一条明 -0- ㉑
二人は武器を構えたまま、音の方向を見つめる。
「……なんだ?」
田村が小声で呟いた。『危機察知』スキルが反応しているのか、彼の表情は緊張に歪んでいる。
明は剣を構えたまま、慎重に奥へと足を向けた。床に散らばった商品の破片を踏まないよう、一歩一歩確かめながら進んでいく。
と、その時。
「ああ……神よ……」
低く、しかし穏やかな声が響いた。それは祈りを捧げるような、静謐な響きを持って、店の最奥部から聞こえてきた。明と田村は顔を見合わせる。人間だとすれば、ここで初めて出会う生存者かもしれない。
「誰だ?」
明が警戒を込めて声をかけた。
すると、店の奥からひょろりと背が高い、一人の中年の男が姿を現した。
顔立ちは日本人のものではない。眼鏡をかけており、撫でつけられた短い髪には幾本もの白髪が混じっている。身にまとっているのは、神父服を思わせる黒い衣装だった。
しかし明が最初に気づいたのは、男の左袖が空いていることだった。左腕が肩から完全に失われており、袖の先端が無造作に垂れ下がっている。
一見すると、戦争か事故で負傷した敬虔な宗教者のように見える。しかし——
「ああ、ついに見つけました……」
男の声には、異常な興奮が込められていた。青い瞳が血走っており、口元には不気味な笑みを浮かべている。
「魔物を狩る罪深き者たちよ」
「お前は……」
明が身構えた時、田村が小さく息を呑んだ。
「リリスライラ……邪教徒だ」
その名前を聞いた瞬間、明の記憶が蘇った。彩夏が言っていた話——悪魔を崇拝し、魔物を殺す人間を殺せば何でも願いが叶うと信じている連中。
「私の名はニコライ」
男——ニコライが残された右手を胸の前に当て、祈るような仕草を見せた。左腕がないため、その動作はどこかバランスを欠いて見える。
「偉大なる魔王ヴィネに仕える、忠実なる僕にございます」
その言葉と共に、ニコライの全身から黒いオーラが立ち上り始めた。それは単なる殺気ではない。まるで呪いそのものが可視化されたかのような、禍々しい力だった。
「ヤバい……ヤバすぎる」
『危機察知』が反応したのだろう、田村の顔が真っ青になった。
「嘘だろ、こんなの……」
「なんだッ、どうしたんだよ!」
「アイツのレベル……182だ」
田村の言葉に、明の血の気が引いた。レベル182。自分たちのレベルと比較すると、圧倒的すぎる力の差だった。
「見てください。私のこの身体を……」
ニコライが失われた左腕の袖を振った。
「これもまた、主への献身の証。私は己の肉体すら捧げ、主の意志を実現するために存在しているのです」
そのとき、店内の空気が一変した。まるで重力が増したかのように、息をするのも困難になる。ニコライの圧倒的な威圧感が、二人を押し潰そうとしていた。
異変が起きたのはその時だ。明の首にかけたペンダントが微かな光を放った。それはリアナから貰った、小さな銀色のペンダントだった。
ペンダントの光は、二人を守るようにして包み込む。ニコライの威圧感が和らぎ、呼吸が楽になった。
「これは……」
ニコライが眉をひそめた。明のペンダントを見つめ、不快そうに顔を歪める。
「フレリア……豊穣の女神の加護ですか。忌々しい……」
「逃げるぞ!」
明が叫んだ瞬間、ニコライが残された右手で祈るような仕草をした。
「主よ。あなたの憎悪を現世に顕現させたまえ―――…『暗黒弾』」
ニコライの右手の指先から、黒い光弾が放たれた。それは空気を焼きながら、明に向かって一直線に飛んでくる。
明は咄嗟に横に飛んだが、光弾の軌道が途中で曲がった。まるで意志を持っているかのようなその軌道に、明の目が大きく見開いた。
「ッ!?」
再びペンダントが光ったのは、その時だった。今度はより強く、明の全身を包み込む。
黒い光弾がペンダントの光に触れた。その瞬間、光は弾けるような音を立てて、消え去った。光に阻まれた黒い光弾は、威力を大幅に減衰させながら、明の左肩に直撃する。
「がぁっ!」
激痛が全身を駆け巡った。左肩が焼けるように痛み、革鎧が溶けている。レベル差による攻撃力の違いは、威力を減衰させながらもなお、明の防御力を容易に貫通していた。
「明!」
田村が心配そうに叫んだが、彼はまだ動くことができずにいた。ニコライの威圧感に圧倒され、身体が強張っている。
「哀れですね」
ニコライが眼鏡を外し、青い瞳を剥き出しにした。
「まるで蟻が巨象に挑むようなものです。あなた方には救いの手を差し伸べたいところなのですが……主の命令は絶対。あなた方には死んでいただかねばなりません」
ニコライがそう呟くと、店の床から無数の黒い触手が這い出してきた。それらは明と田村の足を絡め取ろうと、蛇のように蠢いている。
「うわっ!」
田村の足が複数の触手に絡まれた。ペンダントの光の効果は限定的で、触手の力を完全には無効化できない。
「田村!」
明は田村を助けようと振り返った。しかし、その隙を突いて、ニコライが最大級の攻撃を放った。
「罪深き者よ。主の慈悲によって永遠の安楽に沈みなさい」
ニコライの全身から、凄まじい量の黒いオーラが放出される。それは怨念そのものが物質化したかのような、禍々しい攻撃だった。
攻撃は明に向かって放たれる。この威力では、ペンダントの加護があっても完全には防げない。
明が覚悟を決めて、剣を構えた——その時。
「させるかよ!」
田村が触手を力ずくで引きちぎり、明の前に飛び出した。
「田村! だめだ!」
明の制止も間に合わない。黒い怨念の奔流が、田村の全身を包み込んだ。
「がぁぁぁぁぁっ!!」
田村の絶叫が店内に響く。魔王の力が彼の体内に流れ込み、肉体と魂を蝕んでいた。
「美しい……主の加護が深く刻み込まれました」
ニコライが満足そうに微笑む。
「『怨念』の呪いです……もはや誰にも解くことはできません……」
「貴様!」
明は怒りに燃えて、ニコライに向かった。ペンダントの加護を受けながら、『集中』スキルを発動し、『急所狙い』で弱点を見極める。
しかし、レベル差があまりにも大きすぎた。
「おぉぉぉぉっ!」
明の剣が空気を切り裂いた――その時。
「無駄です」
ニコライが軽く右手を動かすだけで、厚い黒いバリアが出現した。明の剣は弾かれ、攻撃は無効化される。
「くそっ!」
明が唸りをあげて、もう一度剣を振りかざした――その瞬間だった。
ドォォォォォンッ!!
突然、店全体が激しく揺れた。
ニコライが驚いて振り返った瞬間、店の壁が粉々に砕け散った。そこから現れたのは、八十メートルを超える巨大な影——ギガントだった。
「なんと……」
ニコライが狼狽した。右手で急いで眼鏡の位置を直しながら、ギガントを見上げる。ギガントの巨大な目が、店内の三人を見下ろしていた。
「アイツ……あのミノタウロスに勝ったのか?」
明は思わず呟いたが、ギガントがミノタウロスに勝つのも当然だ。ミノタウロスとギガントとでは、地力の差がありすぎる。にもかかわらず、一晩とはいえギガントから時間を稼げたのは、ミノタウロスがまだ、他の魔物に比べて強力な魔物だったからだ。
「グォォォォ!!」
怒り狂うギガントが雄叫びを上げ、巨大な拳を振り下ろした。
「くっ!」
ニコライがバリアを展開する。
その混乱に乗じて、明は田村を抱え上げた。田村の呼吸は浅く、顔色は土気色だった。意識を失っており、全身から異常な熱を発している。ニコライが放った呪いがどれほど恐ろしいものなのか、想像もつかなかった。
「今だ!」
ギガントとニコライが戦闘を始める中、明は田村を背負って店から脱出した。
「田村……しっかりしろ……!!」
明は必死に神殿への道を急いだ。
神殿への道のりは長く感じられた。田村の容態は時間が経つにつれて急速に悪化しており、時折苦しそうなうめき声を上げる。
「もうすぐだッ!! リアナがなんとかしてくれる……」
明は自分に言い聞かせながら歩き続けた。
ようやく神殿が見えてきた時、田村の意識はほとんど失われていた。
「リアナ!」
明は神殿の入り口で大声を上げた。
「リアナ! 緊急事態だ!」
すぐに、リアナが現れた。彼女は明と田村の様子を一目見ると、表情を変えた。
「何があったのですか?」
「邪教徒に襲われた。田村が『怨念』とかいう名前の呪いをかけられた」
明は田村を神殿の中に運び入れた。リアナが急いで毛布を敷き、田村を横たえる。
「これは……」
リアナが田村に触れた瞬間、彼女の顔が青ざめた。
「解けるのか?」
明の問いに、リアナは長い沈黙を返した。その沈黙が、既に答えを物語っている。
「……『怨念』を解くには、『祝福』の力が必要です」
「祝福? それなら君にもできるんじゃないか?」
「いえ」
リアナが首を振った。その表情は絶望的だった。
「私が使えるのは『治癒』の力。『祝福』は、それよりもはるかに高位の神術です。それも、これほど強力な『怨念』を解くには、神そのものの力が必要かもしれません」
明の心臓が激しく鼓動した。
「つまり……田村を救うことはできないのか?」
リアナは答えることができずにいた。その沈黙が、残酷な現実を突きつける。
田村の呼吸が次第に浅くなっていく。顔色はますます悪くなり、時折激しい苦痛にうめき声を上げる。
その夜、明は田村の傍に付き添った。リアナも一緒に看病してくれたが、田村の容態は時間が経つごとに悪化していった。
「明……」
夜中、田村が小さく明の名前を呼んだ。
「どうした? 水でも飲むか?」
「いや……話があるんだ……」
田村の声は弱々しかったが、意識ははっきりしていた。
「俺……もうダメかもしれない」
「何を言ってるんだ。まだ諦めるのは早い」
「明……謝りたいことが……あるんだ」
田村の瞳に、涙が浮かんでいた。
「あの時、ミノタウロスから逃げた時……俺、君を見捨てた……」
「田村……」
「本当は、君を助けたかったんだ……でも、怖くて……自分が死ぬのが怖くて……」
田村の声が震えている。
「君が『黄泉帰り』を持ってるからって……それを理由に見捨てた。最低だよな」
明は田村の手を握った。
「もういいんだ。今回、お前は俺を助けてくれた。それで十分だ」
「ありがとう……。明……君みたいないい奴と出会えて……俺は幸せだった……」
それから、田村は訥々と語るようにして、自分のことを明に伝え始めた。どこの生まれで、どんなことをしてきたのか、これまでの仕事は何だったのか、そして、田村が愛した女性の話まで。
死の間際に語られる彼の話を、明はずっと彼の手を握りしめながら聞き続けた。
翌朝、田村は静かに息を引き取った。
明は彼の遺体の前で、長い間膝をついていた。言葉にならない悲しみと怒りが、胸の奥で渦巻いていた。
「田村さん……」
リアナも涙を流していた。短い間だったが、彼女も田村を仲間として受け入れていたのだ。
明は田村の遺体を神殿の庭に埋葬した。簡素な墓標を作り、彩夏の短剣で彼の名前を刻む。
「ありがとう、田村。俺と一緒にいてくれて」
明の頬を、涙が流れ落ちた。
しかし、悲しみに浸る時間は長くは続かなかった。
田村の葬儀を終えたその日の夕方、神殿に異変が起きた。
地面が激しく揺れ始めたのだ。
「地震?」
リアナが不安そうに呟いた。
だが、これは地震ではなかった。あの忌まわしい足音が、再び響き始めていた。
ドォォォンッ! ドォォォンッ!
「まさか……」
明は神殿の窓から外を覗いた。
そこには、あの巨大な影がそびえ立っていた。ギガントが、ニコライとの戦いを終えて、神殿を発見したのだ。
「なんで……こんな時に……」
明の心に絶望が広がった。田村を失ったばかりで、まだ心の整理もついていない。そんな状況で、再びあの化け物と対峙しなければならないのか。
「明さん、どうしましょう……」
リアナの声が震えていた。神殿の結界があるとはいえ、ギガントの前では無力に等しい。戦闘能力を持たない彼女には、どうすることも出来ない。
「逃げよう」
明は即座に判断した。
「ここにいても勝ち目はない」
「そうですね」
こくりと、リアナが頷く。
二人は急いで神殿の裏口に向かった。激しい揺れが起きたのは、その瞬間だった。
ドォォォォォンッ!!
ギガントが神殿を踏み潰した。
天井が崩れ落ち、石の破片が雨のように降り注ぐ。明はリアナを庇いながら、必死に瓦礫を避けたが、すべての瓦礫を避け切ることは出来なかった。
「ぐぅッ!」
瓦礫の破片が頭に当たった。鋭い痛みとともに、額からどろりとした液体が流れる。視界を覆うそれを手で払い除けると、掌が真っ赤に染まっていた。
「リアナ! こっちだ!!」
それでも、明は傷の痛みなど気にせず、彼女の手を引いて崩れかけた神殿から脱出しようとした。
だが、そんな二人をギガントが許すはずもない。
ドォォォォォォォンッ!!
ギガントの巨大な足が、二人の逃げ道を塞いだ。まるで、今度こそどこにも逃がさないとしているかのように、ギガントは巨大な瞳を向けながら、明の行動を注視している。
「グォォォォォ!!」
「クソッたれ!」
ギガントの雄叫びが響く中、明は最後の力を振り絞って剣を抜いた。
無意味だと分かっていても、リアナを守るために戦わなければならない。その気持ちだけで、明はギガントに立ち向かう。
「明さん……」
リアナが明の背中に手を置いたのは、その時だった。
「ありがとうございました……。あなたに出会えて……本当に良かった……」
その言葉が、二人の最後の会話となった。
ギガントの巨大な拳が振り下ろされ、神殿は完全に瓦礫の山と化した。
明の意識は、再び闇に沈んでいった。
世界反転の進行によってモンスターは本来の力の一部を取り戻していますが、ニコライはモンスターではないため、世界反転の進行によって本来の力の一部を取り戻しません。
この時点では、モンスターの強化(本来の力の一部を取り戻す効果)が二段階行われているため、ニコライよりもギガントのほうが強いです。




