幸せな一日
その日の朝、アーサー・N・ハイドは娘の歌声で目を覚ました。
「Happy birthday to me~♪」
階下から聞こえてくる無邪気な歌声に、アーサーは思わず微笑んだ。今日は娘のエマの十二歳の誕生日だった。
隣では、妻のオリヴィアがまだ寝息を立てている。北欧の朝日を思わせる金髪が、枕に広がっていた。アーサーはそっとベッドから抜け出し、階下へと向かった。
キッチンでは、エマが朝食の準備を手伝おうとして、小麦粉を床にぶちまけていた。
「あ、パパ!」
茶色の髪を小麦粉で真っ白にしながら、エマが振り返った。母親譲りの青い瞳が、いたずらっぽく輝いている。
「パンケーキを作ろうと思ったんだけど……」
「誕生日の主役が料理をする必要はないよ」
アーサーは優しく笑いながら、娘の頭から小麦粉を払った。五十四歳という年齢になっても、娘の笑顔を見るたびに、人生で最良の選択をしたと確信する。北欧から日本に移住し、オリヴィアと出会い、この子を授かった。
「じゃあ、パパが作ってくれる?」
「もちろん。君が大好きなハチミツたっぷりのパンケーキをね」
二人でキッチンを片付けていると、オリヴィアが階段を降りてきた。
「あら、もう起きてたの?」
「ママ! 今日あたしの誕生日だよ!」
「知ってるわ」
オリヴィアは娘を抱きしめ、頬にキスをした。
「十二歳おめでとう、エマ」
朝食はいつもより豪華だった。アーサーが焼いた分厚いパンケーキに、たっぷりのハチミツ。オリヴィアが用意していたベリージャムとクリーム。エマの好きなココアも特別に許可された。
「今日は何がしたい?」
アーサーが尋ねると、エマは目を輝かせた。
「水族館! この前テレビで見た、新しくできた水族館に行きたい!」
「いいね。じゃあ、午後から行こうか」
家族三人で過ごす穏やかな朝。アーサーはコーヒーを飲みながら、この幸せがずっと続くことを願った。
午後、約束通り水族館へ出かけた。
エマは巨大な水槽の前で歓声を上げ、イルカショーでは最前列で水しぶきを浴びた。オリヴィアがずぶ濡れの娘を見て苦笑いし、アーサーは二人の姿を写真に収めた。
夕食は、エマのリクエストで近所のイタリアンレストランへ。本当はホームパーティを開く予定だったが、友人たちの予定が合わず、それは明日に持ち越された。
店員が誕生日ケーキを運んでくると、エマは恥ずかしそうに、でも嬉しそうに笑った。
「願い事は?」
「内緒!」
エマは目を閉じて、ろうそくを吹き消した。
家に帰ったのは午後九時を過ぎていた。エマはプレゼントの包みを開けながら、一日の出来事を興奮気味に話していた。
「今日は最高の誕生日だった!」
エマがそう言って両親に抱きついたとき、アーサーは心の底から幸せを感じた。
「そろそろ寝る時間よ」
午後十時、オリヴィアがエマを寝室へと促した。
「えー、もう少し」
「明日も学校でしょう」
エマは不満そうにしながらも、二階の自室へと上がっていった。
アーサーはオリヴィアと居間のソファに座り、ワインを開けた。
「いい一日だったね」
「ええ。エマ、本当に嬉しそうだった」
二人は静かにグラスを合わせた。
それから四時間後、すべてが変わった。
――午前二時三十分。
エマの悲鳴が、家中に響き渡った。
「きゃああああああ!」
アーサーは反射的にソファから飛び起きた。手にしていたワイングラスが床に落ち、赤い液体が絨毯に広がる。
「エマ!」
階段を駆け上がる。オリヴィアも後に続いた。
エマの部屋のドアを開けた瞬間、アーサーは現実を理解できなかった。
窓ガラスが内側から破られ、破片が床に散乱している。そして、部屋の中には――巨大な蜂がいた。
体長は一メートルを優に超える。黄色と黒の縞模様の体に、不気味に光る複眼。そして太い針のような毒針が、腹部から伸びている。
その化物が、エマを鷲掴みにしていた。
「パパ! ママ! 助けて!」
エマが必死に抵抗しているが、化物の力には敵わない。
アーサーは一瞬、凍り付いた。これは現実なのか。悪夢ではないのか。つい数時間前まで、娘の誕生日を祝っていた幸せな家族が、なぜこんな目に。
「エマァ!」
オリヴィアの叫び声で、アーサーは我に返った。キッチンへ走り、包丁を掴む。そして部屋へ戻ったが――
すでに遅かった。
化物は窓から飛び立とうとしていた。エマを抱えたまま。
「離せ!」
アーサーは包丁を振り回したが、化物はそれを軽々と避けた。そして、嘲笑うかのような羽音を残して、夜空へと消えていった。
「エマ! エマァァァ!」
オリヴィアが窓から身を乗り出し、狂ったように娘の名を叫んでいる。アーサーは妻を抱き止めながら、割れた窓から外を見た。
化物が飛び去った方向に、黒い体液が点々と落ちている。
「追いかけるぞ」
アーサーは即座に決断した。
「オリヴィア、包丁を持て。あの血の跡を辿る」
「でも、あれは何なの? なぜエマが」
「分からない。でも、取り戻すんだ」
アーサーの声は震えていたが、決意は固かった。
二人は家を飛び出した。
外の世界も、地獄と化していた。
街のあちこちから悲鳴が聞こえる。緑色の小鬼のような生物が群れをなし、逃げ惑う人々を襲っている。民家からは炎が上がり、車のクラクションが鳴り響いていた。
「街が……何が起きてるの」
オリヴィアが呟いた。
しかし、アーサーには周囲のことなど目に入らなかった。ただ、化物が残した黒い体液だけを見つめ、その跡を追った。数時間前まで幸せだった家族の時間が、まるで幻だったかのように感じられた。
血痕を辿って三十分。
廃ビルの前に辿り着いた。七階建ての古いビルで、数年前から使われていない。屋上を見上げると、何か巨大な構造物のようなものが見えた。
「あそこだ」
アーサーは確信した。あの化物の巣に違いない。中から、かすかにエマの声が聞こえるような気がした。
「行くぞ」
「待って、アーサー」
オリヴィアが夫の腕を掴んだ。その手は震えていた。
「武器も何もないのに。あんな化物が他にもいたら」
「じゃあどうしろと言うんだ!」
アーサーは声を荒げた。普段の冷静で掴みどころのない性格は完全に消え失せ、ただの絶望した父親がそこにいた。
「エマを見殺しにしろというのか! 数時間前、あの子は『最高の誕生日』だと言ったんだ! それなのに……」
アーサーの声が震えた。包丁を握る手に力が入る。
オリヴィアは夫の横顔を見つめた。白髪交じりの茶髪が乱れ、いつもの余裕のある表情は消えている。そして、彼女も決意を固めた。
「アーサー」
オリヴィアは夫の手に自分の手を重ねた。
「一緒に行きましょう。エマを助けに」
「オリヴィア……」
「私も母親よ。エマのためなら、何だってする」
彼女も包丁を握りしめた。その手は震えていたが、目には強い決意が宿っていた。
アーサーは妻を見つめ、小さく頷いた。
「ああ。二人で取り戻そう」
二人は廃ビルの入口へと向かった。重い鉄扉に手をかける。
「エマ、今助けに行くから」
アーサーが扉を開けようとした、その瞬間――
「そこに入れば、あなたの大事な人も亡くなりますよ」
背後から、静かな声が響いた。
二人は振り返った。
街灯の薄明かりの中、血まみれの戦斧を担いだ若い日本人の男が立っていた。スーツは返り血で赤黒く染まり、顔にも血飛沫が付着している。しかしその瞳は冷静で、どこか深い悲しみを帯びていた。
まるで、これから起こる悲劇を知っているかのような――そんな目だった。




