和梨を手に入れたイーカロス
比喩表現。
諸兄諸姉よ。親愛なる諸兄諸姉よ。敬愛なる諸兄諸姉は「比喩表現」は使う方だろうか、使わない方だろうか。僕は白か黒かで言えば黒、「使う方」だと思う。
厳密に言えば「比喩表現」ではないのかもしれない。
だが僕は、会話でよく「例えば……」という表現をすることが多い方ではないかと思う。それは上手く自分の心理的なモヤモヤの説明をしたいが為につい放ってしまうものなのだが、かえって相手にしてみれば混乱を招くことも多々ありだとは、一応は反省している。
だが何というか、ボキャブラリーの少ない僕は、この「上手く表現できない心のモヤモヤ」をどうにか表現したく、比喩表現等を多く用いている。
あぁわかっている、わかっているよ諸兄諸姉!
そういう理由で用いる「比喩表現」ならば、万人が理解できるものだからこそ、はじめて意味があるということは!
だが思いついてしまった「比喩表現」らしきものは、どうしたって僕の口から勝手に出ていくのだよ!
哀しいかな、たとえ相手が理解していなくともだ!!
さて、比喩表現の中でも「擬人法」についてはすでに述べたことがあろうことだから、ここでは「擬人法」の逆、つまり「人」を「物」などに喩える方について、思わず言いたい。
諸兄諸姉だって直接口には出さなくとも、異性を何かに喩えたことが一度や二度はあるに違いない。
例えば「花」であるならば薔薇や百合はさておき、石楠花だとか向日葵だとか、水芭蕉だとか紫陽花だとか紫沈丁花なんて想うこともあったことだろう。
それは美しさだとか可愛げだとか明るさだとかに留まらず、儚げだとか芯の強さだとか、積み重ねてきた苦労だとか悔しさだとかを異性に対して理解し表現するために「花にたとえるならば」ということであったのではないか。
そう、例えば果物で喩えるならばニコナは「すだち」だし、ウズウズは「マンゴー」だし、ミスミは……、なんだ、あれだ、「ライチ」だったりだ。たぶん、なんとなく、だ。
そこはまぁ、そこはかとなく、まぁいいだろう。
そういう意味で、そういう意味で「ライチ」だと思って咄嗟に出た電話から漂ってきたのは、想定外の「和梨」の香りだった。
「確かに僕は月明かりだけを頼りにスマホを磨いていたけれども、それは寝る前のちょっとした気分転換みたいなもので、0コールで電話に出てしまったのは、ただ単純に偶然の産物だよ、」
「ミスミちゃん。」と、続けて呼びかける前に相手が返答する。
「こんな時間にごめんね? 寝てたかな?」
スマホから流れ出るのは音声だけなはずなのに、それは香りとなって鼻腔をくすぐり、僕の脳髄を支配した。
品のある甘さ、芳醇さと爽やかさを両立させた繊細な香り。
口をつければきっと得られるであろう、軽やかな歯ざわりと、立ち昇る色香。
大和撫子の美麗と奥ゆかしさを体現した和梨の香りが僕を刺激する……。
「全然っ、これっぽっちも寝てません!
大丈夫! すこぶる冴えわたってます!
たまたま偶然、読んでいた小説の影響で変なことを口走ってしまっただけです!
ユイ先輩!」
「ふふ、どんな小説なの?」
軽やかな微笑の声が鼓膜をくすぐる。
「いやいやあれです、ネットの投稿小説ですから内容なんてないような。
有名作品ではないですし。」
「ネット小説って私は読んだことなぁ。
面白い? 今度教えて?」
「えぇえぇ、それはもちろん!
いやいやそれよりもどうしたんですか? 僕なんか忘れてましたっけ?
えーと、借り物だとか約束だとか。」
あくまで僕の個人的な心象に過ぎないのだろうが、ユイ先輩が0時を回るまで起きているようには思えず、つい何か火急の事態かと、僕は何か過ちを犯したのではなかろうかと、問いたずねてしまった。
「ん、最近サークルに顔を出していないでしょ? 会ってないなぁって。」
女子から「会ってないなぁ」って、「会いたいなぁ」って、「会えなくて寂しいなぁ」だなんて、萌えるセリフぢゃあないかね! 卒倒級ぢゃあないかね!!
ユイ先輩と最後に会ったのは夏祭りで先週のことだから、1週間程度の空白で「全然会ってないから私、サ・ビ・シ・イ・!」だなんて、なんて罪な女子ですかユイ先輩!!!
「って、副部長が言ってたわよ?」
おぅいぇい。
副部長、確かに副部長には大変お世話になりつつ、インスパイアされつつ、特段のご配慮、御心配おかけ致しまして有難く頂戴致しまするだ。だがそうじゃない、そうじゃないのでするよ!
「いやははは、ちょっとここのところ、立て続けにバイトのシフトを入れちゃいまして……。」
「そっか、忙しいんだね。」
その一言に僕の第六感アラートが鳴り響く。
ここで忙しさアピールをしてしまえば、せっかく手元に落ちてくるはずだった「豊潤な和梨」は二度と僕の元へはやってこない!
「いやいや逆に暇だったので、たまたまシフトを増やしただけっすよ!
全くもって暇で時間を持て余し気味ですよ! ははは!」
「ねぇ。
幌谷くんはヘミングウェイは好き?」
「……。
『我々はいつも恋人を持っている。彼女の名前はノスタルジーだ。』」
「ふふっ。」
電話の向こうから和梨の爽やかな香りを乗せ、ユイ先輩の優しい笑い声が微かに聞こえる。
彼女はどうしてこれほどまでに、僕の心に騒めきと安らぎを同時に与えるのだろう。
僕にはどうしたって届かない。ダイダロスの忠告を忘れ、ヘーリオスに羨望し、その天空へと身を投じるイーカロスの気分だ。身を焦がしてまで羨望してやまない人、それがユイ先輩だ。
この場合、ダイダロスは誰なのか。己自身の中にいるのだろうか。
まぁ、ヘーリオスは男神なわけだが。
『友情の基礎を作るには、まず女と恋をしなければならない。』
そうだ! 僕は僕の周りの仲間たちと「信頼の礎」を創るべく、まずは恋に夢中で盲目的飛行万歳だ!
『愛していない人間と、旅に出てはならない。』
そうだ! 僕はそうして「人生とういう旅路」をユイ先輩と歩むのだ!
愛の逃避行、現実逃避万歳三唱だ!!
「『書籍ほど信頼できる友はいない。』
私ね、一番最初に読んだ原書って、ヘミングウェイだったの。」
「そうだったんですね。
彼は世界的に著名な作品の他、多くの作品を残していますが、それ以上に人生の指針となるような名言を多く残しているように思います。
僕も彼の影響を受けたうちの一人かもしれません。」
「幌谷くんがヘミングウェイ好きで良かったぁ。
意外とね、うちのサークルって古い洋書のファンはいないんだぁ。
しようがないよね? だって本って思想の塊なんだもの。人それぞれの思想があるわけだしね。
読むのは副部長くらいかな? それも私が勧めたものだけだけど。」
「副部長の懐の深さというか広さというか、いつも驚かされますよ。
結構、副部長に良い本、面白かった本を教えてもらうんですよね。」
そこから先は、ヘミングウェイから外れてゴーイングマイウェイな副部長の話に移り、部長と副部長の関係には周りの方がやきもきするなどという恋愛話に発展し、そして他愛もない僕らのサークルの話をした。
時間的には10分ぐらいのものだろう。だけれど僕はその間、永遠にも似た安住の地、夢の世界の住人となっていたのだった。
だからか、終わりが来たことに気が付くのは電話を切ってしばらくしてからだった。
『じゃあ、明後日ね。』
明後日。
明後日というキーワードが何かと符合する気がしたが、僕は既に多幸感というまどろみに包まれ思考を手放していた。きっとイーカロスも、その身を焼き焦がしながらも僕と同じく「多幸感というまどろみに包まれ思考を手放していた」に違いない。
梨の花言葉は「愛情」。そして梨の木の言葉は「癒し」だ。




