第11話 卵焼きの味
ゆっくりと体を離してからも、私たちは指を絡めたまま、ソファーに並んで腰掛けていた。
沈黙が流れるけど、苦ではなかった。
言葉がなくても、澪の体温がすぐ隣にある。
それだけで十分だった。
「なぁ、夏希」
ふいに名前を呼ばれて、私は顔を上げる。
「なに?」
視線が合うと、澪は照れたような笑みを浮かべた。
「今度の日曜日、完全なオフだよな。……どこか、行かないか?」
「っ……」
胸が高鳴り、一瞬で頬がまた熱を持つ。
(そ、それって……デートのお誘い、よね?)
いいけど——。
反射的に素っ気なく返しそうになるけど、それじゃ、これまでと変わらない。
(誘ってくれてありがとうって気持ち、ちゃんと伝えないと)
本当は視線を逸らしたいくらい照れくさい。でも、ちゃんと向き合いたかった。
ひとつ息を吐いて、澪の目をしっかりと見つめ、私は笑みを浮かべた。
「えぇ、行きましょう」
「っ……ありがとう」
澪はパァ、と瞳を輝かせ、嬉しそうに笑った。
そして、いつものように、そっと優しく抱き寄せてくれた。
勇気を出してよかった——。
澪の匂いと温もりに包まれながら、私はホッと息を吐いた。
その後も、手を繋いでみたり、抱き合ってみたりと、甘くて穏やかな時間を過ごした。
「じゃあ、また明日な」
「えぇ」
澪を見送り、自分のベッドに座って先程までのやり取りを思い返すと、胸の奥がじわりと熱くなる。
(……ちゃんと、誘ってくれた)
前に一度断ってしまっているから、きっと勇気を振り絞ってくれたんだろう。
そのことが嬉しくて、くすぐったくて、でも少しだけ——悔しかった。
(私ばっかり、受け取ってばかりな気がする)
前に比べたら、素直になれたと思う。
でも、澪みたいに言葉にしたり、ちゃんと行動に移すのは、やっぱりまだ苦手だ。
さっきも、少しは頑張れたけど、そもそも誘ってもらったからできたことだ。
最初は澪のことをヘタレと笑っていたのに、最近では私のほうがヘタレてしまっている。
「私も……ちゃんと、返したいな」
だから、次の日の朝はいつもより早く起きた。
起き抜けはちょっとまぶたが重かったけど、澪の顔を思い出すと、眠気なんてどこかへ飛んでいってしまった。
いつもはお母さんに作ってもらっている卵焼きを、自分で焼いてみる。
(澪は、あんまり甘くないほうが好きだったわよね)
何気ない会話の中で交わした、澪の好みの味。
それを思い出しながら、私は控えめに砂糖を入れる。
「澪、気づいてくれるかしら。変に思ったり、しないわよね……?」
味見をしながら、不安になる。
でも、澪に食べてもらえるのなら、それだけで意味がある気がした。
それから支度を済ませたあと、私はいつもより早く家を出て、白石家のインターホンを押す。
——想像通り、澪は髪の毛のセットに苦戦していた。
「やってあげるわよ。彼氏が笑いものになってほしくないから」
半分本音で、半分照れ隠しだった。
櫛と手ぐしを使って、昨日のスタイルを思い出しながら、流れを整えていく。
「すごっ……よく覚えてるな」
「昨日の今日よ。当たり前でしょ」
素っ気なく返しながら、つい口元が緩んでしまう。
嬉しい。澪の髪を触れるのも、うまく整えられているのも——澪が、喜んでくれるのも。
「へぇ……じゃあ、目線は合わせてくれなかったけど、ちゃんと見てくれてたんだな」
「っ……!」
手がピタリと止まる。
図星だった。正面からはとても見れなかったけど、爽やかになった澪を少しでも目に焼き付けたくて、何度もチラチラと視線を向けていた。
「……オールバックとかは、簡単にできるのよね」
からかわれたのが悔しくて、スッと手を前髪に持っていくと、
「悪かったって! もう言わない!」
澪が慌てたように両手を上げた。
ふん、と鼻を鳴らして視線を戻す。
(そんなに慌てちゃって……本当にするわけないのに」
澪が意外にリアクションがいいことは、クラスのみんなは知らないだろう。
そう思うと、自然と笑みが浮かんでしまう。
ふと鏡を見ると、澪が微笑んでいるのが見えた。
「……何ニヤついてるのよ。気持ち悪いわ」
思わず、いつもの調子で突き放すように言ってしまう。
しかしそのとき、私はふと気づいた。私が澪の顔を見れるということは、逆もまた然りだということに。
(い、今までの……全部、見られてた……⁉)
自分がどんな顔してたか、考えただけで顔が熱くなる。
あんなだらしない表情、澪には見せたくなかったのに。
(だめ。ここで動揺したら、それこそ図星だって言ってるようなものよ……)
視線を泳がせながら、平然を装って手を動かす。
けど、頬の火照りだけはどうしようもなかった。
仕上げを終えると、私は息を吐いた。
名残惜しいけど、これ以上は遅刻してしまう。
「……完成、っと」
それは澪よりも、自分に言い聞かせた言葉だった。
鏡を見た澪が、驚いたように声を漏らす。
「すごい……」
その一言が嬉しくて、鼻が膨らんでしまう。
「……毎日見てるんだから。どうすればマシに見えるかくらい、知ってるわよ」
それは、意地だった。
私が一番見てきたから、私が整えてあげられることが嬉しかった。
(……こんなこと、前なら絶対できなかった)
そう思うと、ちょっとだけ自分が誇らしくなった。
◇ ◇ ◇
お昼休み、中庭。
今日の陽射しはやわらかくて、暖かい風が心地いい。
私は澪の隣に腰を下ろし、お弁当を膝の上に広げた。
卵焼きだけは食べないようにして、他の料理を平らげていく。
そして頃合いを見計らって、おかずの交換を申し出た。作戦通り、卵焼き同士の交換に成功した。
(自然な流れだったよね。澪も、違和感は持ってないはず)
それでも、口に運ばれる瞬間は、思わず彼の表情を横目で盗み見てしまう。
「……おばさんの卵焼き、ちょっと久しぶりだな。……ん?」
澪の眉が、わずかに動いた。
「な、なによ……美味しくないの?」
不安になって問いかけると、澪は柔らかい笑みを浮かべた。
「いや、めっちゃ美味しいよ。けど、ちょっと味付け変わったか? 甘さ控えめっていうか……前より俺好みな気がする」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がじん、と熱を帯びた。
(気づいてくれた……)
私が、澪のために味を調整したこと。
ちゃんと感じ取ってくれた。
「……私が作ったのよ」
「えっ?」
「だ、だからっ。その卵焼き、私が作ったのよ」
顔が熱い。声は裏返っていたかもしれない。
それでも、ちゃんと伝えたくて、私ははっきりと言った。
澪はぽかんとしていたけど、やがてふわっと笑みを浮かべてくれた。
「ありがとう。すごく、嬉しいよ」
その言葉に、私はにやけないように、しかめっつ面を作る。
「たまたま気分だっただけよ。……どうしてもって言うんなら、また作ってあげてもいいけど」
そう言いつつ、無意識に髪の毛をいじっていた。
(また作るって、素直に言えたらいいのに)
ちょっとだけ落ち込んでしまったけれど、胸の奥で広がるこの気持ちは、紛れもなく——喜びだった。
些細なことだけど、自分で行動して、澪の想いにちょっぴりでも応えることができた。そのことが、たまらなく嬉しかった。
その後はまた山田たちが絡んできたけど、澪がスマートに追い返してくれた。
からかわれても、見下されても、ちゃんと自分の意思を言葉にしていた。
「前も言ったけど、堂々と夏希の彼氏だって名乗れるように、頑張るつもりだから。これは、その第一歩だ」
堂々と言い切る澪があまりにも男らしくて、胸が苦しくなる。
(もう、またそういうこと……っ)
怒ろうとしていたはずなのに、照れくさくてそれどころじゃなくなった。
山田たちも一応は謝罪をして去っていったけど、とても誠意のあるようには見えなかった。
あんな態度で許していいのかと尋ねると、澪は絡んでこないならそれでいいと笑った。
大人だな——。
そう感心していると、彼は笑みを向けてきた。
「怒ってくれて、ありがとな」
「っ……」
私は恥ずかしくて、そっぽを向いてしまった。
「別に、私が気に入らないだけだから」
また、かわいげのないことを言ってしまったけど、一つだけ確認しておかなければいけないことがある。
「それより、無理はしてないでしょうね?」
自分でも驚くほど、真剣な声音になっていた。
澪はきょとんとしたあと、嬉しそうに破顔した。
「大丈夫。ほんとに。だってさ、あんなやつらの言葉より、夏希の言葉とか反応のほうが、よっぽど大事だし」
「っ……」
また心臓が跳ねる。
(なんなのよ、今日の澪……)
ちらっと澪を見たら、前よりも自信に満ちた表情をしていて。
それがなんだか、悔しいくらいにかっこよく見えてしまった。
「……少しは、自信がついたみたいね」
そう言うのがやっとだった。
「あぁ。だからさ。ついでにもう一個、頼んでもいいか?」
「……なに?」
「また今度、卵焼き作ってくれよ」
「っ……」
一瞬、言葉が詰まる。
さっきのやり取りで、心の奥がいっぱいだったのに、そこへ追い打ちのように——
(ほんとに、ずるいんだから……)
私はぷいっと顔を背けた。
「……気が向いたらね」
そう言いながらも、口元が自然とゆるんでしまうのを止められなかった。
また、明日も早起きしなきゃ——。
普通は嫌なことのはずなのに、なんだかワクワクしていた。
◇ ◇ ◇
——翌朝。まだ家族が起きてこない時間。
私は一人、キッチンの前に立っていた。
フライパンから立ちのぼる香ばしい匂いの中、自然と鼻歌を口ずさんでいた。
頭の中では、昨日のお昼に卵焼きを食べた澪の表情が何度もリピートしている。
『めっちゃ美味しいよ』
『すごく、嬉しいよ』
その笑顔——はにかむような、でも心から嬉しそうな顔。
思い出すだけで、また胸がふわりと温かくなる。
気がつけば、身体が勝手にリズムを取っていて、菜箸を握る手にも弾みがついていた。
(……なに、浮かれてるのよ)
思わず自分にツッコミを入れるけれど、鼻歌も口元のにやけも一向に止まらない。
仕方ない。だって、嬉しかったんだもの。
(また、澪の喜ぶ顔が見たい)
その一心で、私は卵液をフライパンに流し込んだ。
そして、十数分後——。
フライパンの傍に置いていたお皿には、卵焼きが山積みになっていた。
(……完全に、作りすぎた)
冷静になった今だからこそ、ようやく自覚する。
ふわふわで、澪の好みに合わせて甘さを控えた、例の味。
また作ってくれと頼まれたのが嬉しすぎて、つい調子に乗ってしまった。
「なにやってるのよ……」
菜箸を置いて、苦笑いを浮かべながら黄色い山を見つめる。
正直、こんなにあっても今日のお弁当には入りきらない。家族の分も軽く超えている。
(どこに売りさばくつもりなのよ……)
おでこに手を当てて、深く息を吐く。
けど。
(澪が喜んでくれるなら、それだけでいっか)
申し訳ないけど、残りはお父さんとお母さんに食べてもらうことにしよう。
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