一条明 -0- ⑱
二人は森の奥へ向かって必死に駆け続けた。背後では相変わらず木々が倒される音が響いている。ギガントは着実に森を切り開きながら、二人を追跡していた。
「くそっ、しつこいな!」
明が振り返ると、森の入り口部分はすでに開けた平地になっていた。ギガントの巨体が、森の中に入り込もうとしている。
「『危機察知』が止まらない! まだ追ってくる!」
田村が息を切らしながら叫んだ。
「どこまで逃げれば……」
ドォォォォンッ!
また地響きが響いた。ギガントが森の奥へと進んでいる。木々を手で薙ぎ倒しながら、確実に距離を縮めてきていた。
「やばい、追いつかれる……」
田村の顔が青ざめた。このままでは確実に捕まってしまう。
その時、明の脳裏に領主の日記の内容が蘇った。
「そうだ……」
明が立ち止まって呟いた。
「魔物同士の縄張り争いが起きてるって、日記に書いてあった!」
「え?」
田村が困惑した顔を向けた。
「この森の縄張りは、ミノタウロスだ。前に二度も遭遇してる」
明は確信に満ちた表情を浮かべた。
「ギガントがこの森に入ってくれば、ミノタウロスと縄張り争いになるはずだ」
「でも、どうやってミノタウロスを呼ぶんだ?」
「簡単だ」
明は短剣を抜いた。そして、躊躇なく自分の手のひらを切り裂く。
「明! 何してるんだ!」
田村が慌てて止めようとしたが、明は首を振った。
「あいつは俺に執着してる。二度も殺したからな。血の匂いを嗅げば、必ず現れる」
手のひらから血が滴り落ちた。明はその血を地面に垂らしながら走り始める。
「囮になるってことか?」
「そうだ。ミノタウロスが現れたら、ギガントとぶつけるんだ」
ドォォォォンッ!
ギガントの足音がさらに近づいてきた。木々を倒す音も激しくなっている。
「急ごう!」
明は血の匂いを風に乗せながら、森の奥へと移動した。
しばらくすると、遠くから重い足音が聞こえてきた。ギガントのものとは明らかに違う、地を這うような響きだ。
「来た……」
明が呟いた瞬間、木々の向こうから巨大な影が現れた。
人間の胴体に牛の頭を持つ、筋骨隆々とした異形の存在。手には巨大な戦斧を握り、小さな目が赤く光っている。
ミノタウロスだった。
「ブモォォォォォ……」
ミノタウロスは明を見つけると、明確な認識の光を目に宿した。まるで、何度も殺したはずの獲物がまた現れたことに困惑しているようだった。
そして、怒りに燃える表情を浮かべながら、明に向かって歩み寄ってくる。
「グルルルル……」
低い唸り声を上げながら、戦斧を振り上げた。明らかに、今度こそ確実に仕留めるつもりだ。
「田村、下がってろ」
明が剣を構えた。しかし、戦うつもりはない。時間稼ぎをするだけだ。
ミノタウロスが突進してくる。その巨体が地面を踏みしめるたびに、地響きが起こる。
その時だった。
ドォォォォォンッ!!
さらに大きな地響きが森を揺るがした。木々が大きく揺れ、鳥たちが一斉に飛び立つ。
ギガントが現れたのだ。
森の向こうから、八十メートルを超える巨体が姿を現した。ミノタウロスでさえ、その足元では小さな存在に見える。
「グォォォォォォ……」
ギガントが低い唸り声を上げた。そして、自分の縄張りに侵入してきた巨人を見つめるミノタウロスと目が合う。
一瞬の静寂。
そして——
「ブモォォォォォォッッ!!」
ミノタウロスが雄叫びを上げた。明への執着よりも、縄張りを侵す侵入者への怒りの方が勝ったのだ。
ミノタウロスがギガントに向かって突進し始めた。戦斧を振りかざしながら、恐れることなく巨人に立ち向かっていく。
「グォォォォォ!」
ギガントも応戦した。巨大な拳を振り下ろし、ミノタウロスを叩き潰そうとする。
しかし、ミノタウロスは俊敏だった。ギガントの攻撃を回避しながら、その足に戦斧を叩きつける。
ドガァァァン!
金属音が響き、ギガントが苦痛の声を上げた。
「やった! うまくいった!」
田村が興奮して叫んだ。
「今のうちに逃げよう!」
明も頷いた。二体の魔物が戦闘を始めた今が、逃げるチャンスだ。
ドォォォンッ! ガキィィィン!
ギガントとミノタウロスの戦闘音が森に響く中、二人は森のさらに奥へと向かった。
魔物同士の戦いは激しく、木々が次々と倒れていく。地面も激しく揺れ、まるで地震のようだった。
「あの二匹、どっちが勝つと思う?」
田村が走りながら尋ねた。
「分からない。でも、どちらが勝っても俺たちには関係ない」
明は前方を見据えながら答えた。
「今は、あいつらから離れることが最優先だ」
二人は戦闘音を背にして、森の奥へと進み続けた。
しばらく歩くと、森の奥で開けた場所に出た。そこには小さな湖があり、湖畔には美しい建物が立っていた。
「あれは……」
田村が建物を指差した。
「神殿?」
白い石で造られた円形の建物で、屋根には美しい装飾が施されている。異世界の宗教建築のようだった。湖の水面に映るその姿は、幻想的で神秘的だった。
「休憩できそうだな」
明は疲労困憊だった。ギガントからの逃走で、体力を大幅に消耗している。
「『危機察知』の反応は?」
「今のところ大丈夫。あの二匹は、まだ戦ってるみたいだ」
遠くから、まだ戦闘音が聞こえてくる。ギガントとミノタウロスの戦いは続いているようだった。
二人は神殿に向かった。入り口は開いており、中は薄暗いが清潔に保たれている。そして、驚くべきことに、ここには例の青い灰がほとんど積もっていなかった。
神殿の中央には、美しい女性の石像が立っていた。手には麦の穂を持ち、優しい微笑みを浮かべている。台座には古い文字で『豊穣の女神フレリア』と刻まれている。
「これが……フレリア様か」
明が呟いた。領主の日記に出てきた、姿を消した女神だ。
「美しい神様だね」
田村も石像を見上げた。
「でも、本当に姿を消してしまったんだな……」
神殿の中には、他にも様々な宗教的な装飾品が置かれていた。祭壇には新鮮な花が供えられており、まるで誰かが定期的に手入れをしているかのようだった。
「誰かが管理してるのかな?」
明が周囲を見回した。
「でも、人の気配はないな」
「神殿だから、灰の影響を受けにくいのかもしれない」
田村が推測した。
「神聖な場所だからか……」
「だとしたら、しばらくここに留まるのがいいかもしれない」
明は神殿の奥を調べてみた。そこには小さな部屋があり、神官が使っていたと思われる生活用品が残されている。
「ここなら安全に休めそうだ」
「そうだね。疲れたし、情報も整理したい」
二人は神殿の隅に座り込んで休憩した。静寂の中で、ようやく緊張が解けていく。遠くからは、まだ時々戦闘音が聞こえてくるが、かなり遠ざかっているようだった。
「それにしても……」
田村が石像を見つめながら呟いた。
「この世界、本当に大変なことになってるんだな」
「ああ。神々の失踪、世界の崩壊、魔物の跋扈……俺たちが元いた世界と、こっちの世界が融合してるのも、その影響なのかもしれない」
明は考えを整理しながら話した。
「この世界が崩壊から逃れるために、俺たちの世界と一つになる方法をとったのかも」
「そんな馬鹿な」
田村が明の言葉に声をあげた。
「どうして、この世界が崩壊するからって俺たちの世界を狙うんだよ!」
「……あの書斎で見つけた童話に書いてあっただろ」
「童話?」
「『むかしむかし、神様と人間は仲良く暮らしていました。神様たちは人間に知恵を授け、人間たちは神様を敬い、みんなで幸せに過ごしていました。
しかし時が経つにつれて、人間たちは自分たちの力で素晴らしい街や道具を作るようになりました。人間たちが賢くなると、だんだん神様のことを忘れるようになってしまいました。
神様たちは悲しくなって、自分たちが住む新しい世界を作ることにしました。それは、もとの世界の裏側にある、とても美しい世界でした』」
明は、童話に書かれていた言葉をそらんじた。それから、息を継ぐようにして一拍を置くと、言葉を続けた。
「この内容……俺たちの世界のことじゃないか? 文明が発達して、人々の心から信仰心が消えた。昔は人と神様が近かったって話もあるぐらいだ。間違ってはいないと思う」
田村の顔が青ざめた。
「まさか……俺たちの世界が、神様たちに見捨てられた『元の世界』だって言うのか?」
「可能性は高い」
明は石像を見上げながら続けた。
「神々は新しい世界——この異世界を作って、信仰心の厚い人間たちと一緒に移住した。そして俺たちの世界は置き去りにされた」
「でも、それなら今度は何で俺たちの世界と融合しようとしてるんだ?」
「童話の続きを思い出せよ」
明が振り返った。
「『ところが、新しい世界にやってきた神様の中には、とても悪い神様もいました。悪い神様は人間たちを怖がらせて、いじめるようになりました』」
田村の表情が暗くなった。
「悪い神様……魔王のことか」
「そうだ。領主の日記にも邪教の話が出てきただろ? 魔王を信仰する連中がいるって」
明は祭壇の方を見つめた。
「つまり、この異世界も魔王の影響で崩壊し始めた。神々は魔王を封印したが、すでに世界は回復不能なほど破綻していた」
「それで……」
「生き残るために、元の世界——俺たちの世界と融合しようとしてる」
明の推測に、田村は言葉を失った。
「そんな……勝手すぎるじゃないか。一度見捨てておいて、今度は自分たちが困ったら俺たちの世界を乗っ取るなんて」
「神々にとって、俺たちは元々自分たちが創造した存在だ。『元の世界』の住人なんだから、勝手にして当然だと思ってるのかもしれない」
明の言葉に、田村は拳を握りしめた。
「だとしても許せない。俺たちには俺たちの生活があったのに……」
その時だった。
神殿の奥から、かすかな足音が聞こえてきた。
「誰かいる?」
田村が身を強張らせた。
明も剣に手をかけた。この状況で人に会うということは、必ずしも良いことばかりではない。
足音は次第に近づいてくる。そして、神殿の奥の部屋から、一人の女性が現れた。
年齢は二十代半ばくらいだろうか。腰まで届く美しい金髪を後ろで編み込み、白を基調とした神官服のような衣装を身にまとっている。手には水差しを持ち、まるで花に水をやりに来たかのような自然な様子だった。
しかし、明と田村を見つけた瞬間、彼女の表情が驚愕に変わった。
「あ……」
水差しが手から滑り落ち、石の床に当たって大きな音を立てた。
「人間……生きた人間!?」
女性は信じられないといった表情で二人を見つめた。その瞳には、長い間人と会っていなかった者特有の、混乱と歓喜が混じり合っていた。
「あなたたちは……誰? どこから来たの?」
明は慎重に剣から手を離した。この女性からは敵意を感じない。むしろ、純粋な驚きと喜びが伝わってくる。
「俺たちは……旅人だ」
明が答えた。完全に真実ではないが、嘘でもない。
「君は?」
「私は……私は、リアナ」
女性——リアナが自分の胸に手を当てながら答えた。
「この神殿で、フレリア様にお仕えしている神官です」
「神官?」
田村が驚いた。
「でも、この街の住人は全員……」
「アンデッドになったこと?」
リアナが悲しそうに微笑んだ。
「ええ、知っています。私だけが……なぜか、その運命を免れました」
彼女の声には、深い悲しみと孤独感が滲んでいた。
「一人で、ずっとこの神殿を守り続けてきました。もう……どのくらい経つでしょうか」
「一人で?」
明が確認した。
「ずっと、一人だったのか?」
「はい。最初は、誰かが助けに来てくれると思っていました。でも……」
リアナは祭壇の方を見つめた。
「やがて理解しました。もう、生きている人間は私だけなのだと」
その言葉に、明と田村は胸を痛めた。一人で絶望的な状況に耐え続けてきた彼女の気持ちを思うと、言葉が見つからない。
「でも、あなたたちがいる」
リアナが振り返ると、その顔には希望の光が宿っていた。
「本当に、生きた人間なんですね? 幻ではなく?」
「ああ、俺たちは本物だ」
明が頷いた。
リアナの目に涙が浮ぶ。
「よかった……あなたたちに会えて……本当に良かった」
田村も歩み寄った。
「俺たちも、君に会えて良かった。この世界で生きている人がいるなんて、思ってもみなかった」
「この世界?」
リアナが首を傾げた。
「あなたたち、この世界の人ではないのですか?」
明と田村は顔を見合わせた。どこまで話すべきだろうか。
「俺たちは……別の世界から来た」
明が慎重に説明し始めた。
「君たちの世界と、俺たちの世界が融合して、それで……」
「世界融合……」
リアナが息を呑んだ。
「まさか、預言が現実になったというの?」
「預言?」
「はい。フレリア様が残した、古い預言書に記されていました。『世界の終焉が近づく時、異なる世界が一つとなり、新たな世界が生まれる』と」
明は興味深そうに身を乗り出した。
「その預言書、今でもあるのか?」
「ええ、神殿の書庫に」
リアナが頷いた。
「でも、私にはその内容の全てを理解することはできませんでした。あなたたちになら、何か分かることがあるかもしれません」
リアナは神殿の奥へと向かった。明と田村もその後を追う。
神殿の最奥部には、古い書物が大切に保管された書庫があった。石の書架には、様々な宗教書や記録が整然と並べられている。
「ここです」
リアナが古い羊皮紙の書物を取り出した。表紙には古代の文字で何かが刻まれていたが、明には読めなかった。
「この部分です」
リアナがページを開いて指し示した。
「『終末の時、忘れられし世界の記憶が蘇り、二つの世界は一つとなる。その時、選ばれし者たちが残る新たな世界が、その礎となるであろう』」
明は預言の内容を聞きながら考えた。
「『忘れられし世界』……これは俺たちの世界のことか」
「可能性が高いですね」
リアナが頷いた。
「そして『選ばれし者たち』……もしかしたら、あなたたちのことかもしれません」
「俺たちが?」
田村が驚いた。
「でも、俺たちは何も特別じゃない。ただの一般人だ」
「それでも、あなたたちは世界融合の過程で生き残った」
リアナが真剣な表情で言った。
「他に何か書いてあるか?」
明が尋ねた。
リアナは小さく頷き、別のページを開いた。
「こちらをご覧ください。……『新世界の創造には、次元の管理者の力が必要となる。次元の管理者により、世界は真の調和を取り戻すことが出来る』」
「『次元の管理者』……」
明が眉をひそめた。
「それは何だ?」
「預言書によれば、世界と世界の境界を管理する存在のことです」
リアナが指で古い文字を辿りながら説明した。
「普通の神々とは異なり、複数の世界を行き来し、その均衡を保つ役割を担っているとされています。私たちは、その方のことを〝座〟と呼んでいます」
「『座』?」
田村が聞き返した。
「変わった呼び方だな」
「古代の言葉では、世界を統べる存在を表す特別な称号です」
リアナが説明した。
「神々よりもさらに上位の存在で、複数の世界の運命を決定する力を持つとされています」
明は預言書の内容を整理しようとした。
「つまり、世界融合を正常に完了させるには、この『座』の力が必要だということか?」
「そのように解釈できます」
リアナが頷いた。
「でも、『座』がどこにいるのか、どうやって接触すればいいのか、それは預言書には記されていません」
「手がかりは全くないのか?」
「一つだけあります」
リアナが最後のページを開いた。
「ここに書かれているのですが……『座は世界の境界に存在し、融合の過程でその姿を現すであろう』と」
明と田村は顔を見合わせた。
「世界の境界……」
「現実世界と異世界が混じり合っている場所のことかもしれない」
田村が推測した。
「俺たちが体験してきた場所そのものだ」
「でも、そんな存在に会ったことはないぞ」
明が首を振った。
「もしかしたら、まだ姿を現していないのかもしれません」
リアナが預言書を閉じながら言った。
「それに、預言書にはもう一つ重要なことが記されています」
「何だ?」
「『世界の融合は自然現象ではなく、古代の大魔術によるものである。この術式は世界そのものを反転させ、異なる次元の世界を一つの空間に重ね合わせる。術式の発動には膨大な魔力と、複数の神々の力が必要となる』」
明と田村は息を呑んだ。
「魔術で引き起こされた現象だったのか……」
「つまり、誰かが意図的にこの状況を作り出したということですね」
リアナは深刻な表情で続けた。
「そして、その術式を私たちはこう呼んでいます。――『世界反転』と」




