分のことでいっぱいいっぱいだったのだ。指揮者が決定したあとに、指揮と伴奏って打ち合わせが必要なのだろうか、そうだったら恥ずかしくて困るなあ、と思ったことだけは覚えているけれど。
「池下の推薦。」
つまらなそうにつぶやく樫森くん。
「あいつ、俺の気持ち知ってて、チャンスだからって。」
「ふうん……。」
チャンスって何のだろう? 音楽の成績が上がるとか?
(ん?)
今、観察されていたような……。
「なあに?」
「いや、なんでもない。」
でも、またがっかりしてる?
何をどうフォローすれば良いのかわからないので、とりあえずワッフルを口に運ぶ。そのあいだに樫森くんは立ち直ってくれたよう。また普通に話し始めてくれた。
「練習も大変だったよなあ。一部の女子がときどき蒼井に嫌味言ってただろ? 俺、怒鳴りつけてやりたかったよ、『お前らが無理矢理やらせたんだろ!』って。」
「……ありがとう。」
その気持ちだけで報われた気がする。
「本当に言おうと思ったんだぜ? だけど池下に、俺が出て行くと話がこじれるからよせって言われて……。」
「そうだったの? ああ、本当にありがとう。その気持ちだけで十分だよ。」
あの子たちはもともとわたしを目の敵にしていた。わたしの伴奏を非難することで自分たちの優位性を誇示していたのだ。そこで男子がわたしを庇ったりしたら、彼女たちの言動はもっとエスカレートしていたに違いない。
「さすが、池下くんはよく見てるねえ。」
「うん。今でも助けられてるよ、いろいろ。」
いつも樫森くんと一緒にいた池下くん。冷静な雰囲気の一方で、男子同士でふざけて騒いでいることもよくあった。
「今回……、蒼井に連絡してみろって言ってくれたのも池下なんだ。」
「ああ、お願いごとだったよね?」
「うん……。」
わたしが役に立てることってなんだろう? もしかしたら市役所に勤めていることが関係してる? でも、それこそ役になんか立たない。わたしには何の権限も無いし……。
「あの……蒼井、さ、」
樫森くんが肩をすぼめて見上げるようにわたしを見た。
「俺と付き合わない?」
(え……?)
小さい声で早口だった。「俺と付き合わない?」って聞こえたような気がするけど……。
(マジですか?)
若者ことばなど普段使わないのに、どういうわけか、いきなり浮かんできた。そのまま口に出なかったのは市民応対で鍛えられている成果だ。でも、かなり動転している。
「え、それは……?」
聞き違いか勘違いかも。だって、この前はすれ違った程度で、再会と言えるのはほぼ一年半ぶり。しかも、高校のころだって、じっくり話したことなど無いのだ。それとメールを一往復。ちゃんとした会話は今日が初めてと言ってもいいくらい。
(でも……、わたしはそういう状況でも好きになったのか……。)
接点が無くても恋はできるってことだけど……、その相手がわたし? そこが信じ難い。
「あー……。」
樫森くんは両手で腿のあたりをごしごしこすりながら、落ち着かなげに左右に視線を走らせた。つられてわたしも周囲を見るけれど、余裕を持って配置されているテーブルからこちらに注意を向けている気配は無い。
「蒼井、彼氏いないって聞いたから……。」
この前のクラス会のときに聞いたのね。
「うん。それはそうなんだけど……。」
だからと言って、いきなり「付き合う」に行き着くもの?
「ええと、本当はさあ、三年のとき、大学が決まったら告白しようと思ってたんだ。」
「うぇ? ホントに?」
「うん……。」
全然知らなかった!
「で、だ、だけど、三年になってからはほとんどしゃべってなかったよね?」
それは二年のときも同じだったけれど。三年ではさらにクラスも違っていて、廊下と選択科目で目が合うとお互いに会釈するくらいで……。
「うん、まあ……、照れくさくて。」
そう言って樫森くんは視線を落とした。
その気持ちはもちろん、わたしだってわかる。わかるけど……。
「本当は二年のときからずーっと気になってたんだ。でも、俺なんかダメだろうなあって思ってて。だけど、卒業したら会えなくなっちゃうから、大学に合格したら告白しようって決心して。そうしたら浪人することになって……。」
なんていうことだろう。わたしもずっと想っていたのに。
「浪人中は、『合格したら、蒼井と同じ大学生だ!』って思って勉強してた。就職したって知らなかったから。で、今年やっと合格して、蒼井に連絡取ろうと思ったんだけど……今度は自信が無くなっちゃって。」
そこで情け無さそうに笑った。
「一年遅れたこととか、もう忘れてるよなーとか、いろいろ。」
「忘れてはいなかったよ。」
そう。忘れたのではなく、あきらめたのだ。もう二度と会えないひととして。
「うん……ありがとう。だけど、今年の夏になって、田波から蒼井に彼氏ができたって聞いたから……。」
「あのウワサは――」
「うん、今は誤解だって知ってる。でも、あのときは信じたから……、最後にひと目会いたくて、田波に頼み込んで二次会に入れてもらったんだ。」
(そんな……。)
わたしに会うために? これほど長い間?
「あの二次会で、ウワサが間違いだったって聞いた。それで、だったら……って。あそこで会ったとき、蒼井、俺のこと覚えててくれたし。」
「うん。すごくびっくりしたけど。」
「うん。驚いてるのはわかった。はは。」
このさわやかな笑顔が懐かしい。この声がわたしに向かって発せられるときが来るなんて思ってもみなかった。
「結局、電話するまで二週間もかかっちゃった。覚悟が決まらなくて、池下にも呆れられてさあ。だけど、きのう……、」
少しの間のあと口を開いた。
「蒼井、俺の連絡先、消してなかった……よな?」
「え、あ、ああ……うん。」
一瞬、後ろめたくなった。隠していた想いを見透かされたような気がして。
「あれで最後の最後に気持ちが固まった。伝えよう…って。」
「じゃあ、頼みって……。」
「俺と付き合ってください。」
(本当なの……?)
二年間、好きだったひと。
見たり思ったりするたびに、苦しくて、嬉しくて、悲しくて、恥ずかしかった。
学校に行けば会える可能性があるから、毎日登校するのが楽しみだった。
久しぶりに会ったのに、こんなに自然に話せる。
仕事の話をあんなふうに聞いてくれた初めてのひと。
きっとこれからも楽しく過ごせるって思う。
(あんなに好きだったひと……。)
もう一話、春希が続きます。




