赤い雫流れるそれは喪失
僕は、僕は間違った。
山羊の面を被った女、山羊女を追ってくるべきじゃなかった。
鬼を追うのが、倒すのが使命だとか宿命だとかそういうことじゃない。根本的に僕なんかに、僕ごとき凡人に、そんなことはできるはずがないじゃないか。
よしんば僕が桃太郎だかの生まれかわりだとしよう。よしんばその手には鬼を狩る刀が握られていたとしよう。だがどうだ。その僕にそんな覚悟が、鬼を倒す覚悟、自身や仲間を失うかもしれぬ覚悟など備わっていただろうか。ただなんとなく惰性に流され、ただなんとなく仲間の勢いに調子づいていただけではないのか。その意味を理解などしていたか。
僕は山羊女の存在などに目もくれず、背を向けてウズウズの方へと歩み寄る。
「あらあら泣いているのかしら? 自信喪失なのかしら?
当然と言えば当然なのだけれど?
まぁ、マネージャには桃太郎に手を出すなって言われていたし? 興覚めだし?
でも死なない程度には、美しくないものを排除したい気分なんだけど?」
僕の耳には山羊女の言葉など空風程度にしか聞こえない。無味だ。
好きにすればいい。間違ったのは僕だ。
倒れているウズウズの横に跪き、その半身を抱きかかえる。
「ウズウズ…、ごめん…。」
「うまく…、できなかった…」
ウズウズが小さくゴフッと咳き込み吐血する。
「ごめん…。
本当にごめんウズウズ…。」
「だめだった…、ガクッ」
「ガクって、ガクッて口で言うセリフじゃないよ、ウズウズ。
なんで目をつぶってうなだれるんだよ…
ダメだよ、僕が悪かったからダメだって! ねぇ?」
僕は石畳にへたり込み、腕の中に抱かれているウズウズを揺する。
「ウズウズ? …ウズウズ?」
力なく、か細い僕の呼びかけにウズウズは反応しない。
「だ、だめじゃないか…。いくら夏とは言え、こんなところで寝てしまったら風邪ひいちゃうよ。
なぁ、そうだよ…。ネコだって待ってるからさ。帰らないと…。」
言葉を続けても、閉じられた瞼が開くことはない。長いまつげが美しく、規則正しく閉じられた瞼に蓋をしている。
「あぁ、そっか。眼鏡がないと立ち上がれないよな。さっき吹っ飛んじゃったしな…
眼鏡探さないと。早く、早く探さないと。
でも、でも今動いたら…、動いたらぁ…」
一気に僕の瞳に涙が溢れ出し、視界をぼやけさせる。
僕は慌てて一度、大きく目をつぶり涙を追い出す。大粒の涙が頬を伝う。視界が開く。
ゆっくりと、腕の中のウズウズの顔からその下へと視線を向ける。
衣服がずたずたに引き裂かれている。全身がどこも切り傷だらけで血だらけだった。
致命傷となるような深い傷は無い。だけれどこんなにもおびただしい傷を負い、こんなにも血が流れてしまったら…
僕は慌てて「血を止めなきゃ、傷をふさがなきゃ」と考える。でもどこをふさげばいいというんだ。こんなになってどこをどうすればいいんだ。
それに、抱きしめる腕をウズウズから離してしまったら…
その先の恐怖に僕は身動きすることができず、思考すら手放しかける。
いくら瞬きしても視界がすぐにぼやけた。目を逸らしちゃいけないはずなのに、それはわかっているはずなのに涙が僕を邪魔した。
やがてぼやけた視界の光が明滅を始める。瞬きによるものじゃないことだけは認識する。
そしてその明滅が消え入りそうになったところで白黒が反転した。
ああ、これはいつぞやのやつか。いつぞやの「虚無」か。
石畳だった地面が古い木の床に姿を変える。僕は一人、その木の床にへたり込んでいる。
視界を床から緩慢に正面に移す。そこは狭苦しい、書架と本に埋められた書庫だ。
「やぁやぁ、今日は取り乱していないじゃない。」
「今日は、ってなんだよ…。」
「前回は取り乱してた、って意味だよ。
ははは。」
相も変わらず禅問答のようなはぐらし方で少年が、笑っていないトーンで笑う。
少年は「僕」だ。年のころは14~15。
白黒が反転している世界だからかはわからないが、真っ白な学生服に身を包んだ中学生の「僕」が学校にある机に向かい、学校にある椅子に座っていた。
視線は僕には向けず、机に置かれた本に向けられていた。
「何代前の桃太郎だろう? それなりの地位のお侍さんだったんだねぇ。」
「知らないよ、そんなことは。」
「こないだ読んだやつのは、闇市で干物を売ってたって書いてあったよ。」
「だから知らないって!」
「知りたくないの?」
「知って何か得するのか? この状況を打破できるのか? ウズウズを救えるのかっ?
できないならっ! できないのにっ! どうすりゃいいんだよっ!!」
僕は「僕」に八つ当たりのように、感情に任せて絶望を押し付けた。僕の無力を押し付けた。
「僕」が静かに立ち上がり、読んでいた本を閉じ、そしてその本を大事そうに書架へと納める。
「またあれかい? 見たくないものは見ない。知りたくないことは知ろうとしない。
そんな事実なんて、関知しない?」
「ふざけんなよっ!」
「ははっ! ま、それが半分は正解なんだけどね。
でも見ないのも知ろうとしないのも、関知しないのも無慈悲というものだよね。」
いつの間にこの書庫に窓ができたというのだろうか。少年である「僕」がその窓辺に静かに進む。
窓を伝うたくさんの雨水を、内側から「僕」が指でなぞる。「僕」の憂いに満ちた表情が窓にうっすらと映る。
「たくさんの、おびただしい事実が僕の表面を通過する。下に下に、過去に過去に流れていく。
その先は? その事実はどこに?」
窓を伝うたくさんの雨水の間を縫うように、上から赤い一筋の線が降りてくる。
「僕」がそれを愛おしく手を添えた。窓の外のそれは当然、内側の手に遮られることはなく、ゆっくりと、ゆっくりと降りていく。
「わからないよ、そんなことは。
起こったこと、事実はどうしようもないじゃないか。」
僕の投げやりな反応に「僕」は言葉を繋ぐ。
「確かに事実は事実。でもその先は?」
「そんなこと…、わかるわけないじゃないか。」
少年たる「僕」が僕の答えを聞いて哀しそうな表情を浮かべた。
窓に当てられた手がふと窓硝子をすれ抜けて、滴る赤い雫を受け止める。
その掌に乗った赤い雫を愛おしそうに、大事そうに眺める。
「僕にはね…、それを知る資格と、知る責任があるんだよ。
言い方を変えると覚悟かな?」
「僕」が僕に顔を向け、慈愛に満ちたような眼差しで見つめる。
「どうやら「僕の君」は今回も、何も望んでいないようだね。
まったく、悲しいな。
きっとね、覚悟が足りないんだと思うよ。
事実を受け止める覚悟が必要なんだよ。
これでもしかしたら終わりになるかもしれない、って思うと残念でならないよ。」
そう寂しそうに言い残すと、少年である「僕」が一歩、二歩と後ずさる。
「でもこれだけは忘れないで。
僕は「僕の君」の声が聞こえているよ。
ちゃんとね。」
その「僕」の言葉が終わるか終わらぬうちに、まるで巨大な両手で包み込むかのように書架がうごめき、僕と「僕」の間を遮断し、僕をこの白黒の世界から現実へと排除する。
白黒だった世界が一瞬の閃光の後に消え去る。
ウズウズの重みと体温と、そして血に濡れた感触が僕の両腕に返ってくる。
「ああああぁぁぁぁっ!
ぁぁぁぁぁああああああっっ!!」
叫びが現実世界の夜を切り裂く。
気温の低下からか、辺りに霧が出始めていた。ウズウズの体温が奪われないように、僕は必死に横たわるウズウズを抱きしめる。
僕の身体から「虚無」が滲み出る。じっとりと濡れたような感触が身体を包み込み始める。
その時、僕の瞳に映っていたものはなんだったのか。
ただ憎悪と絶望と、そして「喪失」という感情で山羊女を睨みつけていた。




