無を悟りて無を受け入れる
僕は知る。自分というものの成り立ちを。
僕は気づく、自分というものの役割を。
鬼を殺さねばならない。鬼を滅せねばならない。鬼はこの世から排除せねばならない。
鬼の原因たる怒りや悲しみや、憎しみ妬みから人々を救済せねばならない。
そのために僕は、全ての人々の苦しみを一手に引き受け、全ての人々の想いを桃源郷へ送らなければならない。
あぁ、僕は、僕なんか、無力な僕なんか、無力で無知なる僕なんか。
朽ち果てぬこの身を礎にして、人々のために、人々を救うために、人々の世を救うために、母のいない人々の世を救うために、この世を終わりにするのだ。
すべては桃源郷へ。
幻想なる桃源郷へと送って永遠なる理想郷を築くのだ。
怒りや悲しみを否定して、投げうって排除して、幸せを享受するのだ。
この世の怒りを否定し、この世の悲しみを否定し、この世の悪を否定し、
母のいないこの世を否定し、父のいないこの世を否定し、僕をなくすこの世を否定し、
この世を否定し、全てを否定し、何もかも否定し、
永遠を手にするのだ。
すべては桃源郷へ。
そうだ、そうなのだ、そうなのだよ。
この怒りをなくす、この悲しみを無くす。
つまりその根源たる人類を桃源郷へと誘えばよいだけのはなしぢゃないかなぁ。
あはははは!
そうぢゃぁあないかい?
僕はそうすべきぢゃあないのかい?
僕にはその力があるんぢゃあないのかい?
僕はそのために此の世に生まれてきたんぢゃあないのかい?
それが僕が此の世に存在するための理由なんぢゃないのかい?
暗くて深い虚無がぼくを包み込む。
優しくて明るい、心地よく馴染みある虚無の光が僕に纏われる。
嗚呼、ああああああ! この虚無よ! この漆黒の光よ!
僕を、僕ごと、僕と僕の世を優しく包んで全ては無に帰せよ!
虚無の世界へ、桃源郷へと送り届け給へよ!
鬼、鬼、鬼!
鬼がいなくとも、母なる大鬼が目の前にいなくとも!
その根源たる負の感情を消し去ればいいだけの話ぢゃあないか。
ありがとう、ありがとうよ此の世よ!
おさらば此の世!
僕を、僕のこの身を、黒光りした大蛇が唸りをあげて螺旋し纏わりつく。
漆黒の光が昇天すべく、この世を桃源郷へと誘うべく、重厚にして愚鈍に螺旋の範囲を広げていく。
僕はその黒光りした大蛇に、深い闇に、漆黒の光に、その虚無に包まれながらそれに身を任せ、全否定を解き放つ。
だがそこに、一筋の淡い光が差し込む。
僕の、僕と此の世の、虚無の世界に糸筋ほどの光明が差し込む。
か細く、弱く、消え入りそうな一筋の雫のような光が差し込む。
この世の悲しみを全て抱え込んだような祈りの光。
それは僕の拒絶の光と対極にある、相反する、悲しみの全てを慈しむ光。
何故なんだい? 君は誰なんだい?
何をしでかしているのだい? 何故、僕の邪魔をするのだい?
僕は此の世を救うんだよ? 此の世を救わんが為に僕は全てを拒否、拒絶するのだよ!
僕を生んで、育んで、そして死んだ母によって、導き出した答えがこれだよ!
僕が僕たる、桃太郎たる所以はこれなんだよ!
何で、何故に、如何して僕の為に涙を流すのだい?
君は誰だい? 何なのだい? 何が不満なのだい?
何故、僕の為に涙を流すのだい? 何故、僕なんかの為に祈るのだい? 誓うのだい?
僕を肯定するというのかい? 僕の悲しみを肯定するというのかい?
それはエゴってもんじゃないのかい? 僕の怒りはどうするのだい?
悲しみを、哀しみを肯定し、それ故に否定し、全てを無に帰そうという僕を否定し肯定するのかい?
嗚呼、あああっ!
あああああああああぁぁぁぁっ、ああああああっ!
嗚呼、君は僕の為に涙を流すというのかい?
それを、その涙を是とするのかい?
嗚呼、そうか、そうなのかもしれない。
確かにそうなのかもしれない。そうであるのかもしれない。
そうなのかもしれないな。
僕は、僕の力は、僕というものは、桃太郎は、桃太郎という力は!
否定されねばならないぃっ!
のかもしれないっ!
僕の悲しみは、僕の怒りは、僕は否定されねばならないのかもしれない!
そうさ、そうだよ。
僕は桃太郎じゃない。
僕は僕であって、桃太郎なんかじゃない……。
僕の確固たる全否定の虚無に亀裂が入る。無数のひび割れが伸びる。
全肯定の光は、静かに伸びる闇夜の雷のように細く鋭利に伸びる。
分割、分断された闇が震え、所在を確認しようと躍起になる。
人は、自身が自身であるために、他者の存在を必要とするのだろうか。
僕は僕であるために、この光を、この涙を、必要としているのだろうか。
僕を肯定し、否定し、そして全てを肯定する光を、僕は求めているのろうか。
僕は否定と肯定の間で揺れ動く。
僕が僕であろうとする思いと、僕であってほしいという想いの間で揺れ動く。
全てを理解したわけではない。だけれど、僕は僕であることを理解する。
僕は僕であり桃太郎ではない。それと同時に僕は桃太郎だ。
正確に言えば僕は桃太郎だった。桃太郎だった僕は……
今現在は僕だ。
僕は僕であるために「僕」を否定しなくてはならない。たとえ肯定されたとしても受け入れることはできない。今の僕にはできない。
桃太郎だった「僕」を拒絶しなくてはならない。たとえ求められたとしても、たとえ求めているとしても、それを肯定するということは……
母を拒絶するということだ。それがたとえ母の死を拒絶することだったとしても、それは母そのものを拒絶することにつながるからだ。
過去から続く桃太郎と、過去に縛られる「僕」から別れなければならない。
僕は、僕であるために「僕」と、桃太郎である「僕」と別れなければならない。
此の世に僕をつなぎ留め、此の世を、母の愛したであろう此の世をここに繋ぎとめるために……
僕は「僕」を否定し、拒絶し、別れなければならない。
僕を包み込んでいた黒光りした大蛇、深い闇、漆黒の光、その虚無に別れを告げる。
ひび割れ、存在するための認識を模索し、霧散しつつある中でなおもここにあろうとする虚無。
それが集約し、縮小し、黒く艶やかな硝子玉となり、僕の心の底へと消えていく。
夜の静けさは、何故こうも僕に清廉さを求めるのだろう。
闇空に広がる満天の星空は、何故こうも僕に突き刺さるのだろう。
僕は寂れた、滑り台と鉄棒と、砂場しかない公園の中心で闇空を見上げた。
滑り台の終わりで、砂場の始まりで僕は満天の空の光を浴びた。
淡く、弱く、そして無数の優しい光を浴びた。
どれほどのエネルギーが僕から立ち上り、
どれほどのエネルギーが僕を包み、
どれほどのエネルギーが僕の中を逆行し、
僕を、僕を、僕を通過したのだろうか。
それ以後の記憶は定かではない。
気が付けば僕は、いつもの、いつも通りの僕の部屋で、寝るだけの為にこしらえたような無感情な僕のベットの上で朝を迎えていた。
しばらく母のいなかったこの家の、しばらく倒れて眠るだけだった、睡眠以外に使い道のない無表情なベットの上で、僕の意識が微睡から頭をもたげた。
ただわかっていたのは、しばらく母のいなかったこの家は、二度と母が帰らぬ家だということだった。
そしてそれを見ないことににし、忘れることにし、触れないことが僕を維持する唯一の道だった。
「ねぇ、」
少年が僕を背後から抱きしめる。
「ミスミちゃんをどうしたいの?」
「救いたいな。助けたい。」
「死んでしまっても?」
「死なせない。」
「ミスミちゃんの覚悟が決まってても?」
「覆す。」
僕は前を見据える。
「それは「僕」のエゴだとしても?」
「覆す。」
「此の世を終わらせることになったとしても?」
「そうならないことを祈っててほしいな。」
少年がクスクスと笑う。
僕は気弱に笑顔を返す。
「おかえり、僕。」
「ただいま、僕。」
僕は「僕」を受け入れ、「過去」を受け入れた。
強く儚い力と共に。




