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この世界がいずれ滅ぶことを、俺だけが知っている  作者: 灰島シゲル
六章

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一条明 -0- ②



 明はしばらく、スマートフォンの画面を見つめたまま立ち尽くしていた。


 そこに映るのは、確かに「今」の時刻。だが、その三日前――自分は間違いなく、あのミノタウロスに殺されたはずだった。


「……なんなんだよ、これ……」


 静かな声が、夜の空気に吸い込まれていく。


 思考はまとまらない。けれど、このまま立ち尽くしていても仕方がない。


 明はスマートフォンをポケットに戻し、歩き出した。


 何か、手がかりが欲しかった。誰かに会えれば、何かが分かるかもしれない――そう思った。


 しかし、歩き始めてすぐ、違和感はより濃く、より具体的な形で迫ってくる。


 道路の向こう。信号のある交差点が見えた。そこにあるはずの信号機は沈黙していた。赤も青も点灯していない。ランプのどこにも光がなかった。


 そして、当然のように、車通りもなかった。人影もなかった。昼夜を問わず車が行き交う幹線道路が、まるで時が止まったように沈黙している。


「……停電……?」


 しかし、街灯のいくつかはかすかに点いている。自販機の明かりも、一部は灯っていた。


 ライフラインが完全に死んでいるわけではない。だが、通信は圏外。信号は落ちている。交通も、歩行者もいない。


 不気味だった。


 静かすぎる。死んだ都市の中に、自分だけが取り残されたような錯覚。


 明は周囲を見渡した。


 コンビニの灯りは消えている。中には誰もいない。自動ドアも開かない。交差点の先のビル、そのウィンドウの一つも明かりがついていない。


 音がない。声がない。


 人の気配が、どこにもなかった。


(本当に……誰もいないのか?)


 不安が、ひたひたと胸を濡らすように広がっていく。


 ここは確かに、自分が毎日のように歩いていた通勤路だった。しかし今、その町並みはまるで、廃墟のように変わってしまっている。


「……そんなはずがない。きっと、どこかに誰かがいるはずだ」


 自分に言い聞かせるように言って、不安を飲み込み、足を動かす。


 駅前に出れば、何かが分かるかもしれない。そんなかすかな期待を胸に、明は無人の通りを歩き続ける。


 舗装道路に靴音が虚しく響く。見慣れた住宅街を抜け、コンビニの角を曲がり、いつもの坂道を下っていく。


 やがて、駅前のロータリーが見えてきた。



 ――そのはずだった。



 だが、視界に広がったのは、見慣れた町並みではなかった。


「……え?」


 言葉が漏れた。


 舗装されたロータリーは、もはやただの土の地面と化していた。


 アスファルトは根こそぎ剥がされ、代わりにむき出しの地盤から巨大な根が伸びている。


 ロータリーの中央にあるはずの噴水は影も形もなく消え、代わりにそこにあったのは、ねじれた樹木――いや、それは樹とすら呼べない、異様な植物の群れだった。


 幹は鉄のように黒く硬く、枝は空へとねじれるように伸びている。葉は青白く、夜の闇に光を放っていた。駅舎の一部は、まるでそれらに呑み込まれたかのように崩れており、壁の隙間から奇怪な蔓が絡み出している。


 そこは、明がかつて通っていた駅前ではなかった。


 半分はまだ現実の町並みを保っている。だがもう半分は、明らかに〝この世界のものではない何か〟に侵食されていた。


「何だよ、これ……」


 背筋が凍える。


 けれど、目を逸らせなかった。


 駅の案内板は折れ、案内表示は半ば土に埋もれている。電車の高架線は途切れ、そこから垂れ下がる電線に蔦が絡まっていた。幹の直径が十数メートルはあろうかという異形の巨木があたりに立ち並び、これが現実なのかと疑いたくなる。


 でも、これは現実だ。


 ポケットの中に仕舞い込んだ、硬い感触がそれを知らしめている。


 明は、その場から一歩も動けなかった。


 ゲームでも映画でもない。


 明らかに、この現実の一部が――何か異質な世界と接続されてしまっている。


 空気が違う。


 肺に入る風が、かすかに甘く、濃い。


 風が枝を揺らす音は、まるで誰かの囁き声のように耳元でささやいてくる。


(……三日で、何があった……?)


 その問いの答えは、どこにもなかった。


 けれど、確実に〝世界〟は変わっていた。


 目の前に広がる異常こそが、それを証明していた。


(こんな……こんなのおかしい)


 それでも、明の足はすくまず、かすかに震える足取りで、一歩踏み出した。


 異様な巨木の根元へと、明はおそるおそる歩を進める。


 まともに呼吸するのも億劫なほど、空気が重い。乾いた大地には細かいひびが走り、踏むたびにざり、と靴底が小石を砕く音がした。


 巨木は間近で見ると、さらに圧倒的だった。


 まるでビルそのものを仰いでいるような感覚だ。幹に手を伸ばすと、肌が無意識に拒絶反応を起こすかのように粟立った。


 ごつごつとした樹皮には脈のような筋が浮かび、その一部が、かすかに脈打っている。


 ――生きている。


 そう思わせる気味の悪さがあった。


(……本当に、〝木〟なのか?)


 見た目は樹木のようでも、これは自分の知っているものではない。


 そんな感覚が、じわりと胸の奥を締め付ける。明は喉を鳴らして、距離を取った。


 そのときだった。



 ギィ……ッ。



 耳の奥を爪で引っ掻かれたような音が、どこからともなく響いた。


 すぐには気づけなかった。しかし、次の瞬間、風の向きが変わり、明の鼻腔を強烈な臭気が突いた。


 腐った肉と、泥と、鉄を混ぜたような、耐えがたい悪臭。


 そして、それと同時に、背筋を走る殺気。


「……っ!」


 明は反射的に後ずさった。


 その時にはもう、視界の隅に〝それ〟が立っていた。


 小柄な身体。緑色の肌。歪んだ頭部に、濁った黄の双眼。手には錆びた刃物のようなものを持ち、口元からは泡まじりの唾液が垂れていた。


 人ではない。


 獣でもない。


 まぎれもなく、そこにいたのは現実の世界にはいない生き物――ゴブリンだった。


(嘘だろ……!?)


 動悸が跳ね上がる。


 たった今、自分の目の前にあるものが、現実であるという事実を、理性がまだ受け止めきれない。


 だが、ゴブリンはゆっくりと牙を剥き、喉の奥でぐぐぐ、と唸りを上げていた。


 その殺意に、誤解の余地はなかった。


「くっ……!」


 咄嗟に反転し、明は駆け出した。背後からは、獣じみた咆哮と、湿った地面を蹴る不気味な足音が続けて聞こえてくる。


 逃げ道はない。すぐ横を走る森の根が地表を這い、足場を奪っていく。


 すぐに息が荒くなる。肺が焼けるようだった。


(無理だ……追いつかれる――!)


 後ろを振り返る。


 そこには、複数のゴブリンの群れが迫っていた。


 濁った眼、黄ばんだ牙、そして錆びた刃物を手に、獲物を仕留めるその瞬間を狙っている。


「くそっ……!」


 脚がもつれた。バランスを崩す。




 ――終わる。




 そう思った瞬間だった。



「そのまましゃがんでっ!」



 澄んだ声と同時に、空気が振動した。


 視界の前方、明とゴブリンの間に――淡い金色の光壁が、突如として出現する。


 ズガァッ!!


 ゴブリンの一体が跳びかかり、そのまま光壁に激突した。重たい肉体が弾かれ、悲鳴のような唸り声を上げながら後方へ吹き飛ぶ。


「っ……え?」


「下がって!!」


 何が起きているのか分からず、倒れ込んだままの明の前に、ひとりの少女が滑り込む。


 まだ幼さの残る顔立ちだった。だが、その眼差しは研ぎ澄まされた刃のように鋭く、恐怖の色は一切なかった。


 ブロンドアッシュの髪が風に揺れ、セミロングの毛先がパーカーの襟元に触れる。金属光沢を帯びた髪色は、戦場の緊張感のなかでどこか幻想的だった。


 彼女が羽織っていたのは、マウンテンパーカーを基調とした機能的な服装だ。色は落ち着いたグレーと黒でまとめられ、動きやすさを重視したストリート系ファッションの装いをしている。


 パーカーの裾から覗くホルスターには短剣らしき柄が差してあったが、彼女はそれには手を伸ばさず、かわりに手に握られた黒い拳銃を前方へと構えた。


「立てる? 今のうちに下がって!」


 凛とした声。少女の目は真っ直ぐにゴブリンを見据えていた。


「お、前は……誰だ?」


 明の言葉に答える暇もなく、彼女は銃の引き金を引いた。


 パンッ! パンッ!


 連続する銃声。


 しかし――


「っ、効かない……やっぱりか」


 ゴブリンは怯まなかった。銃弾が体に命中しても、ただ肉を裂くだけで動きを止めない。


 その傷口からは血ではなく、濁った黒い液体がにじみ出ていた。


「クソッ……魔物相手に銃が通じるわけ、ないか……!」


 少女は低く吐き捨て、銃を素早くホルスターに戻すと、迷いなく明の腕をつかんだ。


「走れるなら、走って。ここは無理」


「は、え、ちょっ!」


 返事を待たず、彼女は明を引っ張って駆け出す。


 視界の端で、ゴブリンの群れが再び動き出していた。嗅覚か、気配か、明らかに標的を見失ってはいない。


「待て、どこへ――…!」


「人気のある場所はダメ。下手に灯りがあると、あいつらに気づかれる」


 そう言いながらも、少女は裏路地へと曲がり、小刻みに視線を巡らせながら迷いなく進む。まるでこの異様な街を、すでに何度も歩いているかのような動きだった。


 明は問いたいことが山ほどあった。なぜ魔物が現れたのか。自分はどうなっていたのか。そしてこの少女は誰なのか。


 だが、今は何も言えなかった。


 足音の背後で、木の根が軋み、濁った鳴き声が追いすがるように響く。


 走るたびに肺が悲鳴を上げ、鼓動が耳の奥を打ち鳴らす。


(死にたくない。死にたくない、死にたくないッッ! もうあんな痛みは二度と嫌だ!!)


 その一心だけが、今の明を突き動かしていた。


 やがて少女は、半ば崩れかけた建物の裏手へ滑り込み、明の背を壁に押しつけた。


「息、整えて。あいつら、嗅覚は鋭いけど、耳は悪いから。追跡は長く続かない」


「……お前、何者なんだよ……」


 ようやく吐き出せたその問いは、最後まで続かなかった。


 目の前の少女が、明の口を抑えつけるように手で塞いだからだ。


 少女はわずかに目を細めて、言った。


「聞こえなかった? 今は黙れって言ってんの」


 低く、唸るように。凄みを効かせたその言葉に、明は続きの言葉を言えずに黙り込んだ。


 どのくらいの間、そうしていただろうか。


 乱れていた息が落ち着きはじめた頃、ようやく少女は手を離した。


 明は咳払いひとつ、吐き捨てるように声を絞り出す。


「……あんた、いったい……何者なんだよ」


 少女は視線を巡らせ、建物の隙間から外の様子をうかがってから、ぽつりと答えた。


「花柳彩夏。……そっちは?」

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― 新着の感想 ―
目的が目的だから探索などを悠長にやる暇がないですがこういう変わった世界の変化を調べるのも面白そうですねぇ木がまるでゴブリンたちと共生してるかのよう
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