二重螺旋の古新聞
バスが揺れている。
バスに乗ったのはいつぶりだろうか。高校時代の何かしらのあれ以来だろうか。
僕は何とか予定していたバスに、無事に乗ることが出来た。と思う。
「なんだよ! 南口にはコンビニがあったのかよ!」と思いながら、発車間際のバスに乗ることが出来た。
僕と、買い物袋を提げたおばちゃんと、徘徊ライフを満喫していそうな爺さんと、ちょっと緊張しているような気真面目そうな女の子を乗せてバスは走り出す。
『早くうちに帰ってきてね!』
最早これはどういう設定、世界観なのだろうか。
人類史上、最も娘にしたいアイドルと名高い「宝鏡カグヤ」が、後ろに手を組み上体をやや傾げながら、こちらに微笑を投げかけている。白いシャツの純白さが彼女の純白さを象徴している。
その背景には、これまた純白のボディと青白いラインを走らせるライトが近未来的な「エアコン」が描かれていた。
従来の冷風を吹き出すようなタイプではなく、まるで空間を包み込むような、自然な空調循環機能。加えて空気清浄機の機能にマイナスイオンを付加する効果。
更に流石はW&Cとでも言おうか。消臭・芳香剤を専用タンクに入れることで、自動的かつ瞬時に嫌な臭いをキャッチ、そしてクリーン。
三つの機能が合わさっているのに、お手入れは定期的な専用タンクへの消臭・芳香剤の補充と、防塵フィルターに溜まったゴミを捨てるだけ。これで部屋の中は、毎日が森林浴という優れもの。
世界の空間はW&Cによって支配されつつある。
そして人類の半分、男性の心も「宝鏡カグヤ」によって支配されつつあった…。
あぁ! うちに帰りたいっ! 今すぐにでも帰りたい!
うちにはW&C最新型モデルのエアコンも、宝鏡カグヤもいないけれども!
僕はボーっとバスの中に張られているポスターを眺めていた。
張られているだけでは、このバスの中が森林浴とはならないようだ…。
と、言うわけで本題に入ろうではないか。
最近、知人になったプロレス技が大好きな女子が、嗅覚の鋭さにモノを言わせる発言をするので触れてこなかったが、諸兄そして諸姉よ、「香り」というものについてどの程度、重要視してでおいでだろうか。
「臭い」「匂い」「香り」「芳香」の順で考えると中間ぐらいの、やや「香り」よりの嗅覚に訴えるものについてだ。
もちろんカレーやお好み焼きや、ラーメン、唐揚げ、味噌汁、あるいは胡麻油やニンニクやバジル、各種ハーブのような食欲をそそる「香り」については、ここでは取り上げない。
確かに焼肉の香りは、想像するだけで食欲が湧いてくるのは否定出来ないが、割愛させて頂きたい。
つまり諸兄よ、女子が纏う「香り」はどのようなものが好みだろうか?
僕は迷わず「石鹸の香り」と申し上げたい!
「はぁ? 今時、石鹸の香り? そもそも石鹸なんて無くね?」と言う声が聞こえてくるが、石鹸というか、例えば相手の頭部が近くなった時に香る仄かなシャンプーの匂いだとか、たまたま偶然、接触した時に香る衣服の柔軟剤っぽい香りだとか、あのフワッとした清潔感のある仄かな香りのことだ。
ちなみに諸姉にあっては、男子からどういう香りがするのが一番いいのか、個人的に気になるところではあるのだが、それを聞くのは邪な気がするので聞かないでおく。
「相変わらずバカ言ってやがる、柑橘系の爽やかな香り一択だろうが!」だとか「これだからお子ちゃまは、甘いフローラルな香りに打ちのめされろ!」と、諸兄からお叱りを受けるのはごもっともである。
だが僕は、清涼感よりも芳醇さよりも、清潔感! 誰がなんと言おうと「あ! お風呂上がり?」みたいな感じにドキドキしてしまうのだ! つまり想像力が後押しするのだ!
そして想像してしまったが故の背徳感でドキドキが倍増だ! 相乗スパイラルだっ!
そしてここだけの話だが、あくまでここだけの話なのだが、諸兄よ共感していただけるだろうか。
僕は仄かに香る汗の匂いが好きだ。
一応、断言しておくが、僕は「匂いフェチ」ではない。僕如きが「匂いフェチ」を名乗るのは烏滸がましいというものだ。
それはさて置き、そんな切り出しの僕が言うのもなんだが、「汗の匂い」とは難しい。つまり厳密に「汗の匂い」を感じているのかが難しい。
もしかしたら視覚効果によるものなのかもしれない。
と言うのも、発汗によって「石鹸の香り」が際立ち、僕の鼻腔をくすぐるという寸法だからだ。
あぁ!「石鹸の香り」が「汗の匂い」とともに二重螺旋になって僕に襲いかかる!
うん、これ以上でもこれ以下でもない! これぞ二重螺旋の背徳スパイラル!!
危うく薄ら笑いを浮かべそうになるのを堪え、僕は車外の移り行く田園風景を眺めた。
このバスはいったいどこまで行くのか。そして僕はどこで降りるべきなのか。
大抵のバス停は留まることなく、ただ徐行して通り過ぎて行った。たまに留まっては乗り換えがあるようだったが、僕はずっと目的もなく外の夏景色を眺めていた。
『始発でバスにお客が4人乗りました。
途中でお客が何人か乗ったり下りたりしました。
中間地点でバスに乗っている人数は、始発時の2倍でした。
その後、2人のお客が乗り、7人降りて、そして1名乗ったのちに終点に着きました。
終点で降りたお客は何人ですか。』
などと考えたりしていた。
そんなことを考えていたので、なんとなく僕の座席の後ろに誰かが座った気配と、新聞のインクと芳醇な紅茶の香りが混じった匂いを微かに感じたが、全く気には留めていなかった。
「はてさて、エッグスラットか温泉卵か。それともポーチドエッグだったかの?
ん? なんだったかのう?」
新聞のバサバサという音に交じり、背後から声をかけられる。
「!
その声は柴刈の…、え~と、イチジツ・センシュウさん!」
僕は振り返りながら返答する。
「このポーチド野郎が! おまえ、わざとじゃろう!」
イチモンジのじいさんが、新聞でシールドを張りながら顔を見せずに言い返してくる。
ある程度の声量だったが、バスのエンジン音で他の乗客はその声を気に留める様子はなかった。そもそも乗客は、多少の入れ替えはあったようだが僕らを除いて2人しかいなかった。
ニコニコ笑っている余生は常に陽だまりの中な感じの、始発から乗っている爺さんと、しかめっ面ですごい勢いでメールを打っている感じの、金髪ジャージのネエチャンだ。誰かが喋っていたところで気に留めそうもない。
「…、なんとなく格好いいかなと。」
「イチニチセンシュだとかイチジツセンジュと言わなかっただけ褒めてやろう。」
「ありがとうございます。」
「褒めとらんわ! このポーチド野郎が!」
むむ、「褒めてやろうって言ったじゃん」とかのツッコミは、この手のじいさんには通用しなかろうからやめておいた。
「してポーチド、調子はどうじゃ?」
「どうもこうもない感じですね。
未だに答え? に辿り着けない感じです。」
「答えなとな!
ふむ、答えは何処にあるんじゃろうかの?
そもそも正しく「問い」がわかっておるのか? ん? ポーチド。」
「…、どうでしょう。
井の中の蛙は、大海についての質問はしません。
知らないから、そもそも「知らないということ」すらわからないから、疑問もわきません。」
「確かに。
「正しい問い」は「答え」を包蔵している。ということはポーチド、「正しい問い」を見つけるしかあるまいて。
んま、つまりポーチドの中に「正しい問い」も、「答え」もあるということではないのかの?」
「…。」
まるで禅問答のような会話だ。
僕は前に向き直り、暫し考えた。
バスが大きく揺れる。バスは僕の知らない道を走っている。だが僕があずかり知らないだけで、バスは所定のルートを走り、他の乗客はいつもの生活をしている…、はずだ。
「僕の中に…、「答え」があるんですかね?」
「正しい問いを見つけることができたのならばな!
自ずとそこに「答え」があるじゃろうよ。
してポーチド、そこのボタンを押せい!」
僕は反射的に傍らにあったボタンを押した。
『次、留まります。』
女の無感情なアナウンスが流れる。
「ここで…、降りるんですか?」
「相変わらず無駄な質問が多いな!
ポーチド野郎じゃな!
答えはわかっておるじゃろうが!」
イチモンジのじいさんは、快活に笑いながら読んでいた新聞を投げて寄こす。
何処で手に入れたのか。その新聞は10年ほどまえの新聞だった。
バスが留まり、僕とイチモンジさんは何もない、寂しい場所に降り立った。
考えてみたら、ミスミから何処のバス停で降りるのか聞いていなかったが、たぶんきっと大丈夫なのだろう。
つまりそれを問うのは愚問ということなのだろう。
ところで諸兄諸姉。
僕は終点までバスに乗ってはいなかったが、さっきの答え、「終点で降りたお客」は5人だ。




