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黒き聖女の黙示録《アポカリュプセ》  作者: 黒肯倫理教団
三章 殉教者カルネ

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38話 胎動(3)

 誰もが天涯の闇を畏れ、震え竦んでいた夜のこと。

 第一教区リ・エルシュにて、災禍の目覚めを予期する者がいた。


「此度こそ……ッ」


 救済を齎したまえ。

 深界より伸びた悪意の手を、振り払うための力を。


 必要なのは聖女"ユリスティア"ただ一人。

 もし目覚めるのであれば此の地であろうと、凍てついた闇に包まれたタルラの聖堂にて待ち構える。


 だが、その時は訪れなかった。

 意図を読まれたのか、不運なだけなのか、或いは……。


「もはや猶予は……無い」


 手にした書物を開き、目を通す。

 何頁か捲った以降は真っ黒に染まりきって読み解くことは出来ない。


 胎動する悍ましき悪意を、振り払う術を持つ者は何処に。



   ◆◇◆◇◆



 大量に積み重ねられた歴史書を前に、シェーンハイトは一息吐く。

 昨日から一睡もしていない。

 幾度も幾度もあくびを噛み殺して、日が昇る頃に目当ての情報を整理し終えた。


「……『死剣』ラースヴァルド・トーデス・グラディア」


 世界に穢れが蔓延する以前。

 エルベット神教とガルディア帝国は聖地ヘレネケーゼを巡って幾度となく衝突を繰り返していた。


 エルベット神教側で旗を掲げていたのは、当時の枢機卿カルネ・ヴェル・プリースタ。

 今では『殉教者』として多くの逸話が語り継がれているが、彼女が命を落としたのはこの戦争が原因だ。


 そして、彼女と幾度となく殺し合った人物が、ガルディア帝国軍を率いた稀代の将軍ラースヴァルドだった。

 

 戦場で対峙して生きて帰った者はいないことから『死剣』の異名を持つ。

 彼はシェーンハイトとアルピナを同時に相手取ってなお余裕が感じられた。

 もしあのまま戦い続けていれば、エルベット神教側は甚大な被害を被っていたことだろう。


 彼はラムファレル戦跡で目覚めた。

 剣術にも魔術にも秀でた才を持っており、数多の兵を指揮下に置いている。

 そして、カルネに対しては異様な執着を見せる。


 間違いない。

 確信を抱くと共に、なんとも言えない気味の悪さが込み上げてきた。


 カルネの逸話は有名だ。

 直轄領内であれば、どこの教会でも聞くことが出来るくらいには知れ渡っている。

 だからこそ、余計にに感じてしまう。


――『殉教者』カルネを殺めた男が、なぜ現世に甦ったのか。


 何の意図を持って。

 あれほど強大な力を持つ不死者が、ただ偶然甦るようなことは有り得ない。


 死霊の類は現世への強い執着によって生まれるのが定説だった。

 その対象であるカルネは遥か昔に命を落としている。

 故郷への未練か、或いは他にやり遺したことがあるのか。


「……情報が不足している」


 シェーンハイトでさえ『原理聖典クライス・ロレンテクスト』に触れることは許されない。

 知っているのは聖女ユリスティアが記したという"理と道程"の書物ということだけ。

 歴史書とは毛色が異なるものだが、エルベット神教の過去についても詳細に記されていると言われていた。


 次の失敗は許されない。

 入念に調べ上げ、対策を講じ、確実な手段を以て再び葬るのだ。

 己の名誉を傷付けた異教徒の首を、今度こそ教皇に捧げなければ――。


「……ッ」


 耐え難いほどの憎悪に囚われている。

 酷く火照った体を抱き締めて、シェーンハイトは唇を噛む。


 嫌なことばかり考えてしまうのは、寝不足で頭が回ってないからかもしれない。

 休息を取るには日が昇りすぎていた。

 手早く身だしなみを整えると、書物を整理してから部屋を出る。


 高位の聖職者を補佐する任務はありふれたものだ。

 枢機卿にも各々直属の補佐官が一名いるが、基本的には事務仕事ばかりを任せるため、危険な戦場に引き連れるようなことは少ない。


 補佐官は補佐対象より高位の相手に付けられる。

 大司教位にある人物のみ枢機卿を補佐役に任命することも出来るが、それも一時的にという制限が付く。


 思い当たる人物はいるが、第三教区に用があるようには思えなかった。

 何度目か分からないあくびを噛み殺していると、後方から声が掛かる。


此方こちらにいらっしゃいましたか」


 随分と深い思索に耽っていたらしい。

 振り返ると、白銀の鎧を身に付けた青年が一礼する。


「……寝不足ですか、猊下げいか? まだ予定の時刻まで少しありますが」

「問題ありません」


――エルヴィス・ヘズ・ハイラント。


 剣の技量と信心深さを兼ね備えたエルベットの騎士。

 中でも実力の高い彼は聖騎士の位を与えられ、シェーンハイトの補佐官を務めていた。


 その腕前は枢機卿に次ぐ。

 或いは、既に比肩しているかもしれないとさえ感じているくらいだ。

 始めは凡百の内の一人だった彼は、弛まぬ努力によって頭角を現した。


「来客には丁重に。恐らく、高位の聖職者でしょうから」

「それは、猊下よりも……でしょうか」

「可能性は有ります」


 教皇が名を明かさないことには理由があるはずだ。

 枢機卿よりも上位となれば、それこそ聖者と呼ばれるほどの人物となる。


 だが、この時代に聖者と称えられるほどの人物は存在しない。

 少なくとも、彼女が知る限りでは。


聖下せいかより、その人物の補佐を命じられています。場合によっては多くの仕事を貴方に任せるかもしれません」


 長期間に渡る任務であれば、補佐官である彼に事務処理を頼む他ない。

 自身によく似た姿勢を見せる彼ならば、大抵のことは問題なくこなすだろうという信頼もあった。


「そちらはお任せください。僕が、全て進めましょう」

「頼りにしています」


 第三教区での任務は、主に隣接するガルディア帝国に関連する。

 今でこそ落ち着いているが、過去には多くの憎しみをぶつけ合った関係だったのだ。


 互いに領有を主張する聖地ヘレネケーゼに関しても、妥協点に留まっているに過ぎない。


「……皮肉にも、混沌の時代が平穏を生み出している」


 エルヴィスは苦々しい顔で呟く。

 穢れという脅威があったからこそ、戦争など続けていられないという結論に至ったのだ。


「何か言いましたか?」

「いえ、些末なことです。猊下。到着までに、軽食くらいは取っておいた方がいいのでは」

「そう、ですね……眠気覚ましには丁度良いかもしれません」


 目蓋を持ち上げることばかりに意識を取られているわけにはいかない。

 何度も失態を犯すようなことは避けなければ。


 気を引き締めなおすシェーンハイトの傍らに、エルヴィスは平然を装って付き従う。


 胸中に秘めるのは、いずれ己の信仰が認められる時が来るだろうという確信。

 そして、上に立つ聖十字卓議会カルディナール・フィーアへの畏敬の念。

 中でも邪教徒を一人残らず狩り殺す勢いのシェーンハイトには、憧れに似た何かを抱いていた。


 枢機卿として在るべき姿がここに。

 決して心酔しているわけではないのだが、彼から見てシェーンハイトという人物は極めて"模範的"に映る。

 それこそ、彼女の在り方をなぞるだけで昇進が望めるほど。


 教義に忠実であれという誠実さも、邪教徒死すべしという苛烈な姿勢も。

 他の枢機卿には無い積極さが感じられる。


 だが、最近は何かが違う。

 同行して胃が痛くなるほどの緊張感が以前ほど感じられない。

 エルヴィスが慣れたからというわけではないはずだ。


(見極めなければ……)


 食事の際も、微かな違和感の正体を探る。

 彼女自身が気付けない些細な変化が、どのような影響を及ぼすのか不明だ。


 もし悪い方向に作用するのであれば……と、思案し始めたたところでシェーンハイトがフォークを置いた。

 コーヒーを飲み干して、眠気を振り払うように何度かまばたきをする。


 到着の報せは食事を終えて間もなくのことだった。



   ◆◇◆◇◆



 三名の聖職者を伴って、偉大な聖者が闊歩する。


 墓標における奇跡を目の当たりにした神父を証言者として、その地を管轄する司教と司祭を引き連れる。

 高位の聖職者を傍らに置いてもなお、彼女の存在感は揺るがない。


 征く先には、幾年を経ても煤むことのない眩さを誇るガニヴァル聖堂があった。

 思わず感心してしまうほど細やかに手入れが行き届いている、というわけではない。


「中央区は随分と栄えているようですね」


 戦火の気配さえ感じられない。

 あらゆる生命を蝕む不浄の力――穢れを退けているのは、全て聖地ヘレネケーゼの恩恵によるものだった。


「ヘレネス・ゼレイス様……かの偉大な賢者は、自らの生命と引き換えに安寧を齎した。不浄を寄せ付けない聖域とする加護を以て、大災禍以前よりアシュトレルを守ってくださっていたのです」


 当時を生きた彼女の話は、聖職者にとって何物にも勝る宝だ。

 口伝によって知る逸話とは訳が違う。

 それこそ『原理聖典クライス・ロレンテクスト』を覗き見なければ得られないようなもので、本来であれば耳にすることなど有り得ないくらいだった。


「あらゆる災厄を退ける聖気。今もなお、衰えてはいないようですね」

「それは、命を賭してまでヘレネケーゼを守り抜いた御方がいたからこそでしょう」


 神父は知っている。

 現世に再びカルネが降臨したのは、遍く世界を見通すエルベット神によって天命を受けたのだと。


 いずれ後世で語られるであろう逸話の始まりに居合わせて、こうしてガニヴァル聖堂への案内という大役さえ任されたのだ。

 聖職者として至上の喜びといえるだろう。


「皆さんは……私について、多くを知っているようですね」

「勿論ですとも。礼賛すべき三聖女の御一人。貴女の勇敢さは全ての信徒が見習うべきでしょう」


 信仰のために命を捧げる。

 実際に死を目の当たりにして、揺るがない決意を持てる人間はどれだけいるだろうか。


「そこまで大層なものではありません。逸話には装飾が付き物です」

「いやはや、ご謙遜を」


 そこまで話したところで、ようやく聖堂の正門に辿り着いた。

 わざわざ何を語らずとも、衛兵は即座に到着の報せを持っていく。


 僅かな退屈さえ感じる間も無く、騎士を引き連れてシェーンハイトたちが出迎える。


「――枢機卿序列二位『天魔』アルピナ・フェルメルタ」

「――枢機卿序列四位、シェーンハイト・ヴァレンティ。御身は……」


 石畳に膝を突いて尋ねる。

 思わず圧倒されてしまいそうなほどの存在感を前に、目の前の人物が自分達とは比べ物にならないほどの聖者なのだと思い知ってしまう。


 体が強張って微かに震えていた。

 足下より遥か奥に広がるような谷底の闇を覗き込んだとして、ここまで息の詰まることはないだろう。

 そんな二人を落ち着かせるように優しく微笑み返す。


「カルネ・ヴェル・プリースタ。過去には枢機卿を務めていました」


 当然、二人がその名を知らないはずがない。

 信徒の端々にまで知れ渡った聖女の名を、目の前の人物が語ることに疑問を抱くことはなかった。


「教皇より第三教区の主権限を預かりました。御二人には"天命"を果たすために力を貸してもらうことになります」


 その言葉にアルピナも頷く。

 カルネの逸話を辿っていけば、大凡おおよその目的は見当が付く。


「――さあ、忌まわしき過去を清算しましょう」


 声が心の奥底にまで響く。

 聖女として崇められているが、その使命が完璧に果たされたわけではない。

 混沌の時代において、それは大きな意味を持っていた。


 聖堂へ案内するという大役を終えた神父たちを労い、応接室に移動する。

 ただ持て囃されるために現世に還ったわけではない。

 これより始まるのは、ガルディア帝国を討ち滅ぼすための会議だ。


「……現在、ヘレネケーゼは第三教区と帝国を護るように聖域加護を展開しています」


 シェーンハイトは地図を広げる。

 ヘレネケーゼを中心として、どのように聖域化されているのかが詳細に記されていた。


 エルベット神教側は中央に位置するガニヴァル聖堂と近隣の教会まで。

 ガルディア帝国側は帝都と主要な領地を。

 それぞれ、分け合う形で穢れを退ける加護を受けている。


 地図を見て、カルネは複雑な表情を浮かべる。


「……完全なる勝利へと導けなかったのは、私の責任なのでしょうね」


 当初、エルベット神教側は劣勢だった。

 聖地争奪は長きに渡り、多くの信徒が疲弊していき、数えきれないほどの兵が命を散らした。

 それでもヘレネケーゼを明け渡すことはせず、信仰を抱いて戦場に臨み続けた。


 窮地を乗り越えるべく行われた神託の儀。

 聖女ユリスティアが身を削って降ろした神の御言葉。

 覆し難い彼我の差を五分にまで押し上げた人物こそが、神託によって枢機卿に任命されたカルネだった。


 彼女が『殉教者』と称されるのは、敵将と相討ちとなって命を落としたからだ。

 双方が指揮を取る人物を失って、結果として妥協点を探らざるをえなくなってしまった。


「ヘレネケーゼを、あの戦争を正しく……ッ」


 カルネはそこまで口にしたところで、険しい表情で眉間を押さえる。


「……カルネ様?」

「いえ、大したことではありません。それより……」


 目の前には、今の時代を生きる枢機卿が二人。

 両名共に確かな信仰と使命感を以て任務に当たっているのだと、尋ねなくとも伝わってきていた。


「アルピナ卿」

「は、はいっ」


 いつになく緊張した面持ちで姿勢を正す。

 聖十字卓議会カルディナール・フィーアの定例報告でさえ、先の戦場でさえ、ここまで真面目な顔を見せることはなかった。


「貴女の資質は素晴らしいものですね。純粋な魔力量であれば、同等の術師は遡っても何人といないでしょう」


 人間が有するには過ぎた力。

 だが、混沌の時代を生きる人々にとっては希望以外の何物でもない。


「『原理聖典クライス・ロレンテクスト』には七つの儀式方陣が記されています。教皇に申し出て、倣うといいでしょう」

「儀式方陣……」


 カルネが得意とした広域対象魔法――儀式方陣。

 多くの触媒や入念な下準備をした上で、さらに行使するには途方もない魔力がなければならないという極めて難易度の高い魔術だ。

 それが可能となれば、待望される"聖女"の肩書きを背負うに相応しい者として教皇に認められることだろう。


 だが、アルピナは首を振る。


「『原理聖典クライス・ロレンテクスト』は教皇にしか中身を見る権限がないから、きっとダメだと思います」

「……そうでしたか。それでは仕方ありませんね」


 カルネは訝しげに、そしてどこかでは納得したように頷く。


「そして……シェーンハイト卿」

「はっ!」


 カルネは緊張した面持ちのシェーンハイトに微笑み、その顔を覗き込む。

 深淵すら見通す黄金色の瞳が、魂の奥底まで残らず全てを。

 或いは、既に深淵と共にあるかのように。


「貴女は、私といますね」


 穏やかな声色で、微笑みさえ浮かべて。

 アルピナが嫉妬してしまうほどの予期せぬ賛辞。

 それを敬愛すべき聖女から伝えられ、つい先程までの迷いが勘違いではないかと思ってしまう。


「本当に。親近感を抱いてしまうくらい」


 だというのに、何故だろうか。

 シェーンハイトの心中を占めるのは、言い様のない不安のみだった。

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