エピローグ これからも
「——澪!」
脇目も振らずに飛びつくと、澪は二、三歩よろめきながらも、しっかりと抱きとめてくれた。
スーツケースのハンドルがガコンと傾く音がしても、そんなのどうでもよかった。
「どうして……? 帰ってくるの、もう少し後じゃなかったの……?」
腕の中から見上げると、澪はちょっと照れくさそうに笑う。
「ごめん。驚かせたくてさ。……会いたかったから、すぐに顔が見たくて」
「っばか……!」
私は澪の胸に、ぎゅっと顔を押し付けた。
「変なところで染まってんじゃないわよ……!」
声がかすれる。目の奥がじんわりと熱くなり、涙となってこぼれ落ちた。
澪はゆっくりと頭を撫でてくれていたけど、ふいに「あっ」と小さく声を上げ、手を止めた。
「……どうしたの?」
「いや、なんでも——」
「白石君、久しぶりー!」
澪が言葉を濁らせたとき、後ろから朗らかな声が響いた。
「ゆ、悠先輩っ……⁉︎」
私は反射的に跳ね起き、澪から距離を取る。
(ここ、校門だった……っ!)
顔が一瞬で真っ赤になるのを感じながら、慌てて鞄の持ち手をぎゅっと握る。
「お久しぶりです、椎名先輩」
澪は苦笑しながらぺこりと頭を下げ、悠の隣に目を向けた。
「神崎も、お疲れ」
「よう。なんか、顔つき変わったんじゃねーの?」
「えっ、そうかな。自分じゃよくわからないけど——」
「れ、澪っ!」
私はたまらず澪の袖を引っ張った。
あんなところを見せてしまったのに、平然と談笑なんてできるわけがない。
勢いに任せて、ぺこりと頭を下げる。
「と、とりあえず! お疲れ様でした!」
口走った自分の言葉に内心で赤面しながら、そのまま澪の手を取って早足でその場を後にした。
「車には気をつけなよー!」
背後から、悠先輩の楽しそうな声が飛んでくる。
「……自分はまだ、キスもしてないくせに……っ」
小声で唇を尖らせると、隣を歩く澪がクスクスと笑い出す。
「笑ってんじゃないわよ……!」
「ごめんごめん。……なんか、懐かしいな。夏希のそういうところ」
「し、知らないわよ」
私はぷいと顔を背けながら、それでも頬が緩んでいくのを止められなかった。
家が近づいてくると、胸の奥がじんわりと熱くなっていく。
(これから、また澪のいる生活が始まるんだ……っ)
気を抜くと、スキップを始めてしまいそうだ。
「久しぶりに、ウチ寄ってく?」
澪の問いに、私は間髪入れずにうなずいた。
「もちろん」
澪は、部屋に入るとスーツケースを広げた。
「軽く整理するから、ちょっと待ってて」
「私も手伝うわ」
「えっ……あ、うん。ありがとう」
澪は少し照れたように頬を掻き、それでも嬉しそうに笑った。
次々と鞄から出てくる衣類や資料に、さっそく生活感が戻ってくる。
「澪、パンツはちゃんと畳みなさい」
「や、やめてくれ……っ」
真っ赤になって下着をひったくる澪に、思わず吹き出す。
「意外と、可愛い柄だったわよ?」
「も、もうやめてくれって……!」
「ふふ、褒めてるのだけど」
そんな、他愛のないやり取りが、懐かしくてたまらなかった。
ひと段落ついた頃、自分の首筋に汗が張りついているのに気づいた。
部活があったし、準備もそこそこに校門を飛び出してきたのだから、当然といえば当然だ。
「澪、ちょっと一回帰っていいかしら?」
「えっ、なんで?」
「汗、流したいのよ」
そう言って立ち上がると、澪が穏やかな笑みを浮かべたまま、近づいてきた。
「れ、澪?」
「——大丈夫。臭くなんかないよ」
澪はそう言いながら私を抱き寄せ、首筋にそっと顔を埋めてきた。
「ちょっと……っ」
思わず息を呑んだ。
嫌じゃないけど、汗の匂いを嗅がれるなんて、恥ずかしくてたまらない。
「お風呂、入るだけだから」
澪の胸に手を添え、押し返そうとするけど——、
「ごめん……今は、離れたくない」
その言葉に、胸の奥がとくんと鳴る。
私だって、今は少しでも澪と一緒にいたい。でも、たとえ嫌がられていなくても、やっぱり好きな人の前では汗をかいたままじゃいたくない。
「……じゃあ、一緒に入る?」
気がつけば、そんなことを言っていた。
「えっ……?」
澪が呆気に取られたように目を見開くのを見て、私は自分が何を口走ったのか気づいた。
「ち、違うわよっ! 澪がわがまま言うからっ……や、やっぱり私、一回かえ——」
「待って!」
逃げ出そうとするけど、澪にガシッと腕を掴まれてしまう。
「夏希がいいなら……一緒に入りたい。その、実は前から、一緒に入ってみたいとは思ってて……っ」
必死に言葉を並べる澪に、苦笑が漏れる。
「——変態」
「うっ……ごめん」
ジト目を向けてみせるけど、シュンとなる澪に、自然と笑みがこぼれた。
「でも……まぁ、今日だけは、特別に許してあげるわ」
そう告げると、澪は嬉しそうに笑った。
(だから、なんでそんな純粋な顔ができるのよ)
そう呆れてしまったけど、お風呂に入る前から、澪はすっかり準備が整っていたようで、不自然に腰を引いている。
「澪、どうしたの?」
「わ、わかるだろ」
まだシャワーも浴びていないのに、澪はのぼせたみたいに真っ赤になっている。
自然と、笑いが込み上げてきた。
馬鹿にしたいわけじゃない。きっと、嬉しかったんだと思う。
——そんなやり取りをしたあとに、穏やかな裸の付き合いになるはずもなく。
お風呂を出てから、空白の時間を埋めるように、お互いを求め合った。
熱が冷めるころには、私はクタクタになり、澪に腕枕をしてもらっていた。
「疲れたな」
「……誰のせいよ」
そう言ってつねるけど、澪はちっとも悪びれずに「ごめんごめん」と笑っている。
まだ少し余裕がありそうだ。こっちはもう、腰が抜けてしまっているというのに、ずるい。
「この一ヶ月、夏希はどんなふうに過ごしてたんだ?」
「メールに書いた以上のことはしてないわよ?」
「それでも、夏希の口から聞きたいんだよ」
澪はこちらを見て、愛おしげに瞳を細める。
「っ……」
じわじわと頬に熱が集まる。
やっぱり、言葉がストレートになってる気がする。向こうの友達の影響だろうか。
「……勉強は頑張れたし、部活も結構忙しかったから、退屈ではなかったわね」
「そっか。まあまあ充実してたんだな」
澪が微笑みながら、優しく頭を撫でてくれる。
「まあ……そうね。そっちは?」
「毎日大変だったよ」
澪が少し遠い目になって、苦笑した。
「ホストファミリーもクラスメイトも優しかったけど、やっぱりノリとかは違うし、会話一つ一つに神経使うしさ。けど、思ったよりも楽しかった。色々知れたし、英会話の学びも活かせたからな」
「そう。じゃあ、一ヶ月よりもっと長いほうが良かったんじゃないの?」
私としては、軽く揶揄っただけのつもりだった。
けど、澪は真面目な表情になって、
「いや、一ヶ月で良かったよ。重く感じさせちゃうかもしれないけど……やっぱり、夏希に会えないのは寂しかったから」
「……ばか。重いなんて、そんなの……私だってそうよ」
私はそっと澪の胸元に顔を埋める。
「充実してたなんて、うそ。早く帰ってこないかなって、いつも思っていたわ。……もし、半年とか一年だったら、本当に耐えられなかったかも——きゃっ⁉︎」
くるりと視界反転して、気がつくと、天井と澪の顔を見上げていた。
彼の瞳は、獲物を前にした獣のようにギラついている。
「もう一回だけ、いい?」
「えっ……に、二回もしたのに?」
今まで、一日三回というのは記憶にない。
「無理させてごめん。でも、今のは夏希が悪いと思う」
「そんなこと——んっ!」
……結局、途中で澪の体力が尽きることはなかった。
少しばかり、たくましくなりすぎたかもしれない。
◇ ◇ ◇
——翌朝。
春の光がカーテン越しに差し込む中、私は目を覚ました。
まだアラームが鳴っていないことに気づき、苦笑いが漏れる。
「遠足前の、小学生じゃあるまいし」
自分にツッコミを入れるけど、二度寝する気にもならなかった。
キッチンに立ち、卵を取り出す。何度か作ったことのある、甘さ控えめの卵焼き。もちろん、澪用だ。
焼き上がった卵焼きを弁当箱に詰めたあと、私は鏡の前に座った。
久しぶりに、丁寧に髪を整える。今日だけは、少しだけ時間をかけたくて。
(別に、気合いを入れてるわけじゃ……いえ、それは無理があるわね)
今日から、また澪のいる毎日が始まる。
そのことが、ただひたすら嬉しかった。
時計の針が、ゆっくりと進んでいく。
インターホンの鳴る時間は、もう少し先のはずなのに、私はすでにソワソワしていた。
そして、
——ピンポーン。
予定より少しだけ早く、インターホンの音が鳴った。
「っ……」
私は反射的に立ち上がり、玄関へ駆け出そうとしたけれど、途中でブレーキをかけた。
(落ち着いて、私)
深呼吸して、あえてゆっくりとドアノブに手をかける。
扉を開けると、そこには——。
「夏希、おはよう」
一ヶ月ぶりの、澪の制服姿。
思わず頬が緩む。平静を装っていたつもりだったけど、きっと、顔はとっくににやけていた。
「おはよう、澪」
「あぁ」
澪は、ほんの少しだけ照れたように微笑んだ。
そして、ゆっくりと右手を差し出してくる。
「——夏希」
胸の奥がじんと熱くなる。
(手を繋ぐだけなのに、なんでこんなにドキドキするのかしら)
自分に苦笑しながら、その手をぎゅっと握った。
そこから伝わる温もりと鼓動が、心地いい。
「今日から、またよろしくな」
「えぇ。こちらこそ」
朝陽に背中を押されるように、並んで歩き出す。
桜の花びらがそよ風に乗せられ、まるで私たちを祝福するように、軽やかに空を舞った。
これからも、きっと何度でも、この桜並木を一緒に歩ける——。
そんな気がして、私はもう一度、澪の手を握りしめた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
夏希さん視点のサイドストーリーも、これで完結となります。
気づけば本編の話数を上回っていて、自分でもちょっと笑ってしまいました(笑)。
けれど、それもひとえに、最後まで見届けてくださった皆様のおかげです。
評価やブックマークなど、あたたかい応援の一つひとつが、書き続ける励みになりました。
改めて、この世界を一緒に見届けてくださって、本当にありがとうございました!




