39話 胎動(4)
補佐官を務めるにあたって、エルヴィスには多くの仕事を一任することとなる。
枢機卿代理として重大な責任が付き纏うことだろう。
彼ならば大体のことは問題無くこなせるだろうという信頼はあったものの、今回は単なる雑務処理とはわけが違う。
「帝国は不死者……ラースヴァルド将軍を迎え入れたと報告がありました。次の会談では姿を見せることでしょう」
「彼らの意図を探れ、ということでしょうか」
その問いにシェーンハイトは頷く。
こちらに明確な敵意を抱いた相手を放置するわけにもいかない。
「何らかの要求をしてくるでしょう。その場合は、内容次第ですが交渉に応じてください」
「危険因子は排除すべきでは?」
「それは……最終手段です」
勿論、野放しにしていいような存在ではない。
正しく再臨したカルネと異なり、ラースヴァルドは悪しき魔物となって甦ったのだ。
邪悪に手を染めてまで己の執着を成そうとする禁忌として、エルベット神教の教義に反する存在だ。
「不死者の存在は赦されるべきではない。そうでしょう、猊下?」
エルヴィスが尋ねる。
一人の信徒として、討つことを優先したいという気持ちがあった。
だが、シェーンハイトは首を振る。
「最優先ではありません。交戦すれば多くの犠牲が出ることは避けられませんし……危険因子と判断するには、どうにも理性的な言動をしていました」
無為に命を奪うような輩ではない。
そうでなければ、ラムファレル戦跡はエルベットの騎士たちが眠る場所となっていたはずだ。
自分やアルピナを殺さなかったことにも、彼なりの流儀があってのことだろうと。
「アーラント教区での一件も、ご説明いただきたい」
「過剰な処分は不要だと、そのように判断したまでです」
枢機卿として判断を誤ったつもりはない。
そういう意味を込めて、シェーンハイトは強く断言する。
「……分かりました」
明らかに"何か"が違う。
エルヴィスの思い描いた姿と、目の前にいる人物には大きなズレが生じていた。
良く捉えるのであれば、シェーンハイトは肩の力が抜けている。
以前ほど鬼気迫る様子ではない。
悪く捉えるのであれば――。
(……アーラント教区で、何か心変わりするようなことでも?)
原因を探る必要がある。
常に殺意を放っていたあの頃のように、邪教徒を惨殺してほしい。
剣にこびり着いた愚者の血を忌々しげに振り払う、あの苛烈な姿を取り戻してもらわなければならない。
「貴女は、どうやら……」
続く言葉を吐き出す前に、召集を伝える鐘が鳴る。
◆◇◆◇◆
カルネが最初に求めたのは"教皇との会談"だった。
教皇の治める第一教区まで、その道程を考えると途方もない。
相応の時間を要するはずだったが、教皇の返答はこうだった。
『歓待の用意は出来ないが……今晩、レナド聖堂にて待つと伝えなさい』
道程など存在しないかのように。
もし可能だとすれば、それは『遺失魔術』くらいだろう。
或いは、カルネがそれを行使出来ると知っているのかもしれない。
遥か過去の時代を生き、多様な儀式魔方陣を会得したという『殉教者』カルネ・ヴェル・プリースタ。
彼女が転移魔術を使えたとしても不自然ではない。
(『遺失魔術』の使い手……)
シェーンハイトの脳内に浮かぶのは、黒き法衣に身を包んだ少女の姿。
常人とは思えない振る舞いをして、実際に奇跡とも言うべき魔術を行使して見せた。
未来を見通すなど、人間の身に余りある力だ。
武芸を磨き続けるだけならば常人にも可能だが、理から逸脱した力を持つ者は非常に限られてしまう。
聖女と呼ばれる人物たちは皆が特異な力を有していた。
もしエルベット神教に利する存在であったなら、聖女として迎え入れられることは間違いない。
どうにも警戒してしまうのは、リスティルの言動が教義に沿わないから。
堂々と芯の通った振る舞いをする彼女に、知らずの内に影響されることを恐れている。
――かの少女は型に嵌まらない。
不要な考えを巡らせても仕方がないと、シェーンハイトはゆっくりと息を吐き出す。
教義に反することの罪悪感は、敬虔な彼女にとって耐え難い苦痛だ。
信仰を手放すわけにはいかない。
「やはり、私と似ていますね」
優しい微笑み。
果たして、聖女には何が見えているのだろうか。
「カルネ様、私は……」
尋ねようとして、言葉を飲み込む。
たとえ慈悲深い聖女が相手でも『如何なる事情があろうと教義は絶対なのか?』などという愚かな質問は好まないだろう。
「……いえ、何でもありません」
喉奥に刺さった苦痛をいつまでも吐き出せない。
自分の心に潜む"何物か"によって、悶え続けるしか選択肢がない。
そんなシェーンハイトの頬に、ひやりとして滑らかな手が添えられる。
優しく微笑むカルネの顔がすぐ目の前にあった。
まるで、全てを見通すかのように。
「信念を持ちなさい。貴女の選択こそが、貴女を正しく導くのです」
欲している言葉は何か。
似ているからこそ、背中を押すことが出来る。
「従うことだけが信仰ではない、と……?」
「従属も反抗も、どちらも真の信仰とは言えません。幸いにも……シェーンハイト卿には、真実を知る機会が与えられたのです」
言葉の奥底に何か黒いモノが潜んでいるようで。
三聖女の一人と崇められる『殉教者』カルネが、いったい何を伝えようとしているのか。
恐怖さえ感じてしまうのは、自身の変化を恐れているからなのか。
「今夜――教皇の隠し事を、一つだけ暴いて差し上げましょう」
罪悪の蜜を垂らして誘い込む。
自身の内に秘めた静かな狂気に、共鳴する資質をシェーンハイトに見出だしていた。
「……ッ」
カルネは優しく微笑み佇んでいる。
それだけだというのに、息苦しく感じるほどに圧倒されてしまう。
「彼はきっと、私の目覚めを歓迎していないでしょうね」
「そんなはずは……」
否定しようとするシェーンハイトの口元に、カルネはそっと指を添えて噤ませる。
「シェーンハイト卿。貴女はとても立派で、勇敢で、聡明で――それでいて、芯とするモノを誤っている」
哀れな子羊……と、慈愛に満ちた顔をして嗤う。
彼女の意図がますます分からない。
「大切に抱えているのは教義? それとも使命感?」
エルベット神教に身を捧げ、枢機卿として剣を振るう理由。
言語化出来るものが内側に無い空箱の信仰心。
必死に飾り立てているからこそ、誰も彼もが気付けずに素通りしてしまう。
「盲目的な信仰。強大な存在への服従。尊敬の念。或いは恐怖? どのような信念を持って、何を選んで、この場に臨んでいるのですか?」
「私は……」
弁解させる迄もない。
カルネはシェーンハイトの本質を見抜いていた。
「導いて差し上げましょう。貴女の欲するものは――」
言葉を遮るように、大きな地揺れが聖堂を襲う。
白亜の壁は魔術によって補強されているものの、想定される衝撃は精々が自然災害まで。
「――あぁ、やはり此方に」
身の毛が弥立つ悍ましい気配。
不気味な容貌をした男が、神聖な地を堂々と侵す。
その人物は、手配書に記された中で最も警戒すべき六人の邪教徒――『六芒魔典』のイグナーツ・アルマノーレだった。
「貴様よくもッ!」
シェーンハイトは即座に抜刀し、体に魔力を巡らせる。
直轄領である第三教区、それも中枢となるガニヴァル聖堂への侵入を許すなどあってはならない話だ。
決して警戒を怠っていたわけではないのだが、全くといっていいほど気配を察知出来なかった。
この様子だと、見張りの兵も状況さえ把握できていないはずだ。
目の前の脅威からカルネの身を護らなければならない。
「何度も、失態を重ねるわけには――」
瞬時に肉迫し、魔力を練り上げる。
敵の実力は未知数だ。
それを測る余裕がないほどに、冷静さを欠いていた。
「――蒼閃ッ」
喉元を抉るように剣を突き出す。
情け容赦など一切捨て去って、一撃の下に殺めるつもりで。
鬼気迫る形相。
しかし、切先には微かな揺らぎが乗っていた。
「ふむ……?」
訝しげな視線をシェーンハイトに向けつつ、渾身の突きは身を翻して躱してみせる。
そんな芸当を可能とする者は、果たして大陸に何人いるだろうか。
反撃は無い。
大きな隙を晒しているというのに、男は首を傾げつつシェーンハイトを見下ろすのみ。
伸び切った髪の隙間から覗く眼は、震えるほどの狂気に濁っていた。
「邪教徒が……ッ!」
頭がおかしくなりそうなほど、酷くもどかしい。
磨き上げてきた剣さえ通じない。
底知れぬ魔力を陽炎のように立ち昇らせて、男は不気味に嗤うのみ。
「此の穢れた身を嘲笑うが……そもそも、貴女は何者か?」
枢機卿序列四位――という返答を望んでいるわけではない。
深層に迫る純粋な疑問を投げ掛けているだけ。
無意味な問答を交わすつもりはない。
悪魔の囁きを鵜呑みにしては心を乱されるだけ。
その首を狩るだけに意識を集中していればいい。
「ですが、ふむ……貴女でも悪くありませんねえ」
そこでようやく、イグナーツは明確に戦う意思を見せる。
これまでは戯れていただけにすぎない。
かといって、その次は殺し合うというわけではない。
「気が変わりましたので、貴女で補充させていただきましょう。宜しいですね、枢機卿猊下?」
その意図が分からない。
補充というのは何を指しているのかなど、知りたくもない。
だが、酷く嫌な予感が込み上げて、シェーンハイトの恐怖心を激しく煽る。
そう、恐怖だ。
彼女の脳内を支配しているものは、本来あってはならない感情。
まさか枢機卿が、邪教徒に対して抱いて良いはずがない。
恐れるなど――。
「――シェーンハイトッ!」
光槍が瞬き、イグナーツの身を穿つ。
不意の強襲によって胴体に大穴を空けた。
崩れ落ちた壁の残骸を、純白の法衣を纏った少女が蹴破って躍り出る。
未だ怪我は癒えていないというのに、自身を省みぬ蛮行。
当然ながら、そこに余裕の色は存在しない。
「アルピナ卿ッ!?」
負傷した身でありながら、一切の躊躇いも無しに割って入ったのだ。
明確な脅威を前にして、普段の怠惰など嘘のように気迫に満ちている。
「――女神の氷鎚ッ!」
即座に追撃をかけ畳み込む。
呼吸をする間も惜しいほどに、眼前に佇む邪教徒は危険だった。
腹部に大穴を空けられて、本来であれば意識を保っていることさえ有り得ないはずだ。
何かがイグナーツを生かしている……と、思考を巡らせようとした時――。
「――ッ!? なに、これ……ッ!」
金属を思い切り引っ掻いたような、甲高い絶叫が響き渡る。
それは耳障りなだけでなく、振動による破壊を伴って聖堂を激しく揺さぶっていた。
酷い不快感に、アルピナは思わず耳を塞いで踞る。
目の前で立ち昇る邪悪な魔力を、辛うじて薄目を開けて警戒していた。
「いけないッ!」
これほどの災害を耐え得る設計ではない。
鍛え抜かれた騎士でさえ立っていられない規模の地揺れが、ガニヴァル聖堂を廃墟に変えようとしている。
二人を庇うように、シェーンハイトは剣を構える。
もし天井が崩落してしまえば、聖堂内にいる全員の命が無い。
だが、身を守ることにだけ専念をすれば、瓦礫を切り捨てるくらいは出来るはずだ。
「おぉ……おぉぉッ!」
イグナーツは歓喜に打ち震える。
背負った棺から供給される魔力量が、過去に類を見ないほど膨れ上がっているのだ。
腹部を穿たれるほどの苦痛、その全てを肩代わりさせた。
常人には耐えがたいはずの痛みだが、治癒魔法と精神魔法によって強引に生き永らえさせている。
手傷を負うほどに彼の力は高まっていくのだ。
完成された代償魔術。
禁忌とも言うべき冒涜的な理論は、しかし、倫理を抜きにすれば一つの極致とも言えるだろう。
「物理的な破壊は必ずしも有効とは限らないのです……そう、このように」
不自然な魔力の流れを見て、アルピナは息を呑む。
思い違いであってほしいと考えてしまうのは、果たして脆弱だろうか。
「あの棺……誰かが囚われてるっ!?」
唸るような地響きの中で、辛うじて言葉を発する。
そこまで伝えればシェーンハイトも理解出来るだろう。
この場は既にイグナーツの手中にあった。
身体も精神も、空間さえも激しく揺さぶられている状態では、魔術の行使さえ儘ならない。
本来であれば離脱すべきだが、ガニヴァル聖堂を手放すという事態は避けたかった。
「――がぁあああああッ!」
荒々しい咆哮にアルピナは思わず身を震わせる。。
それがシェーンハイトのものだと気付いた時には、既に剣を片手に駆け出していた。
恐怖を塗り潰すほどに殺意を撒き散らす。
自身に発破を掛けるために叫んだわけではない。
心の奥底に積もった"何か"が、限界を迎えようとしている。
「邪教徒死すべし……その首をぉおおおおおッ!」
――狩るッ!
感情に呼応するように魔力が爆ぜる。
降り注ぐ瓦礫を吹き飛ばすと、開けた空には煌々と紅月が揺蕩っていた。
何故だか体が軽い。
気を抜けば酔ってしまいそうな万能感が湧き上がってくる。
堪らなく気持ちが良い。
火照る体を抱き締め、辛うじて理性を留めつつ獲物を見据える。
あれは殺しても良い相手だ。
らしくもない殺気立った気配。
明らかに正常でない、狂気染みた眼光。
あまりの変貌に、アルピナは困惑した様子で虚空に問う。
「どうして、シェーンハイトが……」
尽きぬ戸惑いに平常心を保てない。
縋るように視線を向けた先には、穏やかに微笑むカルネの姿があった。
「これが彼女の……ッ!?」
激しい頭痛がカルネを襲う。
この運命だけは阻止しなければならないのだと、彼女の魂が叫んでいる。
たとえ何を犠牲にしてでも為さねばならない。
明滅する視界の中で、無意識に手を翳して唱える。
「永劫の夜に抱かれし哀れな子羊、さあ目覚めよ――揺心滅却」
それは聖女にのみ許された権能。
深層から力を絞り尽くして、辛うじて成した禁忌の業。
枢軸に干渉してまで齎す奇跡に、当然ながら代償は付きまとう。
「……無意味なことを」
時が巻き戻るかのように聖堂が直っていく。
瓦礫の一欠片さえ残さず、全くの元通りだ。
「いったい何が……?」
シェーンハイトも、アルピナも、僅かな記憶混濁に戸惑いつつも武器を構える。
何か不吉な事が起きたはずだった。
辛うじて覚えているのは、目の前に狩るべき邪教徒が存在しているということのみ。
何の疑問も抱く必要はない。
ただ、因果に干渉して修正しただけのこと。
カルネの前方では、ただ結果を受け入れるだけの者が武器を構えている。
唯一、理外の者を除いて。
「あぁ、あぁぁぁ……ッ!」
イグナーツは感涙する。
彼だけは、目の前で起きた現象を正しく理解できていた。
「枢軸の囚徒が健気に散っていった。かの者に何を託し、何を期待したのかッ!」
狂ったように嗤う。
嗤い続ける。
枢機卿二人には、狂気に呑み込まれたイグナーツの異様さしか映らない。
カルネが齎した奇跡を賜ったのは彼女たちなのだが、それを自覚することは不可能だった。
「いやはや、本当に……何処まで改竄したのでしょうかねえ。如何に聖女であろうと、覆し得る運命力は持たないというのに」
この光景はカルネ本来の力を大きく逸脱している。
奇跡などという都合の良い言葉など存在せず、代償として釣り合うものが奪われただけのこと。
「結末は変わらず、無為に。実に愚かな――」
高らかに嗤おうとしたイグナーツの肩を紅い閃光が穿つ。
手を突き出したまま、カルネは不愉快そうに顔をしかめる。
「いずれにしても、聖地を侵した罪は清算しなければなりません」
根底は変わらない。
眼前には『六芒魔典』の一人がいて、それはエルベットの教義に反する死すべき存在であるということ。
それだけは疑問を挟む余地も無い。
「――紅・血月晶」
無数の閃光が走る。
その威力は語るまでもなく、耐え凌げる者など片手ですら過剰なくらいだ。
途方もない魔力を込められた閃光が、先端を鋭く尖らせて襲い掛かる。
そして次の瞬間には、閃光がイグナーツを壁に縫い付けて完全に身動きを封じていた。
「……これは、困りましたねえ」
イグナーツの額を汗が伝う。
警戒すべきは枢機卿ではないと、気付くことさえ出来なかった。
「御身からは魔力が感知できず……であれば、これは枢軸の――」
再び閃光が走り、今度はイグナーツの手を穿つ。
慈悲など持ち合わせていない。
彼女と敵対する者には、抱いた疑問を口にすることさえ赦されないのだ。
これでは護衛など必要ないではないか。
卓越した才を持つアルピナだからこそ、カルネの魔術が如何に常識離れしているか理解してしまう。
その密度は、ラムファレル戦跡で対峙した不死者と同等のものだった。
シェーンハイトの視線は地面に転がった棺へと向けられる。
力の供給源を絶たれた魔術師など脅威足り得ない。
それでも警戒を緩めないのは、イグナーツが深部まで蝕まれた『穢れの血』であるから。
今の彼は『六芒魔典』の魔術師として立っている。
本来の実力はここまでとして、現時点でも枢機卿と渡り合えるほどの脅威だった。
その先にどれほどの力を秘めているのだろうか。
彼は『穢れの血』としての能力を巧妙に隠して片鱗すら見せていない。
その時点で、これまでの交戦はお遊びに過ぎないのだろう。
警戒は最大限に。
だが現状、黙して待つ理由は無い。
「解放します――」
漆黒の棺に剣を突き立てて強引に抉じ開ける。
そして、思わず目を背けてしまう。
「……シェーンハイト」
アルピナが咎めるように名を呼ぶ。
直視することが辛かったのだ。
とても永い絶望に囚われ続けた少女の、据えた眼が恐怖を駆り立てる。
「この娘を……私は、どうすれば……」
再起は望めない。
終わりを与える勇気もない。
いつも凛と構えていたはずの剣は、酷く震えて切先が定まらない。
「シェーンハイト卿。この娘が望むものを、自らの手で与えなさい」
カルネの語気は険しい。
逃げ場を塞ぐように、聖女として試練を課す。
絶望を抱えて、微かに意識を取り戻したとして。
身悶えするほどの恐怖に毎夜、か細い身を震わせて。
彼女を生き永らえさせることは自己満足であって、自己逃避であって、最も残酷な行為なのだと。
「私は……ッ」
邪教徒を殺すのは簡単だ。
そこには大義名分があって、枢機卿としての使命もある。
エルベット神教に仇なす存在を討つことは、多くの信徒の命を救うことにも繋がる。
彼女が知っているのは、崇高な使命に酔うための血肉の手応えのみ。
自分は殺戮に身を捧げていただけなのだと、この場に来て初めて気付いてしまう。
教皇が失望していた原因は、シェーンハイト自身が自覚出来ていない悍ましい本質を見透かされていたからではないのか。
永遠とも思える苦痛を、逡巡の間に味わっていた。
決断を遅らせること自体が残酷な行いであって、己の葛藤のために眼下の娘を苦しめているという事実が堪らなく耐え難い。
シェーンハイトは、裁きを下す以外に剣を振るうことを躊躇ってしまっていた。
それだけ追い詰められていたからだろうか。
或いは、責任の所在を有耶無耶にしたくて無意識に視界から外していたのかもしれない。
その結末は、彼女の逃避によって定められてしまった。
「――剣を捨ててッ!」
アルピナが叫ぶように声を上げる。
直後、剣を握る手に生温かい感触が伝わる。
「……?」
視界に映る光景を、理解することを拒んでいた。
自分の手を伝う赤い液体も、剣が貫いた肉の感触も意識に入れたくなかった。
動悸が激しい。
耳障りなほど荒い呼吸音が、徐々に激しさを増していく。
無意味に瞬きを繰り返す。
それでも、爆発的に膨れ上がる勘定を抑えきれない。
「あぁ……枢機卿ともあろう者が、あまりにも無様な」
イグナーツは嗤いながら地面に降り立つ。
拘束から容易く逃れ、心底愉快そうに目の前の光景を享受していた。
棺から解放された娘は、開けた視界に僅かな希望を見出した。
すぐ目の前に望むものが転がっているのだ。
ほんの少しだけ手を伸ばせば、それが届くところにある。
彼女はシェーンハイトの手を強引に引き寄せて、己の喉を剣で貫いたのだ。
「どうしようもなく焦がれた死を得られて、此の娘は幸福に眠りに就ける……なんと愉快な結末かッ」
対照的に、シェーンハイトは望んでいないものを与えられてしまった。
心の底から拒んでいたはずだった。
「私は……」
何故だか笑みがこぼれる。
頬が緩んでしまうのを抑えられない。
全てが馬鹿馬鹿しくなって、脱力した手から剣が滑り落ち、亡骸が血溜まりにびちゃりと倒れ伏した。
「くはっ、ははは……」
膝から崩れ落ちて、静かに笑う。
体中を満たした不快感を、全て吐き出すように静かに笑い続けていた。




