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黒き聖女の黙示録《アポカリュプセ》  作者: 黒肯倫理教団
二章 彩戟のクリームヒルト

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27話 翠嵐鳥(6)

「――身を守れッ!」


 危険を察知して即座に声を上げるが、その声はファウスマラクトの甲高い鳴き声と、突如として吹き荒れ始めた暴風によって掻き消された。


 心の奥底に眠る"恐怖"を抉り出すような、赤黒く濁った風が体中を撫で回す。

 吹き飛ばされないように踏ん張る脚が微かに震える。

 禍々しい色をした翼を荒々しく羽ばたかせることで、不浄の嵐を巻き起こしているのだ。


「……ッ」


 グレンは魔力で纏うようにして身を守り、仲間を守るように体を大きく広げて立ちはだかる。

 しかし不完全なのか、体中を引き裂かれるような激痛が走っていく。


――だが、一滴たりとて血を流していない。


 気付いた時には手遅れだった。


 咄嗟に離脱しようにも四肢に十分な力が入らない。

 濁流に呑まれるかのように意識が引きずり込まれていく。

 思わず藻掻いてしまうほどに息苦しい。


 心の奥底まで、深々と抉るように『穢れ』が突き立てられたのだ。

 脳が焼き切れてしまうほどの痛みに苦悶しつつ、噛み締めた歯を軋らせながら耐え凌ぐ。

 彼が辛うじて正気を保てているのは、これまでの過酷な旅路で得たあらゆる経験と、折れる事なき闘志によるものだろう。


 とはいえ、穢れとは深界の■■に存在する『■■■■■』の一部であって、人間が抗えるような代物ではない。


 視界が黒く染め上げられていく。

 蔦のように絡みつき、張り巡らされ、埋め尽くしていく。

 深層にまで"悍ましい何か"が手を伸ばして、愛おしそうに――。


「――させないッ!」


 鮮やかな七色の魔力が閃き、視界に彩を取り戻す。

 気付けば、グレンたちを庇うようにクリームヒルトが前に立っていた。


 爽やかな風が吹き抜ける。

 魔力が弾けるように剣から離れ、雨粒のように小さな球状の残滓が煌いている。

 一つ結びにした翡翠色の髪がふわりと軽やかに、淑やかに踊っていた。


 穢れの力には頼らない。

 磨き上げてきた『彩戟』によって、生きた証を残すのだと決めていた。

 この程度のことを引き受けないで英雄は名乗れない。


 グレンは解放されるや否や勢いよく空気を吸い込み、苦しそうに吐き出す。

 つい先ほどまで呼吸を忘れていたのかと思うほどに苦しかった。


 ゆっくりと呼吸を繰り返して息を整えつつ、再び力強く二振りの大剣を握り締める。

 今考えるべきはファウスマラクトの討伐だ。


――やはり『穢れ』の力は侮れない。


 リスティルが感心するだけのことはある、とグレンは感じていた。

 マルメラーデ監獄で対峙したシュラン・ゲーテと比べれば幾分か易い相手だが、それでもこういった手合いに慣れていない人間には荷が重い。

 穢れの影響を色濃く受けた生き物は人知を超えるほどに多様な能力を発現させるのだろう。


 敵対すれば脅威だが、此方こちら側には『穢れの血』が二人いる。


「――リスティル様に対する冒涜には、相応の報いが必要ですねぇッ!」


 後方からヴァンの怒声が響いたかと思うと、直後には魔力が荒々しく膨れ上がる。

 先ほどファウスマラクトが羽ばたいた際に砂埃が舞い……リスティルが身に纏う漆黒の法衣、その裾を僅かに汚してしまった。


 既に観察は終えた。

 十分すぎるほどに理解した。

 ファウスマラクトは、偉大な聖女を前にして最低限の礼節さえ弁えない野蛮な魔物でしかない。


 これより行使するのは、世界の枢軸に手を伸ばす禁忌の魔術。

 其の身を蝕む穢れを媒介としてまで彼が望むのは、敬愛する聖女の征く手を阻む愚かな魔物の無残な末路。


「――永夜幽閉ユーベル・ディアグノーゼ


 世界が激しく明滅する。

 凍て付いた空気が肌を刺す。

 思わず身震いしてしまうほどに、容易く生命が失われていく気配を感じる。


 間も無くして、大地から彩度が失われた。

 赤褐色の土は触れるのを躊躇ってしまうような冷たい灰色へと染まり、そこから"何か"がゆらりと這い上がる。


 それを形容することは赦されない。

 何者であるのかを定義することさえ傲慢だと感じてしまう。

 故に、思考を放棄して行く末を見守るのみ。


 立ち昇る濃密な穢れの塊がファウスマラクトに視線を向けた。

 現世に呼ぶための稚拙な化身でさえ、存在としての格は人知を凌駕する。


 次の瞬間には再び世界が明滅し、結果としてその翼は根元から力を奪取された。


 ファウスマラクトはただの装飾へと成り下がった翼を見詰める。

 あれほど駆け回った大空は彼が統べる領域ではないのだ。


 大空を支配するには程遠い、地に落とされた一体の魔獣。

 未だに濃い穢れの気配と強靭な生命力は健在だが、天然の闘技場とも呼ぶべきこの地であれば逃げられるような恐れもない。

 空に還れないと気付いた時、ファウスマラクトは悲鳴に似た叫び声を上げて突進してきた。


 哀憐を抱く必要はない。

 依然として穢れの力は健在であり、大地を踏みしめる両足も強靭なものだ。

 未だに脅威であることには変わりない。


 だが、グレンは勝利を確信する。

 翼を失った鳥など、そこらの獣と変わらない。

 純粋な力比べであれば負ける道理は無いのだから、何を恐れる必要があるというのか。


 現に、激昂したファウスマラクトが身を省みず突進してきているというのに、微塵も恐怖を感じないのだ。


「喰らいやがれ――剛撃ッ!」


 渾身の一振りは、眼前に迫るファウスマラクトを容易く受け止め、その巨体を力任せに押し返す。

 胴体部分を分厚く覆っている硬質な羽毛を切り裂くには至らないものの、大質量による一撃の反動は想像を絶するものだ。

 その内側で、何本か骨がひしゃげていてもおかしくはない。


 苦痛に呻くファウスマラクト、その致命的な隙を見逃すはずがない。

 グレンの後方から、素早い身のこなしでクリームヒルトが駆け抜ける。


「惨劇も――」


――紫旋。


 鮮やかな剣閃で脚を切り払い、動きを封じる。


「悲劇も――」


――碧波。


 打ち出された魔力波が、体制を崩していたファウスマラクトの巨体を大きく仰け反らせる。


「これで――しまいッ!」


――紅棘。


 いくら羽毛による堅牢な守りがあろうと、それをすり抜けるように魔力で穿たれては成す術もない。

 確実に急所を捉えていた。


 ファウスマラクトは痛みに呻き、甲高く鳴いた。

 その美しい翼で逃げようとでもしたのだろう。

 だが、ヴァンの魔術によって力を奪われていては、無意味に空を見上げるだけでしかない。


 その瞳から生命の輝きが失われ、大地に伏した。

 己が築いた骸の巣穴、その内の一つになろうとは、夢にも思っていなかったことだろう。


「……これで、犠牲者たちへの弔いになるといいな」


 クリームヒルトは瞑目する。

 此の地に集められた亡骸オプファーへ、せめて死後の世界では安らかにあれと。


 しかし――。


「――ッ!?」


 亡者共の怨恨が、彼女を取り巻くように沸き上がる。

 ファウスマラクトの死が救済に繋がるというわけではない。

 不浄の翼に呑まれた時点で救いはないのだ。


――何故だ。


――何故なのか。


――我らは暗闇の中に取り残された。


――その"肩書き"は偽りなのか。


 英雄としての矜持。

 人間としての恐怖。

 己が何者であるのか、答えは既に決めたはずだった。


「また……また私を、苛むのか……ッ」


 クリームヒルトは歯を食い縛り、拳を固く握りしめて怨嗟の声を耐え抜こうとする。

 それが英雄としての責務であると、本気で信じているからだ。


 何故、こんなにも自分を苛むのか。

 最善は尽くしていたはずだ。

 そう思う一方で、己の脆弱さを悔いてしまう。


 亡者共に尤もらしい言葉を返したところで意味がない。

 大いなる悪意に囚われているのだから、真摯に向き合うほど心を磨り減らしてしまう。


 故に、最適解は決まっている。


「――失せやがれッ!」


 グレンは荒々しく吠え、亡者共を大剣で蹴散らす。

 こんなもの相手にするだけ無駄だ。


 静まり返った採掘場で、グレンは苛立ったように頭を掻いた後、心底残念そうにため息を吐いた。


「……こんな時代で、てめえの不運を他人の背に擦り付けてんじゃねえよ」


 道半ばで息絶えたのであれば、その程度の存在だっただけのこと。

 戦う力も無しに天寿を全うすることを考えるなど烏滸がましい。

 望むならば、己の手で命を繋いでいくしかないのだ。


 無論、自分が恵まれているという自覚はある。

 如何に過酷な鍛練を積んだとしても、常人がこの領域にまで到達できるかと言われれば否だ。


 見ず知らずの他人にまで尽力する義理はない。

 クリームヒルトの信念を誤りであるとも言い難い。

 腕を広げて抱えきれるのであれば、グレンも同様に助けようとするだろう。


 だが、クリームヒルトは全てを背負い込もうとしている。

 手の届くもの、届かないもの、視界に入らないもの、存在を知ることなく死んでいくものまで。


「なんと哀れな……」


 リスティルは悲しげにクリームヒルトを見詰める。

 もはや"英雄"の肩書きは呪いでしかない。


 全ての死に心を痛め、全ての責任を背負うつもりなのだ。

 それは穢れによる影響か、或いは彼女の生来の気質なのか。


 既に最深部にまで侵食が進んでいるのだ。

 理性を保っているようでいて、その内側でどこが壊れているか分からない。

 しかし、彼女の意思を『歪んだ価値観によって"英雄"で在ることを強いられている』と切り捨てるのは残酷な話だ。


 クリームヒルトの自我の在処が掴めない。

 その意思を尊重しようにも、心から望んでいるのかどうか彼女自身にも判別が付かないだろう。

 かといって、身勝手に進むべき道を決めるわけにもいかない。


 今すべきことは、穢れを回収して未来予知を行い、間近に迫った危機――伯爵領の反乱、そしてクリームヒルトの行く末を観測することである。


 地に伏したファウスマラクトの前に立ち、己の責務を果たすため手を翳す。

 亡骸から黒い霞が湧き上がって、その全てがリスティルに流れ込んでいった。


 そして、リスティルは祈るように両手を組んで膝を突く。

 舞い上がる魔力光、足元に展開された魔法陣。

 淡く照らされた姿は正しく聖女と呼ぶに相応しい。


「……これは」


 朧げな意識の中で、その人物を見つけ出す。

 薄汚れた鼠色の外套に身を包んだ男。

 フードから覗く口元は、思わず身震いしてしまうほど残虐に、狡猾に歪められていた。


 男は徐に手をフードに掛けると、ゆっくりと顔を露にする。


 数多ある可能性の分岐。

 世界が辿るであろう未来の光景。

 その全てで、男は観測されていることを気付いているかのように嗤っていた。


「馬鹿なッ――」


 途端に意識が覚醒する。

 体中を熱が駆け回り、額にじわりと汗が滲み出る。


 この焦燥は何だ。

 不安を掻き立てられるような胸騒ぎは何だ。


「――何故、今まで見えなかった?」


 逆に此方を察知されるなど、これまでの未来予知ではなかった。

 自身の知り得ない所で未来を書き換えていることも信じ難い。

 だが、この男はリスティルに捕捉されるまでの間にデオン伯爵領で暗躍していたらしい。


「おい、何が見えたんだ?」


 焦れたようにグレンが問う。

 明らかにリスティルの様子は異常だった。

 どのような光景が見えたのか、それは彼女の口からでなければ知ることは出来ない。


「……伯爵領が戦火に呑まれる。これから起きるであろう惨劇は、私たちには覆しようがない」


 その男は、一体どれだけの悪意を秘めて行動しているのか。

 既に手遅れだと断言してしまうほど周到に、伯爵領内に留まらない規模で様々な火種を蒔いていた。


 仕込まれた全ての悪意が中央交易都市ハンデルに、そしてデオン伯爵の地位に向けられている。


「何がどうなってんのかは分からねえが……話は道中で聞く」


 クリームヒルトを横目に言葉を切る。

 このまま憔悴しきった状態で放っておけるはずがない。


「急いでエルツの村に戻るぞ。これ以上、あいつに無理をさせるべきじゃない」


 グレンに出来るのは苦痛を和らげることのみ。

 一刻も早く宿に戻り、落ち着きを取り戻すまでベッドで休ませたいと考えていた。

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