第18話 夜の始まり
澪が動けるようになったあとは、私たちは再び海へと戻った。
けど、楽しい時間はあっという間だった。
気がつくと空がオレンジ色に染まり始めていて、私たちは恒例のツーショット撮影を始めた。
最初に提案したときはすごくドキドキしたけど、勇気を出してよかった。
これでまた、澪専用のフォルダに写真が追加される。寝る前に一通りを見るのが、すっかり日常になっていた。
(澪もそんなことしてくれていないかしら……なんて)
そんな妄想をしてニヤけてしまうくらいには、テンションが上がっていた。
だから、最初はあまり緊張もしていなかったのだけど——、
「夏希、もうちょっと近づいて」
澪に招き寄せられて、水に濡れてしっとりとした彼の肌を意識した瞬間、途端に心臓の鼓動が早まった。
「いいの? また、前屈みになられても困るのだけど」
からかうように言ってみせるけど、実際は——
(こ、こっちのほうが困ってるんだから……っ)
こんな近距離で、しかも肌を密着させるなんて、聞いてない。
「……もしかして、照れてる?」
「なっ……!」
全身の血が顔に集まるのがわかった。恥ずかしくてたまらなかった。
それなのに——
「……えっと、その、夏希……かわいいよ」
その追い討ちで、完全にキャパがオーバーした。
(うそ、そんな……ずるい)
反則だった。そんな顔で、そんな声で、そんな真っ直ぐに言われたら——
「もう、なんなのよ……っ」
照れ隠しに、澪を睨みつけることしかできなかった。
けど——、
「決めたんだよ。もう絶対、卑屈になったりしないし、正直に気持ちを伝えるって。……夏希が、そう思わせてくれたんだ」
真剣な表情でそう言われたとき、言葉にできない想いが湧き上がって。
気がつけば、澪の腕に抱きついていた。
水着越しでも伝わってくる体温に、自分でもびっくりしたけど、澪の動転した表情を見ていると、すぐにイタズラ心が戻ってくる。
「ふふ、さっきまでの余裕はどこにいったのかしら?」
「しょ、しょうがないだろ! 急にこんなの……っ」
澪が瞳を泳がせた。
(ちょっとはたくましくなったけど、やっぱりまだまだヘタレね)
——そんなふうに気を緩めていたとき。
澪の腕が、私の肩をぐっと引き寄せた。
「っ……!」
その瞬間、全身の血が沸騰した。
手が肩に置かれているだけなのに、まるで全身を包まれているような気がして、胸の奥がじんわり熱くなる。
でも、それ以上に、澪が勇気を出してくれたことが嬉しくて、応えたくて。
覚悟を決めて、そっと彼の腰に手を添えた。
「っ……」
澪の動揺が全身から伝わってきて、自然と微笑んでしまう。
そして、シャッター音が鳴った。
——写真の中の私は、誰がどう見ても幸せだとわかるほど、照れたように笑っていた。
(なにだらしない表情してんのよ……)
自分でも呆れてしまったけど、澪は「いい写真だな」って嬉しそうに目を細めた。
こちらを愛おしげに見つめる眼差しに、途端に胸がキュッと苦しくなる。
(そんな表情されたら、また……っ)
「じゃ、じゃあ、行きましょう」
さっき以上にデレデレになっている顔なんて見せたくなくて、私はくるりと踵を返した。
(でも、待って)
澪がくれた、イルカのペアストラップ。
くっつけたらハートになる仕様なのだから、せっかくなら一緒に撮ればよかった。
そう思ったけど、私から「行きましょう」なんて言った手前、やっぱりもう一回撮ろうなんて言えない。
(でも……)
内心で葛藤しつつ、それでも手の中のストラップを見つめていると、
「夏希、その……これ持って、もう一回撮らないか?」
そうはにかむ澪の手の中にあったのは、私が握っている物の、色違いだった。
——ああ、もう、本当に。
普段は鈍いくせに、どうしてこんなに私の喜ぶことをしてくれるのだろう。
「まあ、記念になるものね」
恥ずかしくて、仕方なくという態度を取ってしまったけど、
「ごめんな。時間取らせて」
そんなふうに気遣われたら、意地を張ってる私が子供らしく思えてしまった。
「別にいいわよ……私も、撮りたかったから」
波の音にかき消されてしまうくらい、か細い声になってしまったけど、澪はしっかりと受け止めてくれた。
「そうか……ありがとな」
「なんであんたがお礼を言うのよ」
このやり取り、前にもやったな——。
そんなことを思いつつ、再び澪と寄り添う。
ハートを合わせるのは照れくさかったけど、それ以上に心と心が通じ合っている気がして。
写真の中の私はまた、だらしない表情を浮かべていた。
でも、きっとそれでよかったんだ。
だって、澪がまた幸せそうに微笑んでくれたから。
夕食を済ませ、駅まで歩き、電車に揺られる。
最初は立っていた車内も少しずつ空いて、並んで座ることができた。
夕陽はもう沈み、空はすっかり群青色に染まっていた。
電車の揺れに身を委ねながら、今日一日を思い返す。
(……思ってたより、ずっと楽しかったな)
水着になるのも不安だったし、人目も気になってた。
でも、澪が「似合ってる」って言ってくれて、何より「他の人には見せたくない」って、真っ直ぐに伝えてくれた。
(……本当に、独り占めしたいって思ってくれたんだ)
そう思えたことが、たまらなく嬉しかった。
でも——
(……もし、黒の水着を着てたら、澪はどんな顔をしたのかしら)
ちょっとだけ、気になってしまう。
あのときは無理って思ったけど、もしまた機会があるなら、いつか澪に見せてみたい。
(……そしたら、どんな反応してくれるんだろう)
そんなことをぼんやり考えながら、私は澪の肩に甘えるようにもたれかかった。
あったかくて、柔らかくて、安心する匂いに包まれて——
「寝てもいいぞ、起こすから」
澪の優しい声が、頭上から届く。
「……大丈夫よ」
そう答えたけれど、もう目も開けていられない。
(澪が、こんなに安心させてくれるのが悪いのよ……)
そう心の中でつぶやき、私は静かに眠りに落ちていった。
◇ ◇ ◇
「もうすぐ着くよ」
「ん……」
澪に肩を叩かれ、私はうっすらと目を開けた。
意識がはっきりし始めると、徐々に羞恥心が襲ってくる。
(私、電車で澪に寄りかかって寝ちゃったのね……)
じんわりと頬が熱くなる。
それでも、改札を抜けるころはどこかふわふわとした気持ちだったけど。
「このあと、お願いしたいことがあるんだけど……ちょっとだけ、時間もらえないか?」
澪が緊張した面持ちでそう頼んできた瞬間、息が詰まった。
次の瞬間、脳裏にあの黒い水着が浮かんだ。そして同時に、今日はまだ両親が帰ってこないことも。
「……シャワーを浴びてからでもいい? その、汗をさっぱりしたいのよ」
言ってから、ますます心臓の鼓動が早まる。
私はもう、はっきりとその先の光景を思い描いてしまっていた。
「……まだ、そうとは限らないし」
玄関のドアを閉めた瞬間、そうつぶやく。
シャワーを浴びるのだって、汗を流してさっぱりしたいだけ。ほんの、それだけだ。
——そのはずなのに、気づけばいつもより丁寧に体を洗っていた。
「……海に行ったのだから、当然よね」
ぼそっとつぶやいた言葉は、シャワーの音にかき消された。
バスタオルを巻いたまま部屋に戻ると、半ば無意識に黒の水着を取り出して、ベッドの上に置いていた。
感触を確かめるように、指先が布地をなぞったところで——
『ふふ、悩殺力は折り紙付きだよ?』
ふいに、一緒に水着を買いに行ったときの悠先輩の言葉が蘇ってきて、ポッと頬が熱くなる。
澪がもしこれを着てほしいとお願いしてくるなら、まず間違いなく先輩の入れ知恵だ。
「……ほんと、余計なことばっかり言って」
そう言いながらも、なぜか怒りは湧いてこなかった。
『じゃあ、今回の海を、二人の関係を進めるターニングポイントにしちゃおっか!』
あの言葉が、今になって胸に刺さってくる。
「別に、着るって決まったわけじゃないし……その先に進むとも限らないんだから」
強がりながらそうつぶやいて、でも心のどこかでは期待してしまっている自分がいた。
(……もし澪が、そう言ってきたら——って、何考えてるのよっ)
たぶん、これ以上ここに、この水着の前にいるべきじゃない。
そう思って、階段を駆け降りたところで、玄関のチャイムが鳴った。
インターホンに映った澪は、どこか覚悟を決めたような表情をしていた。
——ドクン。
心臓が跳ねた。
「面白い!」「続きが気になる!」と思った方は、ブックマークの登録や広告の下にある星【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にしてくださると嬉しいです!
皆様からの反響がとても励みになるので、是非是非よろしくお願いします!




