ビクッと遠近法ムシ
「…行くか。」
暫しの沈黙の後、リュウジンがぼそりと言った。この沈黙、静寂に耐えられなくなったのは確かに僕もだった。だが「進む」という決断を下すには別途、勇気が必要だった。
リュウジンにしたって、その呟きには僕の同意を求めるようなニュアンスがあった。
「行くしか、ないよね。」
僕の回答が不満そうにリュウジンが短く舌打ちし、廊下の向こうへと、「白い何か」が通ったはずの場所へと歩み始める。背筋を襲う悪寒を振り払うように、僕はリュウジンに従った。
僕らは旧岩狩病院の門をくぐり、荒廃し草が生い茂った中を…
リュウジンの「草刈・滅誅殺」なる技で掻き分け、正面玄関を「開錠・破漸断」なる技でぶち破り、内部へと侵入した。
だが、侵入した矢先に僕は見てしまったのだ。仄暗い廊下の突き当りを「白い何か」が横切っていくのを。
「見間違い、とかじゃねぇのか?」
「そうだったらいいんだけど、ははは。」
先程までは気にならなかった二人の足音が、妙に耳につく。
僕は半開きになったドアの隙間、窓に打ち付けられた板の隙間、壁紙が剥がれ割れた壁の隙間から目を逸らし、リュウジンの背中だけを見る。
廊下の突き当り、つまり丁字の突き当り部分に差し掛かると、その一歩手前で僕らは歩みを止めた。
そこから曲がり角、「白い何か」が来た方向と、行った方向の両方に意識を集中する。物音、人…であればいいのだが、そういった「何か」の気配を探る。物音は一切しない。先程まで聞こえていた水が滴る音さえ、どこへ行ってしまったというのか。
ふと、微かに柑橘系のような匂いが鼻腔をくすぐる。注意しなければわからないほどの匂いだ。
「あー、うーんと、お見舞いにフルーツを貰った、入院患者のお嬢さんかなぁ?
ほら、なんか柑橘類の匂いしない?」
「あ? しねぇよ、そんなの。つか、そんな奴いるわけねぇ。
で、そいつはどっちに行ったんだよ。」
「えーと、左手から右?」
「チッ、はっきりしやがらねぇな!
じゃあ俺は右を見るから、お前は左な!」
「え? え? え?」
「え、じゃねぇよ!」
リュウジンが勢いよく丁字路の中央に飛び出す。
僕は慌ててリュウジンと背中合わせになるように、つんのめりながら飛び込んだ。
「…、何もいやがらねぇ。」
「あ、あ、あ!」
「お前はさっきから、母音しか喋れねぇのかよ! 情ねぇ。」
そうは言いますけどね、リュウ坊! こいつを見てくだせぇよ?
マジでさ! 僕のキャパを越えてまっせ!
そこには壁一面、いや、天井と床を含めて全面に無数の傷、なにかしらの獣が引っ掻いたような、夥しいほどの傷が刻まれていた。
振り返ったリュウジンが僕をどけるように肩に手をやった時、僕は「ビクッ」となってしまったが、つられてリュウジンも「ビクッ」となったことは隠しきれていない。
そしてその凄惨な光景を目の当たりにしたリュウジンが重ねて「ビクッ」となり、今度は僕もつられて「ビクッ」となった。二人で「ビクッと2×2」だ。
「鬼の仕業…、にしてはらしくねぇ。
かと言って、人のなせる業か?」
「そいつは僕が聞きたいよ。」
少し冷静になったリュウジンが、傷の一つを指でなぞる。
「傷が新しいな、刀傷か? そう経っちゃいねぇ。
お前見たのって、落武者一束じゃねぇの?」
「落武者は束で数えないだろ! 普通は。」
「ハッ、実体があるってことは斬れねぇわけじゃねぇ。」
「その尺度がわかんないよ!」
「ま、行くか。」
「どっちに?」
「やっぱ行った方向に追うしかねぇだろ。」
「それはよした方がいいんじゃないかなぁ?」
「んじゃ、お前だけ傷だらけの方に行くか?」
「いや、やめとく。」
うん、重ね重ねここは戻るという選択肢はないのだな。
ここまでくると僕とリュウジン、どちらが年上かわからない。勿論、リュウジン見た目は中二病罹患者…、失礼、中学生男子だったが、それは見た目として鬼討伐に関しては先輩だ。
序列に年齢は関係ない。敬意をもって先輩と崇めなくてはならない。
「本当はリュウジンも一緒に行きたかったわけだよね?」
「あっ? ざっけんな! 俺は一人でもかまわねぇんだよ!」
「発言と行動がわかりやすくて助かるよ。」
「チッ、いけすかねぇ。」
「ときにリュウジン、君はどんな女の子がタイプだったり?」
「そりゃまぁ、元気な子っつうか、ウジウジしてねぇつうか…」
「年下系なわけ?」
「あー、年上はなんつうか、俺を子ども扱いするっつうか…
って、なんの話題だよ!
いーんだよ、そんな話はよっ!」
僕は、おそらく僕らは、このよくわからない不安というか、恐怖心みたいなものを払拭するべく、無駄に言葉を続けていたのだろう。
歩く廊下は先程よりも暗闇に近く、湿度の高い暑さに満ちていた。
「ところでさリュウジン。」
「あぁ?」
「そろそろ名前で呼んでもらってもいいかなぁ。」
「…、名前知らねぇし。」
「言わなかったっけ?
幌谷ビャクヤ。ビャクヤでいいよ。」
「フン、気が向いたら呼んでやらぁ。」
ある程度進んだ後、ちょっとしたホールのように広い所に出た。ここは裏口、救急車だとか職員が出入りするような場所だろうか。古びてはいたが、不思議と全体の損傷は少ないように見えた。
と、唐突に僕のスマホが着信を知らせる。
あまりの唐突さにまたもや「ビクッ」となってしまったが、そして先程の通話を思い出し背筋に悪寒が走ったが、リュウジンにジェスチャーで着信があったことを示し、僕は恐る恐るスマホを取り出した。
イヤホンをしているが、僕は一応スマホ画面の「雫ミスミ」の文字を確認してから電話に出る。
人はどうして電話に出るときに、その場に一緒にいる方々に背を向けるのだろうか。それは僕だけなのだろうか。
「もし…、もし?」
〔ミスミです。〕
「ありがとうございます。」
〔感謝の意を示される意味はわかりませんが、先程は電波の調子が悪かったようで切れてしまいました。
問題はありませんか?〕
「このタイミングで癒しをありがとうございます。
何かしらの何かしらを見たような気がしますが、見なかったことにしようかと協議中です。」
〔癒し……、いえ何でもありません。
見たものを見なかったことにするとはいささか、68%ぐらい不満ではありますが、状況がわかりませんので発言は控えます。〕
なんという癒しの声か。「癒し&確かな」言葉。
癒しに安堵で確かに僕の不安をかき消す、まさに守護天使の声ではないか。
「…おい、ちょっと。」
「え? 今電話中だから。」
「知ってるわ! ちょっと聞きてぇことがあんだよ。」
「今、大事なところ! 主に癒し補給的な意味で。」
〔癒し…〕
「確認だ、こんちくしょう!
お前見たのって、でっけぇ蜘蛛なんじゃねぇのか?」
「バカ言ってらぁ! 大蜘蛛ぐらいでビビりませんから!」
〔大雲?〕
「いやまあれな、人間ぐらいの大きさな。」
「それこそ見間違いだって!」
「八本脚っつたら、蜘蛛か蛸ぐらいしかいねぇだろうが。鬼だって脚は二本しかねぇ。」
「いやいや、ちょっと待って。」
〔待ちますが。〕
「待てねぇよ!」
「だからハモるなって! ややこしい!」
いったい人間サイズの蜘蛛だとか、リュウジンはなんだっていうんだ。
「ごめんミスミちゃん、ちょっと待って。」
〔ですから待ちます。というより通話は繋いだままでお願いします。〕
「勿論です。
んでリュウジン、なんだって?」
「お前が後ろ向いてる間に、奥からガサゴソと音が聞こえただろうが。
聞いてなかったのか?
したら大蜘蛛、人間サイズの大蜘蛛が通り過ぎた、つってんだよ!」
「それは何というか…
遠近法の錯覚的な、トリックアートの類な感じじゃないの?」
「バカ野郎! んなわけあるかよ!
毛の生えた長げぇ足で、所狭しとわしゃわしゃ歩いていやがったんだよ! 壁いっぱいにな!
あいつがさっきの壁傷だらけにしたやつに違いねぇ。」
僕は特別、虫が苦手というわけではない。だが、そんな巨大な蜘蛛がいたとして、そいつと戯れたいとは思わなかった。
想像しただけでゾワッとするではないか。
「ケッ、俄然やる気が出てきたぜ。
あれは鬼の新種か? 俺があいつを狩ってやる!」
「あー、ミスミちゃん。
リュウジン氏が蜘蛛を駆除するって、俄然やる気です。」
〔遊ぶのはほどほどでお願いします。〕
「そんなゆとりがあるわけじゃ、ないんだけどね。」
鬼だけで手一杯だというのに、白いお嬢さんだとか落武者だとか大蜘蛛だとか、いったい何を討伐しろというのか。
調査の範疇を超えているではないか。




