一条明 -0- ⑥
――どれくらい眠っていたのだろうか。
かすかな振動を感じて、明は目を覚ました。
床が、規則的に揺れている。
「彩夏?」
小声で呼びかけたが、返事はなかった。薄明かりの中、彩夏が毛布にくるまって眠っているのが見える。
振動は続いていた。それは地震のような自然現象ではない。何かが、建物に衝撃を与え続けているのだ。
明は慎重に身を起こし、窓際へと這って行った。割れたガラスの隙間から外を覗く。
街は相変わらず静寂に包まれていた。だが、ビルの真下で、巨大な影がうごめいているのが見えた。
魔物だ。
それは明がこれまでに見たどの魔物よりも大きかった。いや、違う。見覚えがあった。
人間の胴体に牛の頭を持つ、異形の存在。筋骨隆々とした身体は二メートルを超え、手には巨大な斧を握っている。小さな目が赤く光り、鼻息が白く立ち上っていた。
――ミノタウロスだった。
そのミノタウロスが、まるで中にいる獲物の存在を感じ取っているかのように、建物の外壁を拳で叩いている。
明の背筋に冷たいものが走った。
(まずい……)
振り返ると、彩夏がうっすらと目を開けていた。
「どうしたの?」
「下に魔物が……ミノタウロスだ」
彩夏の表情が一変した。すぐに身を起こし、窓の方へ駆け寄る。
「何てこと……」
彩夏の顔が青ざめた。
「ミノタウロスは本来、夜行性のはずじゃない。なのになぜ……」
その時、建物全体が大きく揺れた。ミノタウロスが斧を手に、壁を叩き始めたのだ。
「このビル、ミノタウロスの攻撃に耐えられるのか?」
「無理ね。長くは持たないと思う」
彩夏は素早く荷物をまとめ始めた。
「逃げましょう。裏の非常階段から――」
彩夏の言葉が途切れた。彼女の顔に、恐怖の色が浮かんでいる。
「どうした?」
「『索敵』スキルに反応が……。ミノタウロスだけじゃない。周囲に複数の魔物がいる」
明の心臓が跳ね上がった。
「囲まれてるってことか?」
「そう見える。前方にゴブリンが三体、左右にもそれぞれ……」
また大きな振動が建物を襲った。今度は一階の窓ガラスが割れる音も聞こえた。
「彩夏、君のスキルで俺の傷を治せるんだろ?」
明は突然そう尋ねた。
「ええ、でもなぜ――」
「なら、大丈夫だ」
明は立ち上がった。その表情には、先ほどまでの不安は消えていた。
「俺が囮になる。君はその隙に逃げろ」
「何を言ってるの!? あんた、戦えないでしょ!」
「戦えなくても、死なない」
明は『黄泉帰り』のスキルを思い出していた。
「三日後に生き返るなら、今はとにかく君を逃がすことが最優先だ」
「ダメよ! そんな――」
「彩夏」
明は彼女の肩に手を置いた。
「俺には、まだ君の力が必要なんだ。知り合いの安否も確認したいし、この世界で何が起きてるのかも知りたい。だから」
建物が再び揺れた。今度は、一階から何かが崩れる音が聞こえてきた。
「お願いだ。俺のことは気にしないで、逃げてくれ」
彩夏は明を見つめていた。その瞳には、怒りと悲しみと、そして諦めが混じり合っていた。
「……バカ」
小さく呟くと、彩夏は明の手を振り払った。
「あんたのそういうところ、嫌いよ」
「彩夏……」
「でも」
彼女は短剣を抜いた。刃が微かに光る。
「あんた一人で死なせるわけにはいかない」
「何を――」
「あたしも一緒に戦う」
彩夏の声は決然としていた。
「あんたが三日後に生き返っても、その時にあたしがいなければ意味がないでしょ」
明は言葉を失った。
「それだと君まで危険な目に――」
「黙って」
彩夏は階段へ向かった。
「作戦を説明する。あんたは魔物の注意を引く。あたしはその隙を狙って、一体ずつ確実に仕留める」
「そんな無茶な……」
「他に方法がある?」
確かに、選択肢は限られていた。このまま隠れていても、いずれ見つかるだろう。逃げ道も塞がれている。
「分かった」
明は覚悟を決めた。
「でも、無理はしないでくれ。俺は死んでも生き返るけど、君は」
「大丈夫よ」
彩夏は振り返ると、かすかに微笑んだ。
「あんたを守るくらい、朝飯前だから」
その瞬間、一階から巨大な破壊音が響いた。
ミノタウロスが、ついに建物内部に侵入したのだ。
「行くわよ」
彩夏が階段を駆け下りる。明も深呼吸をして、その後を追った。
一階のロビーは半分崩れていた。入り口付近で、ミノタウロスが瓦礫を掻き分けている。体高は二メートル半を超え、その巨体が建物の中では異様に大きく見えた。手に握られた巨大な斧が、微かに光っている。
ミノタウロスは二人の姿を見つけると、耳をつんざくような咆哮を上げた。
「今よ!」
彩夏の号令と共に、明は大声を上げてミノタウロスに向かって走った。
「こっちだ! バケモノ!」
ミノタウロスは明に向かって突進してきた。その速度は、巨体に似合わず俊敏だった。
明は必死に左右に身体を振りながら、ミノタウロスの攻撃を避けようとした。だが、経験のない素人に、そんな芸当ができるはずもない。
ミノタウロスの太い腕が振るわれる。その寸前に、彩夏の叫ぶ声が聞こえて、明の傍に光の盾が出現した。
「ブモォオオオオオオオッッ」
ミノタウロスの攻撃は止まらない。棍棒のような太い腕は、展開された光の盾を砕きながら、明の脇腹を直撃した。
「ぐぅうう……ッッ」
鈍い衝撃と共に、骨が折れる音があたりに響いた。明の身体が宙に舞って、そのまま壁に叩きつけられる。
激痛が全身を駆け巡った。彩夏が展開した光の盾のおかげで、威力は大幅に軽減されたようだったが、それでも、肋骨が何本か折れたみたいだ。
明は歯を食いしばって立ち上がる。
「まだだ……まだ、終わりじゃない!」
彩夏がミノタウロスの背後から現れたのは、その時だった。短剣を両手で握り、ミノタウロスの足首を狙っている。
刃がミノタウロスの腱を切り裂いた。赤く、薄い筋が毛皮の表面に浮かび、ミノタウロスの顔が彩夏に向く。
「やっぱり今のじゃ効かないか」
彩夏が奥歯を噛みしめながら声を漏らす。そんな彩夏へと、ミノタウロスが振り返ろうとした瞬間、明が再び声を上げた。
「俺がいることを忘れんじゃねぇッ!」
明は傍にあった瓦礫を、ミノタウロスの顔に目掛けて投げつけた。なんのダメージも無かった攻撃だったが、それでもミノタウロスの注意を引くことには成功した。
ミノタウロスが再び明の方を向く。その隙に、彩夏がミノタウロスの首筋に向かって跳躍した。
しかし――
ミノタウロスの反応は予想以上に早かった。
振り向きざまに放った腕が、空中の彩夏を捉えた。
「彩夏!」
明の叫び声が響く中、彩夏の身体が壁に激突した。鈍い音と共に、彩夏が床に倒れ込む。今の攻撃で意識を失ったのは、見て明らかだった。
「彩夏!!」
明は彩夏の元に駆け寄ろうとした。だが、その前にミノタウロスが立ちはだかった。
赤い目が明を見下ろしている。その瞳には、明への認識があった。まるで、以前に殺した獲物を覚えているかのように、ミノタウロスが低く唸った。
そして、ゆっくりと巨大な斧を振り上げる。
「―――…ッ」
明は、すぐに絶望的な状況を理解した。彩夏は動かない。自分には戦う力がない。逃げ道もない。
それでも――
「来るなら来い!」
明は両手を広げ、ミノタウロスの前に立った。せめて彩夏への攻撃を阻止しなければ。その一心で、恐怖に凍り付く身体に喝を入れた。
ミノタウロスの斧が振り下ろされる。
明はとっさに横に飛んだが、完全には避けきれなかった。斧の刃がわずかに左肩を掠めただけなのに、抉れたように肉が裂けて鮮血が飛び散る。
痛みで意識が飛びそうになったが、明は歯を食いしばった。
「まだ……まだだ!」
だが、ミノタウロスは容赦しなかった。今度は逆袈裟に斧を振り上げる。
明は後ろに下がって、足がもつれて転倒した。仰向けに倒れた明の上に、ミノタウロスの巨体が覆いかぶさる。
巨大な手が明の首を掴んだ。
「ガッ……!?」
息ができず、圧迫される感覚に明の意識が朦朧とする。視界が暗くなり、意識が落ちていく中で、明は彩夏の方を見た。
彼女は壁際で動かなくなっていた。額からの出血は止まらず、呼吸も浅い。意識は戻らず、このままでは死んでしまう。
明は絶望的な現実を受け入れざるを得なかった。自分も死ぬ。彼女も死ぬ。ミノタウロスに、殺される。
(―――…ああ、またか)
明はぼんやりと思った。
三日前と同じ。何もできずに、ただ殺される。
でも、今度は違った。
守りたい人がいた。一緒にいたい人がいた。
だが、その人も――
ミノタウロスの握力がさらに強くなった。明の首の骨が軋む音がした。そして、ついに折れる音が響いた。
明の身体から力が抜けていく。だが、最後の瞬間まで、彼は彩夏の方を見続けていた。
彼女もまた、重篤な頭部外傷により、静かに息を引き取ろうとしていた。
(彩夏……)
明の胸に、深い絶望が広がった。
自分は三日後に生き返る。でも、彩夏は?
彼女に『黄泉帰り』のスキルはない。死んだら、それで終わりだ。
俺だけが生き返っても、意味がない。
その絶望的な現実が、明の心を押し潰した。
せっかく見つけた大切な人を、また失ってしまう。
今度は、永遠に。
(すまない……彩夏……俺が……もっと強ければ……)
明の意識が薄れていく中、深い後悔だけが残った。
力がない自分への憤り。彩夏を守れなかった無力感。
そして、一人きりで生き返らなければならない絶対的な孤独感。
彩夏はもう、二度と戻ってこない。
それが、この世界の残酷なルールだった。
だからこそ、彼女の分まで生きなければ。
意識の最後の瞬間、明は震える心で思った。
彼女が守ろうとした自分の命を、無駄にするわけにはいかない。
たとえ一人でも、彼女が教えてくれたこの世界で生き抜かなければ。
それが、彼女への唯一の供養になる。
その決意を胸に、明の意識は闇に沈んだ。
ミノタウロスは戦いを終えると、満足そうに鼻を鳴らした。二人の人間は既に事切れている。
廃ビルには、再び静寂が戻った。
外では他の魔物たちが、戦いの終わりを告げるように遠吠えを上げていた。
二人の身体は、がれきの中で冷たくなっていく。
だが、明の胸の奥では、まだ小さな光が灯り続けていた。
三日後の復活を告げる、『黄泉帰り』の力が静かに働き始めていた。




