悲壮と狂喜そして代償と
ハーフコートの男がふわっと立ち上がり、ポケットに手を入れて土手から僕らを見下ろす。男が立ってみてわかったことだが、高身長、そして立ち姿と言えばいいのだろうか、その姿から男が一流アスリートのような、鍛え上げられた身体を持つことが見て取れる。
「知り合いなのか?」
「いや、そういうんじゃないけど。
元キックボクシング世界王者の兵跡だよ。」
「つ…強いのか?」
「立ち技格闘技最強、キック界の申し子、総合格闘技で無敗。知らないの?」
「あいにく格闘技はゲームぐらいでしかやらないからな。」
「闘ってみたい!」
僕との会話などは他所に、ニコナは兵跡とかいう男に興味が完全にロックオンしていた。兵跡を誘うかのようにニコナが身構える。
おいおい、ニコナちゃん。強いやつを見たら闘いたくなるとか、僕は全く「オラ、ワクワクしてきたぞ!」とはならないのだが!
オラ、ゾクゾク(悲壮)してきたぞ!
オラ、ニコナの将来が心配になってきたぞ!
「いいね、純然たる闘争本能。
ビューティフル。」
兵跡はポケットハンドのまま土手から跳躍すると、僕らから数メートルの距離まで一気に降りてきた。
やにわにニコナが飛び出し仕掛ける。
「おっとっと。」
ニコナが下段、上段とほぼ同時に二段蹴りを放ったが、兵跡は下段を脚で受け、上段を後方に仰け反り躱す。
ニコナは一旦、バックステップで下がったものの、すぐさま下がった脚で前方へ飛び、連続撃を叩き込む。
兵跡はポケットハンドのまま脚のみで受け、いなし、まるで捕まえることの出来ない蝶のようにヒラヒラと攻撃を躱した。
「ベースは中国拳法かな?
いや、根底に流れるのは空手か。
ふむ、どちらかというと琉球空手の薫りがする。
それにしても、」
兵跡はニコナの正中線への連続突きに対し、カウンターで切り裂くような蹴りを顔面に放つ。
しかしそれはブラフで、一瞬ニコナの視界を奪うと、サイドへと素早く身を翻した。
「よく鍛錬している。軸もぶれてない。
グレイト。」
兵跡がニコナの上腕を掴み、筋肉の締まりを確認する。そしてもう片方の手はニコナの腰に当てられていた。
なんてことをっ!
僕だってニコナのお尻を触ったことないのに! ぶつかったり乗られたりしたけれども! したけれどもそんなに大胆に触ったことはないのにっ!
そのしなやかな筋肉の曲線に指を這わせるようなことだってしたことがないのにぃっ!!
まるで僕がそうしたいかのようだけれども…
そうしたいとか、そうしたいわけじゃないとか、そういうことではない!
全くもって、許せんっ!!
「…ッ!」
ニコナが鉄山靠(肩と背中で打つ技)を寸頸で放ちつつ、身を回転させて離脱する。
兵跡はヒットして吹き飛んだかに見えたが、自ら飛んで回避していた。
「足りない筋力、ウエイトを内功とスピードでカバーしてるのは素晴らしいね。
ただ、多様な格闘技を学ぶのは良いとしても、一つを極めるに至ってないのはもったいないな。」
未だ兵跡はポケットハンドして佇み、ニコナへの分析を述べる。
「さっきみたいに本気は出さないのかな?」
「あんただって本気じゃないじゃん。」
「それはつまり、鬼になれば本気を出すということなのかな?」
兵跡から重く、のしかかるような鬼の気が発せられる。一旦外へと溢れ出した瘴気が、一つの意思を持つかのように兵跡の周りをゆっくりと周り、やがて纏わりつくように兵跡を覆った。
兵跡の頭部に水牛のような重厚な角が現れる。
僕はその重圧に押しつぶされ、息ができなくなった。そこには圧倒的な力の差があった。身動き一つすることすら許さぬ、歴然とした格差だった。
「後悔させてやる!」
ニコナが狂気に満ちた笑顔で言い放つ。
深く息を吸い、ゆっくりと唸るように息を吐く。魔獣モードが全開となり、具現化したかのようにはっきりとオーラが形取る。
そこにいるのはニコナではなかった。いや、僕の知っているニコナではなかった。
人間の形を取った、一匹の魔獣だった。
いや違う。僕は知っている。
これが本来の姿だ。
魔獣であるところの、「狂喜の魔犬」が本来の姿だ。
僕は酷く混乱する。
僕の知っているニコナと、僕の知らないニコナと、本来の姿のニコナと、ニコナではない本来の姿と。
いったい僕は、ニコナの何を知っているというのだろう。
ニコナの攻撃速度、一撃一撃の重たさが先程よりも上昇しているのがわかる。まるで削岩機のような激しい音が響く。兵跡は防戦一方だったが、変わることなく脚のみで捌ききる。
「素晴らしい。パーフェクト。
ただ、攻撃が素直過ぎるな。」
「じゃあ、こういうのはどう?」
ニコナの攻撃が直線的なものから円軌道なものに変わり、より立体的に、より複雑なものに変化する。
兵跡がポケットハンドをやめて、腕や肘でも捌き始めた。やがて防戦に費やされていた脚捌きも、徐々に攻撃へと転じ始める。
「そうじゃない。
君の動きに迷いがないのは賞賛しよう。
ただね、狡さがない。」
兵跡の蹴りがニコナにヒットし始める。
僕はニコナがまともに攻撃をくらうところを始めて見たような気がする。「野生の勘」というのだろうか。今までのニコナは、直感的に相手の攻撃を避け、受けることは稀だった。
「フェイントはただ攻撃の動きの変化だけではない。目の動き、筋肉の動き、あるいは意識の動きにも変化はつけられる。
例えば、」
ニコナの上段回し蹴りに対し、兵跡は避けると見せかけた動きから一気に間合いを詰め、ニコナの蹴り足を前腕で弾くと、至近距離からミドルキックを放つ。
「このようにね。オーケー?」
辛うじて顎にヒットしそうになるのを掌で受け切ったニコナだったが、態勢が崩れていたせいか、後方へと大きく吹き飛ぶ。
地面に激突する直前に両手から着地し、衝撃を吸収するように数回のバク転の後、ニコナは仕切り直すように身構えた。
「向こうもやられてしまったらしいな。」
ニコナとの距離が空き、互いの攻防が中座されると、兵跡は散歩の途中でもあるかのように平然とした態度のまま、対岸へと目をやる。
ミスミちゃん達も戦っていたのだろうか。対岸へと目をやってみたが、すでに争いの様子は伺えない。
「いくらデモンストレーションとはいえ、ここまで損失が大きいのもね。
残念だけどここで終わらせよう。」
兵跡が初めて構える。
開手(合気道などの手を開いた構え)?
キックボクシングは名前の通り、拳を握った構えではないのか?
「アアアアアアッッ!!」
ニコナが咆哮を上げながら、跳躍するように兵跡へと駆け出す。その咆哮にビリビリと空気そのものが振動する。
兵跡はニコナをギリギリまで引きつけてハイキックで迎撃する。
瞬間的に僕の脊髄を激しい悪寒が貫き、稲妻のように脳髄を走り抜けた。
『だめだ! ニコナ!』
そう叫ぶにはニコナと兵跡の間に流れる時間が刹那過ぎて、僕は声に出すことができない。
いや、あの瞬間に僕が二人の間に割って入ることなどできただろうか。
それほど濃厚で親密な空間がそこにはあった。
兵跡のハイキックに対してニコナは前転宙返りのように下方へと躱し、さらにはその勢い、回転のまま浴びせ蹴りを、かかと落としを兵跡の顔面へと打ち下ろす。
「素晴らしかったよ。
エクセレント。」
兵跡はかかと落としを左手で受け掴み、右手でニコナの肩を掴んだ。
「あっ…」
ニコナが短く、小さく声を漏らす。
ニコナの掴まれた踵から、そして肩から身体が氷結していく。
「ニコナーーーーーッ!!」
「にぃちゃん…」
その言葉を最後にパキパキと氷結が全身へと広がり、ニコナは完全に氷の中へと閉ざされた。
「ニコナ…ニコナ?」
僕は今起こったことに、今見ている光景に思考が追いつかず、ただ凍りついたニコナだけを見つめ、フラフラと歩み寄る。
兵跡がその手を離し、静かに僕の方へと体を向けた。
「桃太郎には手を出さないように上からは言われてはいるが、手を出す価値も無いな君は。
ディプローラブル。」
戸惑い、驚愕、拒絶。僕の中を何かが駆け巡る。
僕は話しかけてきた兵跡を見る。
喪失、無力、絶望。ゴッソリと僕の中の何かが失われていく。
「こちらがやられた分、それ相応の代償は頂くよ。桃太郎くん。」
兵跡が僕の方を向いたまま、凍ったニコナへとストレートパンチを打つ。
「パキャンッ」という短い音の後、ニコナという氷像が、重力に逆らえないかのように崩れ去り、粉々となって地に落下していく。
そこにキラキラと輝く、小さく無数の氷塊。その輝きは「生」だったものの輝きであり、そして否定を許さぬ、紛れも無い「死」だった。




