35話 プロローグ
エルベット神教の信徒たちが月明かりの下に集っていた。
静寂の中で、瞑目して一心に祈りを捧げる。
敬愛する聖者の一人が、目の前に佇む十字架の下に眠っているのだ。
死を悼み、偉業を讃え、安寧に感謝し、今後を憂う。
大災禍以前の世界を羨み、そして己の責務を自覚する。
過去を支えた聖者たちは、皆が高潔な精神を以て使命を果たしたという。
そしてこの地には、自らの死を以て大戦を終結させたという『殉教者』カルネの遺体が安置されていた。
だが、その夜は違った。
何やら不快な胸騒ぎが、聖者の墓標に集う信徒を満たしていた。
不吉な星々が、奈落のような暗闇の中で嗤っている。
息の詰まるような窮屈な夜空。
異変を感じ取ったのか、年老いた神父が近くの教会から駆け付けた。
「……なんということだ」
嫌な気配が墓標を取り巻いていた。
常人であろうと気付いてしまうほどの穢れが、何か悍ましいことを成そうと企んでいる。
腸を冷水と掻き混ぜられるような、酷い恐怖と悪心が信徒たちに伝播していた。
神父に出来ることがあるとすれば、敬虔な信徒たちに道を指し示すのみ。
「決して祈りを絶やしてはなりません。我々の信仰によって穢れを退けるのですッ!」
その手は祈りを捧げるために。
今、信仰の在り方が問われているのだと。
「逃げてはなりません。祈りを、祈りを――ッ!」
抗い難い恐怖を前にして、聖者たちは臆することなく歩み続けた。
その教えを日々説いてきた神父にとっても、今回ばかりは震えが止まらないでいた。
背を向けて泣き喚きながら駆け出す者を引き留められない。
それを咎めるようなことも出来ない。
先頭で尤もらしい言葉を口にしている神父でさえ、恐怖で身動きが取れなくなっているだけなのだから。
やがて周囲を取り巻いている穢れが一点に集まっていく。
魔物か、或いは悪魔の類いか。
良くないものが生まれるのではと皆が戦慄く。
だが、穢れは唐突に消え去る。
聖者の墓標は澄み切って、却って不気味なほどに清々しい。
「一体何が……」
最初にその姿を目にして、神父は思わず息を呑む。
鎮魂の十字架の前に女性が佇んでいるのだ。
暗闇の中で表情は窺えないが、常軌を逸した量の魔力が立ち昇っていた。
「私は……?」
彼女は朧気な意識の中で過去の記憶を手繰る。
何故、自分はここにいるのか。
思い出そうとして、激しい痛みを伴って視界が明滅する。
「私は……ッ!?」
それが何を引き起こすのか、理解する必要はなかった。
もう"思い出した"のだから。
無意味に感傷に浸る暇など与えられない。
神父は膝を突いて感謝する。
思わず涙が溢れ、それを拭うことも忘れて祈りの姿勢を取る。
「あぁ、貴女こそが――」
皆の祈りが届いたのだ。
現世に聖者が甦ったのは、信仰によって齎された奇跡なのだと。
先程まで墓標を取り巻いていた穢れは、彼女の降臨と共に感じられなくなった。
身に纏う清浄な力で以て打ち払ったのだろう。
神父を先頭に跪く信徒たち。
敬虔な彼ら彼女らが望むものは唯一つ。
混沌の時代を終わらせることのみ。
そして、彼女に与えられた使命も同じものだった。
「貴方たちは……これまで、多くの困難を耐え凌いできました」
心から労いの言葉を贈る。
過酷な世界を生き抜いて、今この場に居合わせた信心深さを讃える。
そして彼女には、皆の期待に応えるだけの力があった。
「救済を始めましょう。忌まわしき過去を、全て清算するために」
優しい声色で、幼子を寝かし付けるような穏やかさで。
だが、煌々と赤月が照らし出すのは――。
◆◇◆◇◆
――エルベット神教直轄領、第三教区アシュトレル。
主要な教区の一つであり、多くの信徒が礼拝に訪れる聖地だ。
そこに至るには穢れの濃い地域を踏破しなければならないのだが、巡礼者は危険を承知の上でこの地を訪れる。
この教区の中心にあるのは、使命のために命を擲った聖者の墓標。
エルベット神教における四宝、その一つである『原理教典』には、この地に眠る者たちの逸話が多く残されていた。
その重要性、機密性から原本を手に取ることは誰にも許されていない。
高位の司祭でなければ多くを知ることは出来ず、それには教皇に認められるだけの信心深さが必要だ。
それでも『聖女』ユリスティアを始めとした重要な人物の逸話は広く語られている。
「ったく、陰気臭い場所だ」
街並みを眺めながら、グレンが窮屈そうに呟く。
現在の場所は、聖者の墓標から見て北東に位置しているラナンという街だ。
直轄領ということもあってエルベット神教の影響が強く、どこか堅苦しい感じがしていた。
確かに他の地域よりは秩序が保たれているらしい。
信仰を捧げることで身の安全が保証されるのであれば、エルベット神教に縋りたくもなるだろう。
「手を組んで黙っているだけでいい。エルベット神教からすれば、それだけで利益になりますからねえ」
都合の良い話だとヴァンは笑う。
街中でするには過ぎた話だが、幸い誰かが聞き耳を立てていることはなかった。
「傭兵が殆ど見当たらねえな。それだけの戦力を持っているってことなんだろうが……」
決して穢れの影響が薄いわけではない。
荒れ果てたアーラント教区と比べれば幾分かマシな方だが、それでも人間が居住区とするには過酷な地帯が多く存在している。
凶悪な魔物の出現も絶えず、決して危険が少ないというわけではない。
それでも第三教区アシュトレルの秩序が保たれているのは、中心部に位置している聖者の墓標が関わっていた。
「第三教区は枢機卿の庇護下に置かれているって聞いたことがあります」
まさに安住の地と呼ぶべきだろう。
戦う力を持たないシズにとって、奴隷時代に夢見た場所の一つだ。
そんなシズとは対象的に、ヴァンは不機嫌そうに街並みを眺めていた。
「アシュトレルを管轄しているのは枢機卿序列二位――アルピナ・フェルメルタ」
第三教区を直轄する少女で、高位の魔法を扱える数少ない逸材。
底知れぬ魔力量を誇り、魔物の軍勢が押し寄せようと容易く焼き付くしてしまうという。
個という括りに留まらない戦力として、エルベット神教において重要な役割を担っていた。
「最も聖女に近い存在……と、まあ不遜な崇められ方をしているようです」
魔力量や魔術の才能だけで聖女になれるわけではない。
信仰を捧げるに足る器を持ってこそ初めて聖女となるのであって、ヴァンにとってそれはリスティルに他ならない。
他の人間が聖女を自称していたならば、彼は躊躇わず首を斬りに向かうだろう。
「目立つような真似は勘弁してくれ」
呆れたようにグレンが肩を竦める。
ベレツィの村でシェーンハイトと対峙した時のような面倒事になるのは避けたかった。
敵対するには、エルベット神教は強大な力を持ちすぎている。
リスティルが関わる場合、ヴァンは容易く冷静さを失ってしまう。
敵対する理由もないのだから、下手に刺激するようなことは避けた方がいいはずだ。
とはいえ、グレン自身もエルベット神教を肯定的に捉えているわけではなかった。
監獄から解放されたベレツィの村人たちは、希望の後に絶望へと突き落とされたのだ。
諸手を挙げてその方針に賛同することは出来ない。
人命よりも体制の維持を選んだのだ。
恐ろしく残忍な人間が統括しているのだろうと、グレンは不愉快そうに眉を顰めた。
それでも不要とは言えないくらいには、エルベット神教の活動によって救われた人間も多かった。
一方で救われない命もある。
彼らの教義に反する者は、如何なる事情があろうと断罪されることだろう。
グレンは困ったように頬を掻く。
「……フードを外すのは宿に着くまで我慢してくれ」
「うー、わかったよ」
手を伸ばしてフードを被せると、渋々といった様子で頷く。
デオン伯爵の愛娘――ユノ・フラウ・デオン。
彼女は『穢れの血』とは違った形でエルベット神教には認められない存在だった。
爛々と輝く灼い瞳と頭髪。
浅黒い肌も相まって目立つ容姿をしているが、それ自体は問題ではなかった。
屋敷の地下室で遭遇した時、ユノは"悪魔"と形容するに相応しい角と翼、そして尻尾を持っていた。
当然ながら、厳格な教義を重んじるエルベット神教にとって許容できる存在ではない。
その存在は『穢れの血』以上に異質なものだろう。
今は発現していないようだったが、衆目に晒される危険性を考慮すれば当然の判断だった。
場合によっては命を狙われかねない。
「それで、第三教区に何の用があるんだ?」
リスティルに問い掛ける。
エルベット神教が秩序を保つために尽力している直轄領で『穢れの血』が野放しにされているとは思えない。
何か別の危機が迫っているのかもしれないが、現時点で開示された情報は殆ど無い。
「……今はなんとも言えん。杞憂であればいいのだが」
未来予知と自らの記憶を頼りに道を切り開く。
それが彼女の強みだったが、伯爵領で反乱が起きる直前までシャーデンの存在を把握出来なかった。
見えた光景を全面的に信頼するつもりはない。
入念に確かめた上で、補助的な情報として判断材料にすればいいのだ。
森羅万象を手に取れるなどと驕っては、力を振り回すだけの愚者に成り下がってしまう。
「一先ず、目的は『聖者の墓標』の調査だ」
よほど切迫しているのか、リスティルの表情には余裕が感じられなかった。
とはいえ、無策に直行したところで立ち入りの許可が降りることは無い。
「そのために現地の協力者を得るとしよう。人選は……ヴァン、お前に任せる」
「仰せのままに」
ヴァンは一礼すると、足元の影に溶けるように沈んでいった。
彼ならば適任者を見つけ出せるだろう。
その間の護衛はグレン一人で勤めなければならない。
気を緩めるつもりはないが、大所帯になってどうにも気が散ってしまう。
当然ながら、それを理由にするつもりは無い。
明確な敵意や凶悪な気配を察知できないほど未熟ではないとグレンは自負している。
護衛を引き受けた以上、任された仕事を全うするまでだ。
護衛を一人で任せられる程度には、ヴァンはグレンを信用している。
アーラント教区で出会った当初であれば、たとえリスティルの命令であろうと不服な表情を浮かべたことだろう。
「……なあ、リスティル」
これまで対峙してきた『穢れの血』は、皆が精神に歪みを生じさせていた。
狂気に駆られ、身を委ねて愉しむ者が大半だろう。
だが、少なくとも。
表面上は、ヴァンからそれらしい狂気を感じることは殆どなかった。
リスティルを敬愛する姿も、過剰ではあるが違和感は無い。
「あいつは、どうしてお前を盲信しているんだ?」
ヴァンを同行させるに至った経緯について興味を抱いたのだ。
どのようにして『穢れの血』として目覚め、リスティルと出会い、従者となったのか。
易々と御せるような人物でないことはグレンが一番理解している。
「気になるのであれば、本人に聞いてみるといい」
「なら、信用を稼がねえとな」
リスティルから話せないような事情があるのだろう。
その様子から、気軽な出会いでなかったことは容易に想像出来る。
グレンは仕方ないといった様子で肩を竦めた。
思うところがあるのか、リスティルの面持ちは明るくない。
喉に引っ掛かっていた弱音をどうにか押し出す。
「……ヴァンも『穢れの血』だ。狂気に呑まれる危険は、想定しておいてほしい」
リスティルは覚悟が決まっていない。
その時が訪れてしまうことに対して微かな不安を抱いているように見えた。
「お前が健在な限り、あいつは問題ねえだろうよ」
浸蝕された精神の支柱となっているのは間違いなく彼女だ。
狂気に呑まれることも、悪食衝動に囚われることも、リスティルに命じられる限り抗う意思を持ち続けることだろう。
それこそ、クリームヒルトのように。
後悔は募れど、決して振り返ることはしない。
それを望んでいないことくらいは理解しているつもりだった。
刻まれた魔紋に宿る遺志が、前進するための助けとなっている。
「……なにか、聞こえませんか?」
不意にシズが首を傾げる。
閑散とした通りの中に、気味の悪い異音が混ざり込んでいる。
「うー、この音きらいだよ」
ユノが耳を塞ぐ。
不愉快な雑音が何処からか聞こえてきていた。
何を奏でているのか、軋むような、呻くような音が短調な旋律を奏でていた。
「――貴様はッ!」
穢れの気配に敏感なリスティルは真っ先に正体に気付いた。
そうでなくとも、これほどの力を持っている相手であれば誰もが気付くことだろう。
幽霊のように蒼白な肌色をした長身痩躯の男が、濁った瞳でこちらを眺めていた。
背には漆黒の棺を背負い、頑丈な鎖で体に縛り付けている。
その棺を見ているだけで嫌な汗が噴き出して止まらなかった。
ただの静寂さえ気味悪く感じてしまい、グレンは堪らず声を張り上げる。
「てめぇ、何の用だ?」
濃い穢れの気配に、第六感が激しく警笛を鳴らす。
以前にも同様の存在と対峙している。
身に宿す穢れの量は、かつて殺めたマルメラーデ監獄の支配者を想起させる。
不審な素振りを見せたなら容赦なく斬る。
その意思を込めて殺気を放ったはずだったが、男はグレンの後ろに意識が向いているようだった。
「――これは、なんという僥倖」
その瞬間、濁流のような殺気が溢れ出す。
悍ましい瘴気を立ち昇らせる姿は、紛う事無き『穢れの血』だ。
「いと昏き深淵の導き。謝意を……あぁ、謝意を示さねばッ!」
背負った棺から不快な金切り声が響き渡る。
ガタガタと暴れるように震え、内側から奈落の如き闇が溢れ出す。
魔力とも穢れとも異なる、しかし身震いしてしまうほどに邪悪な力。
耳を塞ぎたくなる甲高い絶叫に、棺の中身を嫌でも想像してしまう。
「下がってろッ!」
身の丈もあろうかという大剣を二振り。
人外を相手取ろうと不足は無い。
気の狂った化け物など幾度となく対峙している。
「何が目的か知らねえが……わざわざ出張ってきた奴を、逃がす理由はねえよなぁッ!!!」
力任せな踏み込み――瞬時に距離を詰め、身を捻りながら横薙ぎに大剣を振るう。
魔法障壁のような鈍い手応えを感じたが、構わず振り抜いて弾き飛ばした。
「……どうなってやがる」
グレンは意味が分からないといった様子で男を見据える。
生身で一太刀を受けて、何事もなかったかのように佇んでいるのだ。
鉛の塊でさえ、もう少しまともな反応をしてくれるだろう。
「先走るな、グレン。奴は――」
リスティルの言葉を遮るように、再び甲高い絶叫が響き渡る。
喉が張り裂けるのではと不安になるほどだ。
「耳が、痛い……ッ」
シズは耳を押さえて踞る。
悲鳴自体に魔術的な力が宿っているらしく、薄目を開けて見れば周囲の地面に罅が入っていた。
それほどまでに悍ましい苦悶を。
男は、まるで楽器の演奏でも聞いているかのように愉しんでいた。
「……奴は『六芒魔典』の一人、イグナーツ・アルマノーレ。代償魔術を研究し続けた、正真正銘の狂人だ」
代償魔術――現在の魔術体系の中では上辺に触れることさえ許されない禁忌。
術者の魔力を源とするところを、例えば生命力であったり魂そのものであったり、様々なものを強引に媒介とすることで本来であれば成し得ない出力での魔術行使を可能とする技術だった。
「お褒めに預かり光栄にございます――"聖女"リスティル」
イグナーツは天を仰ぎ、そして頭を垂れる。
見上げる瞳に宿る狂気を一片たりとて隠すつもりはないらしい。
「私が貴様に向けるのは侮蔑のみだ。魔術行使の代償をそれに肩代わりさせているな?」
「御名答」
ガタガタと震える棺の中身。
膨大な魔力と引き換えに、どれほどの苦痛を味わっているのだろうか。
「我が同胞シュラン・ゲーテは"恐怖"に価値を見出だした。誰も彼もが語りたがらぬ負の哲学。そこには、魔道の果てへ辿り着くための手掛かりがあったのですッ!」
再び棺から絶叫が上がる。
その絶望を糧に、膨大な魔力が供給されていく。
「過去には生き物の魔力の根元……魔核を代償とした術師がおりました。殺戮の果てに辿り着いたその結論は、代償魔術として一つの完成形に至っていた」
だが、とイグナーツは続ける。
「多くの命を無為に貪るだけでは、あまりにも品がないのですッ!」
空間が狂気に支配されていた。
彼の目指す魔術の完成形は、粗暴な方法では辿り着けない。
「生命は尊く、生き様は美しく、生まれながらにして希望を抱き、生涯を力強く突き進む――」
そして嗤う。
「――その根源を、精神を代償として喰らわせることによって我が魔術は完成するのです」
生きる力――過酷に抗う心を代償に選んだ。
精神を蝕み続ける絶望に、抗い続けられる者などいないだろう。
彼にとって、他者の命など消耗品に過ぎないのだ。
「チッ、反吐が出る」
グレンは苛立った様子で睨み付ける。
下衆を前にして殺気を押さえるつもりはないが、剣を向けるのであれば棺の"中身"を苦しめることにも繋がる。
もし手遅れであったとしても、せめて死の瞬間くらいは解放されてもいいはずだ。
その憤りを感じ取ったのだろう。
イグナーツは誠実に、内なる闇を曝け出す。
「御安心を。安らかな死を与えるのは、その魂を貪る者の責務ですので」
狂気の中で紳士が嗤う。
露になったのは、思わず身震いしてしまうほどに歪な精神だった。
「天恵に感謝の念を捧げるのは、此の地に住まうエルベットの信徒も同じこと。戴くからには生命に敬意を払うべきなのです。だがしかし、何故でしょう――」
背負った棺を振り返り、恍惚と撫で擦る。
「――死の間際に解放された者は、決まって幸福な笑みを浮かべるのです」
「てめぇえええええッ!」
再び大剣を構え、グレンは咆哮する。
これほどの邪悪を見逃すわけにはいかない。
棺に囚われた者を犠牲にしてでも、この場で終わらせなければならない。
だが、易々と命を差し出すような輩ではない。
「――我が主に餐を捧げなさいッ! さあ、さあ!」
イグナーツの魔力が爆発的に膨れ上がっていく。
生命の根源を代償にして生み出される力は、数多ある魔術の遥か高みを行く。
「――ッ!?」
渾身の一太刀は、素手で受け止められてしまう。
膨大な魔力を込めて振るわれた鉄塊の如き大剣。
相応の衝撃が加えられたはずだった。
しかし、歪な力がそれを打ち消してしまう。
「あぁ、命の輝きのなんと美しいことかッ!」
今度は自分の番だと言わんばかりに大袈裟に手を構えた。
棺からは悲鳴が上がり、掌には馬鹿げた出力の穢れが宿る。
「さあ、鮮烈に爆ぜよ――冥底ッ!」
武の理が存在しているわけではない。
限界まで圧縮させた魔力を掌で押し込むように放つのみ。
本来であれば児戯と侮るような稚拙なものだったが、イグナーツの技は代償魔術によって極めて凶悪な威力に昇華されている。
「グレンッ!」
リスティルが声を上げる。
底知れぬイグナーツの脅威に、穢れの恐ろしさを再認識してしまう。
しかし――。
「――効かねえなぁッ!」
展開された魔力外皮が衝撃を押し殺す。
それでも全てを防ぎ切れるわけではないが、残りは気合いで以て凌いだ。
お返しとばかりに力任せに蹴り飛ばす。
そして、背後から急激な魔力の高まりを感じて即座に飛び退いた。
「――爆炎っ!」
炎塊が後方から飛来する。
機を窺っていたらしいユノが魔術を行使したのだ。
幼子が介入してくるとは思っていなかったのだろう。
意表を突くだけでなく十分な威力を伴っている。
イグナーツは咄嗟に魔法障壁を展開して防ぎつつ、警戒した様子で距離を取った。
「聖女リスティル……どうやら"今回は"十分な護衛を付けているようですね」
心底残念といった様子で肩を落とす。
多少なりと手傷を負わせたはずだったが、その目に諦念は浮かばず、未だに歪な狂気を帯びている。
「まあいいでしょう。本来の目的は貴女ではないのですから、欲を張っても仕方が無い」
「貴様が動いているということは、やはり……」
リスティルは歯を軋らせる。
面倒な手合いが絡んできてしまった。
何かしらの要因が、今回も未来予知を僅かに狂わせている。
「美しき混沌の時代に、かの高潔な『殉教者』が再臨したのです。そして貴女も――」
――それが何を意味しているのか。
興味を抱いているのだろう。
リスティルが特別な存在であることはグレンも理解している。
だが、イグナーツの"再臨"という言葉がどうにも引っ掛かってしまう。
「いと昏き深淵の導き。精々足掻いて、愉しませていただきましょう」
イグナーツの足元に魔方陣が展開される。
それは見覚えのある『遺失魔術』――転移魔法だ。
「逃がすかよッ!」
飛び出そうとするグレンだったが、リスティルが即座に制止する。
「深追いする必要は無い。奴の目的が『殉教者』であるのなら――」
イグナーツの姿が掻き消える。
魔力の残滓を憎々しげに見詰めるグレンだったが、リスティルは落ち着いた様子で続ける。
「――我々が対峙するまでもなく、無様に命を散らすことだろう」
その末路は想像に易い。
再臨が事実であるならば、態々手を下すまでもないと分かっていた。




