桃花芳り下弦の月
ミスミが辛うじて上体を起こしている。淡紅藤のオーラは消え、翼はとうに失われてしまっていた。
激痛や多量出血からのショック状態、意識を失わずにいるのは彼女の気丈さ故だろうか。だが最早、動くことはままならない。
「そばにいてほしいと言われて嬉しかったです。
でもボクは……
どうやら応えられそうに、ありません。」
僕の身体から漆黒のオーラが出始める。
「青煙縷の如く立ち昇るを見る」とは国木田独歩の句だっただろうか。
自分でもわかるほどに、漆黒の糸筋が立ち昇り、僕の周囲を緩やかに螺旋する。
「サクヤ様。
幌谷さんにもしもの時は、よろしくお願いします。」
「うちの務めなのでその辺りはご心配なく。」
ミスミに対するサクヤの声が冷静に、無感情に、極めて事務的に響く。
後方から僕に対する圧力のようなものを、肌で感じる。
「幌谷くん。今のうちに避難して下さい。
戦場ですから、決して心を乱してはいけませんよ?」
ミスミが再び、柔らかで不器用な笑顔を僕に向ける。
荒渡を見る。まるで興味を失った子供のように、ただ漠然と虚空を見つめ佇んでいた。
壊れた玩具、空になった鳥かご、枯れた観葉植物を見つめている子供のように。
辛うじて僕が僕であることを維持できるのは、不本意ながらも荒渡のお陰かもしれない。
自暴自棄にならずにいられるのは、あいつの眼の奥を見たからなのかもしれない。
望みを捨てることも望みを持つことも、選択肢としては紙一重に過ぎないのか。
僕は「僕」に再び問う。
『ミスミちゃんをどうしたいの?』
『救いたい。助けたい。』
僕の中の「僕」が答える。
『死んでしまっても?』
『死なせない。』
『ミスミちゃんの覚悟が決まってても?』
『覆す。』
螺旋する漆黒の糸筋が収縮し始め、右腕に宿り始める。
『それは「僕」のエゴだとしても?』
『覆す。』
『此の世を終わらせることになったとしても?』
『そうならない、そうはしない! それが僕のエゴだとしてもだ!!』
僕はポケットの中から、二つに分断された胡桃を取り出し握る。
記憶、記録、過去ログが改ざんされ、螺旋し、呪詛となって握った拳に刻まれていく。
桃花の芳りが漂い、花びらが散り乱れ、桃源郷への路が開かれる。
「ミスミちゃん。」
拳から視線を移し、ミスミを見つめる。焦点が定まる。
「僕は我儘だから。
僕は僕の想いを覆すつもりはないよ。覆るのは、僕じゃない。
まだ諦めさせないよ? ミスミちゃん。」
テレビ映像が差し替えられた瞬間のように、一瞬のノイズが世界を走り、空間が振動する。
「僕の為に、僕の翼となって、僕を乗せてあの上まで飛んでくれ!」
僕は僕の意思、我儘を乗せて、握った胡桃をミスミに向けて投げた。
反射的に胡桃を受け取ったミスミの身体に、螺旋する呪詛が高速で駆け巡る。
斬られてはいなかった胡桃を握りしめたミスミが俯く。僕の我儘、ミスミ自身の強き意思を飲み込むようにゆっくりと深呼吸する。
ミスミが再びゴーグルを装着した。
「言ったじゃないですか、幌谷くん。」
薄紅藤のオーラが咲き誇る花のように舞い上がり、色濃く形成されていく。
一度大きく羽ばたき、畳まれた翼がミスミを包み込む。
『静寂なる魔鳥』雫ミスミはその強い意志を内包し、静かに立ち上がる。
「翼があるからと言って、飛べるわけじゃないんですよ?」
ミスミの体勢が沈み込み、翼が広がったかと思うのもつかの間、ミスミの身体が弾丸のように発射される。地を蹴る音が遅れて耳に届く、なんてこともないままに初期速度から最高速。そしてその弾丸は僕に向かっていた。
「バッ キンガムッ キュー!!」
ミスミの超高速タックルにより僕は捉えられ、肺の中の空気がすべて押し出される。たぶん、ついでに、あばらが何本かやられていやしないか。
「ホップ」で最高速、「ステップ」で僕を巧みにキャッチ、「ジャンプ」で一気に垂直跳躍して、瓦礫の頂きへと華麗に着地。
レスリングと三段跳びと、体操の複合競技。
相手への的確なダメージと、飛距離(ないし高さ)、そしていかに美しく飛び着地するかという新競技。只今の得点は、ダメージ点8.2、飛距離点9.6、技術点は低難易度技であったためいまいち伸びず7.4。
合計25.2点。
かの有名な「霊長類最強女子」の異名を持つ某吉田女史の引退は、この新競技への挑戦のためだと噂されている。確かに彼女の高速タックルならばメダル獲得も射程内ではなかろうか……
なるかっ!!
「ミ、ミスミちゃん。もう少しですね、配慮と言いますか、優しさと言いますかですね、」
「負傷兵を酷使するような上官に対して特別に掛ける配慮などありません。97%
そして戦場における優しさは時として命取りになります。81%」
「……、程よく引き締まったボディ。それでいて女性らしい柔軟性と温もり。
ミスミちゃんは案外、着やせするタイプ?」
「なっ!
戦場においては一瞬たりとも気を緩めませんようにっ! 100%!!」
「ウィンッ ザージョッ!」
ミスミは抱えていた僕を投げ捨てるように地に落とす。
見上げたミスミは頬に赤みがさしているような気がしたが、ゴーグル越しのその視線は油断することなく、瓦礫下の荒渡を見据えていた。
地に足を付け気丈に立ち構えるミスミの姿は、桃源郷送りにより負傷の様相は一つもない。唯一、所々破れた戦闘服とさらけ出た白い肌、太腿に巻かれた止血帯だけが、出しそびれた手紙のようにそこに在るだけだ。
負傷兵と名乗るには余韻しか見受けられない。
まぁ「痛みの記憶」だけは残っているのだろうが。
「蛙水課長から聞いてはいたっすけど、なかなかのルール違反っぷりすね、桃っちは。
でもそうやって、高いところから見下されているだけで荒渡は満足っす。
自分、底辺なんで。」
そう言うや、ミスミの開けた地下への穴のキャパを早々に上回り、見る見るうちに「見えない水」の水位が荒渡の頭上へと達した。
本気を出せばこれほどにも簡単に、僕らを水没させることが可能だったというのか。
僕らは単に、遊ばれていただけだというのか。
「ゴポッ ブククッ ガパパパパッ!」
突如、荒渡がまるで溺れたかのように口元を手で押さえ、苦しみ悶え始めた!
「お前も自分の技で溺れるのかよ!」
「いや、溺れないっす。」
苦しみ悶え、天を仰ぐように上へと手を伸ばした荒渡は一転、ケロッと佇んだ。
「やだなぁ、桃っち。冗談すよ、冗談。
最後にちょっとぐらい、面白いことやった方がいいかなって思っただけっす。
んじゃ荒渡、割と早寝な方なんで帰るっすね。」
そして陽気にも、まるで友達との別れかのように、「また近いうちに」とでもいうかのように、その上げた手を振ってきた。
直後、僕らの向かい側の瓦礫が内圧に耐えきれずに崩壊し、ダムの決壊のごとく「見えない水」が荒渡ごと流れ出ていく。
「なんだっていうんだ、あいつは!」
僕は僕の未熟さを、命を弄ばれたに過ぎなかった至らなさを突きつけられ、それを押し隠すように怒りに任せて悪態をついた。
ややしばらくの間、僕らは無言で、全てが流れ去っていった瓦礫の底を見ていた。
ミスミがゴーグルを外し、僕の方へと相対する。そこには労いのような、慈しむような、それでいて僕同様に自身の至らなさを感じ押し殺すような、そんな複雑な微笑みがあった。
「お疲れ様です。」
「終わったのだろうか。」
「はい、周囲に鬼の反応は見受けられません。あの中鬼こそ逃しましたが、ここ一帯は間もなく制圧完了となるでしょう。」
「ミスミちゃん、その、すま…
「よしましょう! 幌谷くん。
ここで詫びられたらボクが悲しくなります。ボクは、ボク達はまだまだ強くなれます。その為にも幌谷くんには頑張ってもらわないといけないのですから。」
「いやま、頑張るけどもさ。」
「帰りましょう、幌谷くん。
暗くなる前に。」
ミスミの言葉に圧倒され、今は考えるのをよすことにした。
いつも冷静なミスミが、妙に明るく振舞っているのだから、その好意を無駄にするわけにはいかない。
気づけば日傘女、サクヤとかいう女はどこにも見当たらなかった。
いったいあいつは何者なのか。
ミスミに先導されて、瓦礫の山を慎重に降り、廃病院の正面の方へと外から回り込む。
辺りを闇夜が覆い始めていた。ちらほらとサーチライトのようなものが見えたかと思うと、自衛隊のような人達で周囲が騒然となり始める。
民間人である僕らに目礼し、声もかけないのは謎だったが、それも考えるのは後回しだ。
進めば進むほど、僕の周りは謎が増え続ける。何一つ謎が解明している実感がないというのに。
ミスミが、駐輪してあった黒光りのバイクからフルフェイスと半キャップ型のヘルメットを取り、暫し思案したあとフルフェイスの方を僕に手渡す。
「ボクはゴーグルがあるので、そちらを。」
「いいの? 後ろに乗って?」
「おそらく公共機関はおろか、タクシーもつかまえるのは困難だと思いますが?」
「んじゃ、遠慮なく。
……、なんかいい匂いがする。」
フルフェイスを被ると、石鹸の香りがした。
「ッ! 飛ばしますから、落ちないようにしっかり掴まって下さい!」
「どこをどう掴めば良いので?」
「腰のあたりです!
でもあまり密着し過ぎませんよう、70%ぐらいしっかり掴まって下さい!」
「どれぐらいのしっかりだよ!」
ミスミはエンジンをかけ、大きくスロットルを回した。
無言となったミスミに代わって、低く力強いエンジンが身体に響く。
初めて乗るバイクの振動に感動するのも束の間、ミスミはギアを入れ急発進させた。
思わずしがみつくように腰に回した手に力が入ったが、加速は落ちることなく、廃病院を飛び出す。
バイクが暗闇から逃れるように進む。
僕は逃れようとしていることと、逃れられないこと。
そしてこれから向かう、先のことを考える。
バイクのエンジン音が響く。
僕らが進む道の先には丁度、下弦の月が輝き始めていた。




