49話 拍動(2)
ほんの少しだけ落ち着きを取り戻すと、シェーンハイトはふと思い出したように尋ねる。
「ゲオルグ卿。その……貴方が以前、デオン伯爵領で手配されていた『穢れの血』と話した時のことを聞きたいのですが」
「なぜ伯爵領の英雄のことを?」
「ずっと気になっていたのです。自我を保って人間の味方でいようとする……そんな事が本当に有り得るのか、と」
耐え難い悪食衝動と、理性を溶かす邪悪の侵食。
これまで任務で対峙してきた『穢れの血』は皆等しく魔物と呼ぶに相応しい状態だった。
「『彩戟』クリームヒルト・ファルベ・シュタフェライ……彼女は確かに、英雄と称えるべき強靭な精神をお持ちの方でした」
穢れの侵食に抗うように功績を積み重ね続けた。
その軌跡は過酷を極めたもので、道筋が示されていたとしても辿ることは容易ではないほど。
「穢れの侵食度合いは酷いものでしたが、それでも自我を保ち、穢れの力さえ人助けに役立てていた」
「精神力で侵食を抑えていたと?」
「あれは生への執着心が成せる技でしょうな。崖から転落しそうになって、指先一つで掴まり続けていただけ。侵食を拒むが故に、自我の消失と向き合わなければならなかったのでは」
これは私の推測ですが……と、ゲオルグは付け足した。
穢れに染まりきった人間は半人半魔――人格に変化はあれど、消失まですることはない。
だが、侵食に抗うならば、魂そのものを溶かし尽くすように蝕まれていく。
クリームヒルトは人間でいることを選んだ。
それ故に、常人では想像の付かない苦痛と絶望を味わい続けることになってしまったのだ。
「かの『英雄』は……最終的には、魔物となって討たれたと聞き及んでおります。伯爵領の反乱に紛れたせいか、悪評だけは広がらずに済んだようですが」
剣士として領内の様々な問題を片付けて、最後まで民衆からは『英雄』として称えられ続けた。
その末路を知る者は数が限られている。
「……そうですか」
シェーンハイトは嘆息する。
非情だが、穢れを身に宿した時点で救済など無い。
もし『穢れの血』が報われるような最期を迎えられるなら、世界の見え方も少しは変わっていたかもしれない。
最終的に敵対してしまうのであれば、枢機卿として成すべき事は一つだけ。
「……やはり『穢れの血』は危険。覆しようのない事実でした」
「老骨の話で、得られるものはございましたかな?」
「ええ。ありがとうございました」
生き様こそ力強く美しい。
だが、最終的に魔物として討たれることは定められた末路だ。
穢れに好かれる者は邪悪な心を持つ――エルベット神教では、最大限の恐怖と侮蔑を以て『穢れの血』を迫害する。
その教えを揺さぶるように、黒き聖女の一団が彼女の前に現れた。
マルメラーデ監獄では『六芒魔典』の企みを阻み、デオン伯爵領では"英雄"の最期を見届け、第三教区では戦争を回避するために手を貸してくれた。
その中に『穢れの血』も含まれていて、教義を盲信することが出来なくなっていた。
苦悩を抱えたシェーンハイトに、グレンは『伯爵領の英雄についてゲオルグに聞いてみればいい』と助言した。
そして、弾圧すべき対象に人の心があることを知ってしまった。
――今まで奪ってきた命の中に、どれだけの善人が含まれていたのだろう。
エルベット神教に迎合しない者は異教徒、反発するものは邪教徒。
どちらも敵視すべき存在として扱われてきた。
「……っ」
手が震えてしまう。
白磁のように綺麗な手指が、罪悪の咎に汚れているように思えてならない。
幾度も振るってきた細剣さえ清らかなものではない。
最初に植え付けられた悪夢――中央区、ガニヴァル聖堂でイグナーツと対峙したことを思い出して、耐え難い恐怖に支配されてしまう。
罪無き少女が自害して、細い首筋を貫く感触と、血の生暖かさが頭からずっと離れないでいた。
それ以前から、ずっと。
枢機卿シェーンハイト・ヴァレンティは、無辜の民を殺めてきた。
「……やはり御加減がよろしくないようで」
端から見ても、その顔は分かりやすいほど蒼白になっている。
ゲオルグは心配するも、カルネの補佐という任から解放されるまで時間が掛かることだろう。
先ほどから視線を感じている。
心の内を見透かされているのでは……と、警戒さえ無駄に思えて仕方がない。
ゲオルグは"シェーンハイトは心を弄ばれている"と結論付けた。
聖女――『殉教者』カルネは一切の濁りが無い"悪意"だ。
それ故に、気味が悪いほどに澄み切った清浄さを感じさせている。
「ふむ……」
それに従う教皇の意図も掴めない。
遥か過去の事まではゲオルグでも知り得ない情報だ。
もしかすれば、『原理聖典』にはそうせざるを得ないような真相が記されているかもしれない。
何らかの弱みを握られている可能性も否めないが、どちらにしてもラインハルトに相談すべき事態だ。
混沌の時代に、秩序と安寧を保つエルベット神教。
そこに身を委ねるべき"正しさ"が残されているのか、彼でさえ疑い始めてしまう。
◆◇◆◇◆
――帝都アルベラム、城内。
防衛に重きを置き続けてきたガルディアは、その中心となる城も強固な造りになっている。
だが、内部で守られているのは醜い者共だった。
「……チッ、反吐が出る」
何度目かになる不愉快な光景。
受け継がれてきた富を貪るだけの貴族たちが、使用人に難癖を付けていびり倒していた。
既に力関係は完成された状態だ。
食糧さえ乏しい枯れた大地で、肥え太った姿に見合うような働きはしていない。
それでも彼らの言葉は絶対――血筋を重要視した階級制度は、呆れるほどに機能しているらしい。
――ベルセス・フォン・ゼレイス。
今は亡き賢者ヘレネスの末裔。
途絶えた王家に成り代わり、このガルディアを統治する者。
腐敗した貴族たちの有り様も全て、彼が望んだ光景なのだろう。
彼自身が最も血筋を後ろ楯としているのだから、都合を合わせるには野放しにせざるを得ない。
その結果として、下々は搾取され続けるしかなくなってしまった。
『そろそろ城の腐敗した光景にも飽きてきただろう』
執務を終えたらしいラースヴァルドが嘆息する。
嫌気が差しているようだったが、かといって介入するわけでもなかった。
「その割に静観決め込んでるじゃねえか」
『ガルディアの"剣"として……戰場のみが我が領分だ』
帝国に忠誠を誓った。
それ自体が重要なのであって、些末な問題にまで口を出す権限は無い。
「お前は……」
言葉を紡ごうとして口を噤む。
彼を襲う忘失は、不死者として蘇るほどの理由さえ奪ってしまったらしい。
ヴァンから手渡された歴史書には、過去の聖地争奪戦争の結末まで記されていた。
それも、機密事項として閲覧権限が制限されるのも頷けるほどの黒い内容だった。
◆◇◆◇◆
エルベット神教は聖女カルネを和平の品物としてガルディア帝国に送った。
数多の辱しめを受けて放心状態となったカルネが、ラムファレル戦跡の崖から身投げした。
好敵手たるカルネの無様な死によって己を見失い、ラースヴァルドも失踪してしまった。
◆◇◆◇◆
既に本自体は手元に無い。
読み終えた頃合いを見計らってヴァンが回収していった。
今頃は元の場所で厳重に管理されていることだろう。
この事実を伝えるべきか否か。
将軍の精神は強靭なようでいて、その実は穢れに蝕まれた穴だらけの状態。
クリームヒルトのように自我を失ってしまう危険もある中で、あまり精神に強い衝撃を与えるべきではない……と、グレンは考えていた。
これを知った上で、ラースヴァルドに対して何かしらの行動を取らなければならない。
もしくは、機密事項を手にした状態で交渉をするような相手がいるのだろうか。
将軍も最期には"帝国を見限っている"のだ。
今の彼は、生前に見出した結論を失って祖国に囚われる亡霊。
哀れなことに、今生もガルディアの統治者ベルセスによって利用されている。
だが、今回ばかりは首輪を付けて飼い慣らせるような状態ではない。
死を超越して穢れを身に宿した傑物。
自我を保っている内は安全だが、もしその楔が失われたならば――と、嫌な想像をグレンは振り払う。
「エルベット神教に勝てる見込みはあるのか?」
『当然……とは、言い難いのが現実だ』
過去とは様々な面において事情が違いすぎた。
当時も栄えていたとはいえ、エルベット神教はひとつの宗教に過ぎなかった。
それが今では、大陸で広く信仰され各地に拠点を持つほどに成長した。
第三教区だけでも総力戦で帝国と張り合えるほどだ。
もし出し惜しみせずに各地から兵が集ったならば、物量のみで聖地を奪還できるかもしれない。
対する帝国は大半の領土を穢れの侵食によって失っていた。
人口も最盛期の一割程度にまで減少し、帝都で暮らす人々も貧困に喘いでいる。
エルベット神教が侵攻しなかったのは、穢れという明確な脅威を前にして戦力を削りたくなかっただけにすぎない。
防衛こそ際立った能力を持つ帝都アルベラムだが、痩せ細った大地で暮らす軍隊では、聖地を占有するほどの体力も残っていない。
双方に停戦する事情があって、交易等の協力も成されてきた。
それを打ち破ってしまったのがカルネとラースヴァルド――聖地争奪を象徴する偉人二名の復活だった。
『今の帝国には、優秀な戦士が育つ土壌が無い』
「だろうな。財貨や資源なんてモンは、どれも豚が肥え太るためだけに使われてやがる」
ガルディアの兵士は各地を巡る傭兵たちと比べて貧弱だ。
必要な栄養さえ取れていないのだろう。
国の上層部が浪費を控えれば、それだけで解決する部分も多いというのに。
『……』
ラースヴァルドは黙する。
祖国に対する暴言にも、思うところがあって言い返せない。
「なあ。今の帝国に、お前の剣を捧げるほどの価値はあるのか?」
尋ねずにはいられなかった。
同じ戦士として、そこまでの境地に到った者が良いように使われているのは我慢がならない。
シェーンハイトからの頼みを抜きにしても、帝国の惨状は見ていられないほどだ。
戦争を食い止める以前に内政を正す必要があるかもしれない。
『……それは、我に祖国を裏切れと?』
「お前が皇帝にでもなれば、民も兵士も希望を取り戻せるはずだ」
目に見える不利益を民に与えるべきではない。
仮に戦争に勝利したとして、甘い蜜を吸えるのは貴族院の者たちだけ。
その後の暮らしは明らかだろう。
戦争による国力の消耗は、全て民衆にツケが回ることだろう。
そして緩やかに衰亡の道を辿っていくことになる。
「忠義を掲げて目を背けるなんてのはナシにしてくれ。さすがに気付いてるだろ?」
対等な立場として問う。
この時代に、将軍と同じ場所に並び立てる戦士など数が限られているだろう。
それを見越してリスティルは志願するように指示を出したのだろう…と、グレンは納得する。
『此の話は終いだ。あまり不義なことを……』
「お前だって最期は帝国を見限った。本当に、当時の事を思い出せねえのか?」
グレンは指を突きつける。
祖国に対して、あまりにも盲目が過ぎる。
『……貴殿は何を知っている』
「歴史書の内容くらいだ。まあ、戦争の結末ぐらいは知ってるぜ」
ラースヴァルドはそれを聞いた途端にグレンの肩を揺さぶる。
骸骨の顔に感情が宿ったかのようだった。
『それはベルセスによって閲覧が禁じられている筈だ。いったい何故、貴殿が――』
意図的に閲覧権限を設けているのだろう。
ラースヴァルドに見付かって困るような内容が記されているのだから、彼の立場からすれば不自然ではない。
「落ち着けって。話すのは構わねえが、そのままだと穢れに呑まれるぞ」
或いは、グレンの接触が無ければ自力で目を通していたかもしれない。
不安定な状態で真実を手にして――穢れに呑まれ魔物と化す。
リスティルが警戒していた事はこれで間違いないはずだ。
『……うむ』
自我を明瞭に。
穢れの侵食は既に深部まで到達している。
不死者という特異な性質が、人格を維持しているだけに過ぎない。
「聖女は和平の道具としてガルディアで辱しめられて、ラムファレル戦跡で自害した。お前はそれを知った後に行方不明になって……歴史から消え去った」
『巫山戯た話を……だが、我は何故……』
記憶の混濁に違和感を覚える。
不死者になったのであれば、蘇るに足るだけの執念を持っている筈だ。
だというのに、肝心なその部分だけが思い出せない。
その時、グレンに刻まれた魔紋が淡く光を帯びる。
それは伯爵領の英雄が遺した希望だ。
「ラースヴァルド、穢れに身を委ねるな。そいつはお前を必ず裏切る」
『……その光はいったい』
穢れを退ける強靭な精神。
最期まで抗った彼女だからこそ、この魔紋に力を宿せたのだ。
深部に蔓延る穢れが僅かに揺らぎ――塞がれていた執念が溢れ出る。
『……我は祖国を見限ったのか』
呆然と呟く。
蘇ってからこれまで拠り所としてきたガルディア帝国は、どうやら己の生き様を侮辱する所業をしていたのだと。
『この記憶に、蓋をしていたと……ッ』
ラースヴァルドが憤りを見せる。
穢れと利害が一致していたわけではない。
そうなるように、記憶の一部を都合良く欠落させられていたのだ。
もし思い出していたのであれば、受け入れるような愚行はしなかったはずだ。
『大いなる悪意が……我が執念に寄生し、傀儡として踊らせるつもりだったというのかッ』
莫大な魔力を滾らせ、己の生命力さえ注ぎ込んで――。
『――揺心滅却ッ』
魂を穢れから引きずり出す。
不死の体から漏れ出た穢れが暴れようとするが、ラースヴァルドは手を水平に伸ばして詠う。
『理断つ冥剣――悪意を打ち払うのだッ』
魔力剣による一閃。
穢れよりも深い闇を讃えた刀身が、己に巣くう悪意を完全に消し飛ばした。
「お前、穢れを……ッ」
グレンは愕然としてしまう。
自力で穢れを切り離すなど馬鹿げている。
だが、クリームヒルトの魔紋が光を放っていたのは、何かしら関係があったのだろう。
『目が覚めた。礼を言おう、グレン・ハウゼン』
ラースヴァルドは深呼吸をする。
全てを思い出した今、成すべき事はただ一つ。
『此度こそ正しく終わらせなければならぬ。傀儡となった、かの聖女も含めて――全ての悪意を討つのだ』
そのために、己の責務を果たすべく動き出す。
現状で最も優先すべきは、腐敗した帝国上層部の排除だった。




