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この世界がいずれ滅ぶことを、俺だけが知っている  作者: 灰島シゲル
7章

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幸せな一日


 その日の朝、アーサー・N・ハイドは娘の歌声で目を覚ました。


「Happy birthday to me~♪」


 階下から聞こえてくる無邪気な歌声に、アーサーは思わず微笑んだ。今日は娘のエマの十二歳の誕生日だった。


 隣では、妻のオリヴィアがまだ寝息を立てている。北欧の朝日を思わせる金髪が、枕に広がっていた。アーサーはそっとベッドから抜け出し、階下へと向かった。


 キッチンでは、エマが朝食の準備を手伝おうとして、小麦粉を床にぶちまけていた。


「あ、パパ!」


 茶色の髪を小麦粉で真っ白にしながら、エマが振り返った。母親譲りの青い瞳が、いたずらっぽく輝いている。


「パンケーキを作ろうと思ったんだけど……」

「誕生日の主役が料理をする必要はないよ」


 アーサーは優しく笑いながら、娘の頭から小麦粉を払った。五十四歳という年齢になっても、娘の笑顔を見るたびに、人生で最良の選択をしたと確信する。北欧から日本に移住し、オリヴィアと出会い、この子を授かった。


「じゃあ、パパが作ってくれる?」

「もちろん。君が大好きなハチミツたっぷりのパンケーキをね」


 二人でキッチンを片付けていると、オリヴィアが階段を降りてきた。


「あら、もう起きてたの?」

「ママ! 今日あたしの誕生日だよ!」

「知ってるわ」


 オリヴィアは娘を抱きしめ、頬にキスをした。


「十二歳おめでとう、エマ」


 朝食はいつもより豪華だった。アーサーが焼いた分厚いパンケーキに、たっぷりのハチミツ。オリヴィアが用意していたベリージャムとクリーム。エマの好きなココアも特別に許可された。


「今日は何がしたい?」


 アーサーが尋ねると、エマは目を輝かせた。


「水族館! この前テレビで見た、新しくできた水族館に行きたい!」

「いいね。じゃあ、午後から行こうか」


 家族三人で過ごす穏やかな朝。アーサーはコーヒーを飲みながら、この幸せがずっと続くことを願った。



 午後、約束通り水族館へ出かけた。


 エマは巨大な水槽の前で歓声を上げ、イルカショーでは最前列で水しぶきを浴びた。オリヴィアがずぶ濡れの娘を見て苦笑いし、アーサーは二人の姿を写真に収めた。


 夕食は、エマのリクエストで近所のイタリアンレストランへ。本当はホームパーティを開く予定だったが、友人たちの予定が合わず、それは明日に持ち越された。


 店員が誕生日ケーキを運んでくると、エマは恥ずかしそうに、でも嬉しそうに笑った。


「願い事は?」

「内緒!」


 エマは目を閉じて、ろうそくを吹き消した。


 家に帰ったのは午後九時を過ぎていた。エマはプレゼントの包みを開けながら、一日の出来事を興奮気味に話していた。


「今日は最高の誕生日だった!」


 エマがそう言って両親に抱きついたとき、アーサーは心の底から幸せを感じた。


「そろそろ寝る時間よ」


 午後十時、オリヴィアがエマを寝室へと促した。


「えー、もう少し」

「明日も学校でしょう」


 エマは不満そうにしながらも、二階の自室へと上がっていった。


 アーサーはオリヴィアと居間のソファに座り、ワインを開けた。


「いい一日だったね」

「ええ。エマ、本当に嬉しそうだった」


 二人は静かにグラスを合わせた。


 それから四時間後、すべてが変わった。



 ――午前二時三十分。


 エマの悲鳴が、家中に響き渡った。



「きゃああああああ!」


 アーサーは反射的にソファから飛び起きた。手にしていたワイングラスが床に落ち、赤い液体が絨毯に広がる。


「エマ!」


 階段を駆け上がる。オリヴィアも後に続いた。


 エマの部屋のドアを開けた瞬間、アーサーは現実を理解できなかった。


 窓ガラスが内側から破られ、破片が床に散乱している。そして、部屋の中には――巨大な蜂がいた。


 体長は一メートルを優に超える。黄色と黒の縞模様の体に、不気味に光る複眼。そして太い針のような毒針が、腹部から伸びている。


 その化物が、エマを鷲掴みにしていた。


「パパ! ママ! 助けて!」


 エマが必死に抵抗しているが、化物の力には敵わない。


 アーサーは一瞬、凍り付いた。これは現実なのか。悪夢ではないのか。つい数時間前まで、娘の誕生日を祝っていた幸せな家族が、なぜこんな目に。


「エマァ!」


 オリヴィアの叫び声で、アーサーは我に返った。キッチンへ走り、包丁を掴む。そして部屋へ戻ったが――


 すでに遅かった。


 化物は窓から飛び立とうとしていた。エマを抱えたまま。


「離せ!」


 アーサーは包丁を振り回したが、化物はそれを軽々と避けた。そして、嘲笑うかのような羽音を残して、夜空へと消えていった。


「エマ! エマァァァ!」


 オリヴィアが窓から身を乗り出し、狂ったように娘の名を叫んでいる。アーサーは妻を抱き止めながら、割れた窓から外を見た。


 化物が飛び去った方向に、黒い体液が点々と落ちている。


「追いかけるぞ」


 アーサーは即座に決断した。


「オリヴィア、包丁を持て。あの血の跡を辿る」


「でも、あれは何なの? なぜエマが」


「分からない。でも、取り戻すんだ」


 アーサーの声は震えていたが、決意は固かった。


 二人は家を飛び出した。


 外の世界も、地獄と化していた。


 街のあちこちから悲鳴が聞こえる。緑色の小鬼のような生物が群れをなし、逃げ惑う人々を襲っている。民家からは炎が上がり、車のクラクションが鳴り響いていた。


「街が……何が起きてるの」


 オリヴィアが呟いた。


 しかし、アーサーには周囲のことなど目に入らなかった。ただ、化物が残した黒い体液だけを見つめ、その跡を追った。数時間前まで幸せだった家族の時間が、まるで幻だったかのように感じられた。


 血痕を辿って三十分。


 廃ビルの前に辿り着いた。七階建ての古いビルで、数年前から使われていない。屋上を見上げると、何か巨大な構造物のようなものが見えた。


「あそこだ」


 アーサーは確信した。あの化物の巣に違いない。中から、かすかにエマの声が聞こえるような気がした。


「行くぞ」

「待って、アーサー」


 オリヴィアが夫の腕を掴んだ。その手は震えていた。


「武器も何もないのに。あんな化物が他にもいたら」

「じゃあどうしろと言うんだ!」


 アーサーは声を荒げた。普段の冷静で掴みどころのない性格は完全に消え失せ、ただの絶望した父親がそこにいた。


「エマを見殺しにしろというのか! 数時間前、あの子は『最高の誕生日』だと言ったんだ! それなのに……」


 アーサーの声が震えた。包丁を握る手に力が入る。


 オリヴィアは夫の横顔を見つめた。白髪交じりの茶髪が乱れ、いつもの余裕のある表情は消えている。そして、彼女も決意を固めた。


「アーサー」


 オリヴィアは夫の手に自分の手を重ねた。


「一緒に行きましょう。エマを助けに」


「オリヴィア……」


「私も母親よ。エマのためなら、何だってする」


 彼女も包丁を握りしめた。その手は震えていたが、目には強い決意が宿っていた。

 アーサーは妻を見つめ、小さく頷いた。


「ああ。二人で取り戻そう」


 二人は廃ビルの入口へと向かった。重い鉄扉に手をかける。


「エマ、今助けに行くから」


 アーサーが扉を開けようとした、その瞬間――



「そこに入れば、あなたの大事な人も亡くなりますよ」



 背後から、静かな声が響いた。


 二人は振り返った。


 街灯の薄明かりの中、血まみれの戦斧を担いだ若い日本人の男が立っていた。スーツは返り血で赤黒く染まり、顔にも血飛沫が付着している。しかしその瞳は冷静で、どこか深い悲しみを帯びていた。


 まるで、これから起こる悲劇を知っているかのような――そんな目だった。


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― 新着の感想 ―
アーサーあの話は偽りではなく本当だったのですね。嘘を言う必要性はないとはいえ起こった出来事を変えていってるかもしれないくらいは思っていたので……
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