一条明 -0- ②
明はしばらく、スマートフォンの画面を見つめたまま立ち尽くしていた。
そこに映るのは、確かに「今」の時刻。だが、その三日前――自分は間違いなく、あのミノタウロスに殺されたはずだった。
「……なんなんだよ、これ……」
静かな声が、夜の空気に吸い込まれていく。
思考はまとまらない。けれど、このまま立ち尽くしていても仕方がない。
明はスマートフォンをポケットに戻し、歩き出した。
何か、手がかりが欲しかった。誰かに会えれば、何かが分かるかもしれない――そう思った。
しかし、歩き始めてすぐ、違和感はより濃く、より具体的な形で迫ってくる。
道路の向こう。信号のある交差点が見えた。そこにあるはずの信号機は沈黙していた。赤も青も点灯していない。ランプのどこにも光がなかった。
そして、当然のように、車通りもなかった。人影もなかった。昼夜を問わず車が行き交う幹線道路が、まるで時が止まったように沈黙している。
「……停電……?」
しかし、街灯のいくつかはかすかに点いている。自販機の明かりも、一部は灯っていた。
ライフラインが完全に死んでいるわけではない。だが、通信は圏外。信号は落ちている。交通も、歩行者もいない。
不気味だった。
静かすぎる。死んだ都市の中に、自分だけが取り残されたような錯覚。
明は周囲を見渡した。
コンビニの灯りは消えている。中には誰もいない。自動ドアも開かない。交差点の先のビル、そのウィンドウの一つも明かりがついていない。
音がない。声がない。
人の気配が、どこにもなかった。
(本当に……誰もいないのか?)
不安が、ひたひたと胸を濡らすように広がっていく。
ここは確かに、自分が毎日のように歩いていた通勤路だった。しかし今、その町並みはまるで、廃墟のように変わってしまっている。
「……そんなはずがない。きっと、どこかに誰かがいるはずだ」
自分に言い聞かせるように言って、不安を飲み込み、足を動かす。
駅前に出れば、何かが分かるかもしれない。そんなかすかな期待を胸に、明は無人の通りを歩き続ける。
舗装道路に靴音が虚しく響く。見慣れた住宅街を抜け、コンビニの角を曲がり、いつもの坂道を下っていく。
やがて、駅前のロータリーが見えてきた。
――そのはずだった。
だが、視界に広がったのは、見慣れた町並みではなかった。
「……え?」
言葉が漏れた。
舗装されたロータリーは、もはやただの土の地面と化していた。
アスファルトは根こそぎ剥がされ、代わりにむき出しの地盤から巨大な根が伸びている。
ロータリーの中央にあるはずの噴水は影も形もなく消え、代わりにそこにあったのは、ねじれた樹木――いや、それは樹とすら呼べない、異様な植物の群れだった。
幹は鉄のように黒く硬く、枝は空へとねじれるように伸びている。葉は青白く、夜の闇に光を放っていた。駅舎の一部は、まるでそれらに呑み込まれたかのように崩れており、壁の隙間から奇怪な蔓が絡み出している。
そこは、明がかつて通っていた駅前ではなかった。
半分はまだ現実の町並みを保っている。だがもう半分は、明らかに〝この世界のものではない何か〟に侵食されていた。
「何だよ、これ……」
背筋が凍える。
けれど、目を逸らせなかった。
駅の案内板は折れ、案内表示は半ば土に埋もれている。電車の高架線は途切れ、そこから垂れ下がる電線に蔦が絡まっていた。幹の直径が十数メートルはあろうかという異形の巨木があたりに立ち並び、これが現実なのかと疑いたくなる。
でも、これは現実だ。
ポケットの中に仕舞い込んだ、硬い感触がそれを知らしめている。
明は、その場から一歩も動けなかった。
ゲームでも映画でもない。
明らかに、この現実の一部が――何か異質な世界と接続されてしまっている。
空気が違う。
肺に入る風が、かすかに甘く、濃い。
風が枝を揺らす音は、まるで誰かの囁き声のように耳元でささやいてくる。
(……三日で、何があった……?)
その問いの答えは、どこにもなかった。
けれど、確実に〝世界〟は変わっていた。
目の前に広がる異常こそが、それを証明していた。
(こんな……こんなのおかしい)
それでも、明の足はすくまず、かすかに震える足取りで、一歩踏み出した。
異様な巨木の根元へと、明はおそるおそる歩を進める。
まともに呼吸するのも億劫なほど、空気が重い。乾いた大地には細かいひびが走り、踏むたびにざり、と靴底が小石を砕く音がした。
巨木は間近で見ると、さらに圧倒的だった。
まるでビルそのものを仰いでいるような感覚だ。幹に手を伸ばすと、肌が無意識に拒絶反応を起こすかのように粟立った。
ごつごつとした樹皮には脈のような筋が浮かび、その一部が、かすかに脈打っている。
――生きている。
そう思わせる気味の悪さがあった。
(……本当に、〝木〟なのか?)
見た目は樹木のようでも、これは自分の知っているものではない。
そんな感覚が、じわりと胸の奥を締め付ける。明は喉を鳴らして、距離を取った。
そのときだった。
ギィ……ッ。
耳の奥を爪で引っ掻かれたような音が、どこからともなく響いた。
すぐには気づけなかった。しかし、次の瞬間、風の向きが変わり、明の鼻腔を強烈な臭気が突いた。
腐った肉と、泥と、鉄を混ぜたような、耐えがたい悪臭。
そして、それと同時に、背筋を走る殺気。
「……っ!」
明は反射的に後ずさった。
その時にはもう、視界の隅に〝それ〟が立っていた。
小柄な身体。緑色の肌。歪んだ頭部に、濁った黄の双眼。手には錆びた刃物のようなものを持ち、口元からは泡まじりの唾液が垂れていた。
人ではない。
獣でもない。
まぎれもなく、そこにいたのは現実の世界にはいない生き物――ゴブリンだった。
(嘘だろ……!?)
動悸が跳ね上がる。
たった今、自分の目の前にあるものが、現実であるという事実を、理性がまだ受け止めきれない。
だが、ゴブリンはゆっくりと牙を剥き、喉の奥でぐぐぐ、と唸りを上げていた。
その殺意に、誤解の余地はなかった。
「くっ……!」
咄嗟に反転し、明は駆け出した。背後からは、獣じみた咆哮と、湿った地面を蹴る不気味な足音が続けて聞こえてくる。
逃げ道はない。すぐ横を走る森の根が地表を這い、足場を奪っていく。
すぐに息が荒くなる。肺が焼けるようだった。
(無理だ……追いつかれる――!)
後ろを振り返る。
そこには、複数のゴブリンの群れが迫っていた。
濁った眼、黄ばんだ牙、そして錆びた刃物を手に、獲物を仕留めるその瞬間を狙っている。
「くそっ……!」
脚がもつれた。バランスを崩す。
――終わる。
そう思った瞬間だった。
「そのまましゃがんでっ!」
澄んだ声と同時に、空気が振動した。
視界の前方、明とゴブリンの間に――淡い金色の光壁が、突如として出現する。
ズガァッ!!
ゴブリンの一体が跳びかかり、そのまま光壁に激突した。重たい肉体が弾かれ、悲鳴のような唸り声を上げながら後方へ吹き飛ぶ。
「っ……え?」
「下がって!!」
何が起きているのか分からず、倒れ込んだままの明の前に、ひとりの少女が滑り込む。
まだ幼さの残る顔立ちだった。だが、その眼差しは研ぎ澄まされた刃のように鋭く、恐怖の色は一切なかった。
ブロンドアッシュの髪が風に揺れ、セミロングの毛先がパーカーの襟元に触れる。金属光沢を帯びた髪色は、戦場の緊張感のなかでどこか幻想的だった。
彼女が羽織っていたのは、マウンテンパーカーを基調とした機能的な服装だ。色は落ち着いたグレーと黒でまとめられ、動きやすさを重視したストリート系ファッションの装いをしている。
パーカーの裾から覗くホルスターには短剣らしき柄が差してあったが、彼女はそれには手を伸ばさず、かわりに手に握られた黒い拳銃を前方へと構えた。
「立てる? 今のうちに下がって!」
凛とした声。少女の目は真っ直ぐにゴブリンを見据えていた。
「お、前は……誰だ?」
明の言葉に答える暇もなく、彼女は銃の引き金を引いた。
パンッ! パンッ!
連続する銃声。
しかし――
「っ、効かない……やっぱりか」
ゴブリンは怯まなかった。銃弾が体に命中しても、ただ肉を裂くだけで動きを止めない。
その傷口からは血ではなく、濁った黒い液体がにじみ出ていた。
「クソッ……魔物相手に銃が通じるわけ、ないか……!」
少女は低く吐き捨て、銃を素早くホルスターに戻すと、迷いなく明の腕をつかんだ。
「走れるなら、走って。ここは無理」
「は、え、ちょっ!」
返事を待たず、彼女は明を引っ張って駆け出す。
視界の端で、ゴブリンの群れが再び動き出していた。嗅覚か、気配か、明らかに標的を見失ってはいない。
「待て、どこへ――…!」
「人気のある場所はダメ。下手に灯りがあると、あいつらに気づかれる」
そう言いながらも、少女は裏路地へと曲がり、小刻みに視線を巡らせながら迷いなく進む。まるでこの異様な街を、すでに何度も歩いているかのような動きだった。
明は問いたいことが山ほどあった。なぜ魔物が現れたのか。自分はどうなっていたのか。そしてこの少女は誰なのか。
だが、今は何も言えなかった。
足音の背後で、木の根が軋み、濁った鳴き声が追いすがるように響く。
走るたびに肺が悲鳴を上げ、鼓動が耳の奥を打ち鳴らす。
(死にたくない。死にたくない、死にたくないッッ! もうあんな痛みは二度と嫌だ!!)
その一心だけが、今の明を突き動かしていた。
やがて少女は、半ば崩れかけた建物の裏手へ滑り込み、明の背を壁に押しつけた。
「息、整えて。あいつら、嗅覚は鋭いけど、耳は悪いから。追跡は長く続かない」
「……お前、何者なんだよ……」
ようやく吐き出せたその問いは、最後まで続かなかった。
目の前の少女が、明の口を抑えつけるように手で塞いだからだ。
少女はわずかに目を細めて、言った。
「聞こえなかった? 今は黙れって言ってんの」
低く、唸るように。凄みを効かせたその言葉に、明は続きの言葉を言えずに黙り込んだ。
どのくらいの間、そうしていただろうか。
乱れていた息が落ち着きはじめた頃、ようやく少女は手を離した。
明は咳払いひとつ、吐き捨てるように声を絞り出す。
「……あんた、いったい……何者なんだよ」
少女は視線を巡らせ、建物の隙間から外の様子をうかがってから、ぽつりと答えた。
「花柳彩夏。……そっちは?」




