淑女やめます
アマルディ伯爵家が爵位を返した。
そうして一つの貴族家が王国から名を消した。
言ってしまえばただそれだけの話である。
没落して貴族でいられなくなる家だってあれば、罪を犯しそれが明らかになって貴族どころか罪人として処罰された家だってある。
だからこそ、爵位を返した、というだけでは別にそこまで大きなニュースにもならない。
詳しい事情を知らない家などは、あの家そんなに資産がなかったのかしら、なんて思う程度だ。他に何か醜聞のようなものがあればもう少し噂話も盛り上がったかもしれないが、特にそういったものもなかった。
没落するという話はなかったようではあるが、爵位を返した事でアマルディ伯爵家が所有していた領地は王家が管理する事となり、領地で暮らす民の生活が悪くなるような事もなく。
結果としてアマルディ伯爵家の事など社交界の数多くの噂話に埋もれていったのである。
そうはいっても、その話題を埋もれたままにできない者もいる。
サミュエル王子とカイル辺境伯がまさにそうであった。
アマルディ伯爵家には二人の娘がいた。
姉のフェイリス。妹のポラリス。
将来婿を取り家を継ぐ予定である姉は次期当主として相応しい教育を受け育っていた。
妹は姉と比べると、自由にのびのび過ごしていた。
結果として、大人びた姉と天真爛漫な妹、という風に周囲では見ていたと思う。
だがしかし、成長するにつれ、フェイリスがポラリスを虐げている、という噂がちらほらとされるようになっていた。
フェイリスの言い分としては、自分は妹を虐げた事などない、というが、しかし周囲はその言葉をすんなりとは信じなかった。
実際姉に厳しい態度を向けられていたのを第三者が目撃しているし、姉を失望させてしまったと嘆く様子のポラリスを目にした事があるからだ。
ポラリスが泣いているのを見たことがある、という者もいた。
目撃者曰く、ポラリスが泣く前にはフェイリスと話をしており、彼女が立ち去った後でポラリスはこらえきれずに涙を流していた様子である、との事だ。
ハッキリとフェイリスがポラリスを虐げていたところを見たという者はいないが、しかし状況証拠を集めるとどうしてもフェイリスが何もしていない、とは言い切れないものであった。
サミュエルは自身の側近がポラリスに想いを寄せている事を知っていた。
淑女としては拙い部分もあるかもしれないポラリスだが、しかしその天真爛漫さに惹かれ、想いを育てている側近は、残念ながら家の跡取りではない。だからこそ婚約の申し込みをしたところで、ポラリスに苦労をかけてしまうかもしれない。未来が不安定なまま婚約を申し込んだところで、アマルディ家で愛されて育っているであろうポラリスの事だ。両親が苦労するとわかっている相手と結婚など許すはずがない。
そう考えて、せめてもう少し功績を出して生活の心配はない、と証明できるようにしてから……と彼は努力をしていた。
そんな様子をサミュエルは見ていたし、密かに応援してもいた。
今はまだ頼りなくとも、サミュエルが見込んだ男だ。ポラリスを間違いなく幸せにできるとサミュエルは信じていた。
カイル辺境伯はサミュエル王子と幼い頃より親交があり、そんなサミュエルから側近の一人がポラリスに恋をしているという話を聞いていた。微笑ましさ半分に聞いていたものの、しかしこのままでは側近がポラリスへ想いを伝える前に彼女はどこぞの家との縁を結ぶために嫁がされてしまうかもしれない。
アマルディ伯爵夫妻がフェイリスよりもポラリスを可愛がっているという話も聞いてはいた。
であれば、嫁に出すよりも手元に置いておきたい気持ちが少なからずあるのではないか。
フェイリスではなくポラリスを後継者としたい気持ちが、もしかしたらあるのではないか。
そんな風に考えを巡らせたカイルは、だからこそふとした思い付きでもって、サミュエルに進言したのだ。
妹を虐げる意地悪な姉を嫁がせて家から出ていくようにすれば、ポラリスが後継者となる。
それならば側近が婿入りする事に関してすんなりいくのではないか、と。
サミュエルの側近は言わずもがな優秀な男だ。
ただ、彼自身は長子ではないために家の跡継ぎにはなれない。身を立てて生きていけるように、と行動した結果サミュエルの側近にまで上り詰めた男だ。既に優良物件と言っても過言ではないのだが、しかし彼自身に付随する爵位はそう高いものではない。伯爵夫妻にポラリスとの婚約を打診したとして、あまりいい顔をされないだろうな、というのが想像できる。
だが、フェイリスがいなくなれば、ポラリスは急遽後継者として学ばなければならなくなる。側近でもある彼は、そういった事は得意なので婿入りすればポラリスの役に間違いなく立てるだろう。
だが、それではフェイリスはどうするのか、という話に戻る。
妹を虐めていた、というだけで家を追い出し打ち捨てるような真似は流石にできない。
であれば、彼女が望まれたからという理由で嫁がせてしまえばいい。
妹を虐めるような性格の悪い姉を引き取ってくれるような家が果たしてあるのか、とサミュエルは当然のように疑問を抱いた。
それに対してカイルはそれなら一時的にうちで預かればいい、なんて軽い口調で言ってのけたのである。
カイルも年齢的にそろそろ結婚しないといけない年頃なのだが、しかし彼自身は結婚をそこまで急いではいなかった。婚約という形で辺境伯領にフェイリスを向かわせて、物理的にポラリスから引き離し、数年後に理由をつけて婚約を解消し、フェイリスにはその時ある程度の資産を与えればいい。
そんな風に軽く言ってのけたカイルの言葉に、サミュエルはまるで名案だとばかりに賛成してしまったのだ。
この時はまだ、これが愚かな選択であるなどこれっぽっちも思ってはいなかった。
元々ほんのりとポラリスがフェイリスに虐げられているという噂はあった。
だからこそ、そこに更に信憑性を持たせるような話を広げれば、あっという間に噂は広まりフェイリスは妹を虐げる性格の悪い女であると、そういった印象がどんどん強くなっていった。
更にそこにサミュエルが手を回し、カイルとの婚約を伯爵家へ持ち掛けた。
フェイリスとポラリスの親でもある伯爵は、最初勿論渋った。
後継者として教育を受けてきたフェイリスがいなくなれば、当然次の後継者はポラリスである。
だがしかし、ポラリスには一切そういった教育を受けさせていないのだ。今からフェイリスが学んできたものを覚えなければならない、となるととても悠長にしていられる余裕はない。
難色を示した伯爵に、実は……とサミュエルは側近を売り込んだ。
彼ならば、ポラリスを支えこの家を盛り立ててくれるだろうと。
彼がいかに優秀であるかを語り、そんな彼が婿入りすればポラリスが苦労をする事もないのだと。
伯爵夫妻が溺愛しているポラリスが苦労する事もないままに、この家に居続ける方法。
サミュエルはそれをさも最善の方法であるかのように語って聞かせた。
アマルディ伯爵夫妻は最終的にサミュエルの言葉にすっかり乗り気になり、更には社交界でフェイリスの評判が悪いというのを聞きつけて、このままフェイリスを当主にすれば家に悪影響が出るのではないかと思い至った末に――
伯爵夫妻は、サミュエルの話に乗ってしまったのであった。
ここまでは、サミュエルの計画通りと言えた。
だが、ここまでだった。
辺境伯が望んでフェイリスを嫁にしたいという話を聞いたポラリスは、泣きそうになりながらも彼女の出立を見送った。
周囲は意地悪をしていた姉が出て行く事で、これで自分が虐げられる事もなくなって嬉しいのだろうと思っていた。人前であっても泣く事のあったポラリスが、これからはそのような憂いとは遠ざかり笑顔でいられる日々が続くのだと――ポラリスの両親はおろか、使用人たちでさえそう信じて疑っていなかった。
彼女が家を継ぐまでに覚えなければならない事は山とあるが、彼女の婿になる男がそれを支えるのだ。フェイリス程優秀でなくとも構わない。
大急ぎで詰め込むような教育でなくとも問題はないだろう――少なくともこの計画を立てたサミュエルも、カイルもそう信じて疑う事はなかった。
だがしかし、ポラリスはそんな周囲の余裕を持った想定をあっさりとぶち壊した。
成績が壊滅的だったのである。
フェイリスと比べるのもどうかと思うくらいに天と地ほどの差がありすぎて、教師もこれには頭を抱えた。
ポラリスは決して馬鹿ではない。
ないのだが、興味の無い事は本当にどれだけ努力してもこれっぽっちも覚えられなかった。
興味がある事であればどこまでも知識を吸収していけるのだが、しかし興味のないものに関してはどれだけ内容が易しかろうともちっとも記憶に残らないのである。貴族としての最低限の常識はある。だがそれだけでは家を継ぐには到底至るはずもない。
それでもどうにか根気強く教師たちもポラリスを一人前の当主になれるように、と教育に力を注いだものの。
それらはポラリスにとって興味を抱けないものでしかなかったために、ポラリスの我慢の限界が訪れてしまったのである。
「無理! もう無理ですわ!
どれだけ頑張って努力したってわたくしじゃお姉さまのようにはなれませんもの!
お姉さまを見初めた辺境伯がどうしてもというからお姉さまが嫁ぐ事になったといいますが、だからって次の当主にわたくしがなれと言われたって無理なものは無理!!
それならいっそ親戚から優秀な方を選んで据えた方がまだマシですわ!
それかお姉さまが産んだ子が成長するまでお父様が頑張ればいいじゃない!
とにかくわたくしはもう無理! 頑張れない!
もういや! いやったらイヤ!!」
キィィィィイ!!
と金切り声に近い叫びをあげて地団太を踏んで、ポラリスは思い切りシャウトしていた。
誰かが宥めようと近づこうとすれば「来ないでくださいまし!」と叫んで威嚇し、じりじりと距離を取る。
捕まったらそのまま椅子に縛り付けられてしまうとでも思っているかのような反応だった。
一年。
これでもポラリスは一年は頑張って学んだのだ。
だがしかし、元々幼い頃から次の当主は姉フェイリスだと言われ、自分は姉のようにガチガチなスケジュールを組まれ勉強漬けの生活を送る必要もないままに育てられてきた。
最低限、淑女として問題のない範囲さえこなせば周囲は勝手に蝶よ花よとポラリスを褒め称えてくれていた。
そうしていつか、どこかの家にお嫁さんとして行く事になるのだろうなぁ、と思っていたのに。
今更当主になれと言われても困るのだ。
ただ、辺境伯がどうしてもと姉を望んだというから。
だから。
だから、寂しくなると思いながらも、頑張ろうとは思った。
だがしかし、やはり無理な話だったのだ。
もっと幼い頃から学んでいたら、心構えとかそういうものも備わっていたのなら。
辛くてもやるしかない、と思って頑張ったとは思う。
だがこんな突然、横やりを入れられたも同然な展開で、頑張るぞ! なんて思えるわけがなかった。
それでも頑張ろうとは思ったけれど、その決意は持続しなかったのだ。
むしろ時間が経つにつれ、あの辺境伯が余計な事を言うから今自分がこんな目に遭っている……! おのれ辺境伯野郎今すぐ禿げろ。
そんな風に恨みの念を送る始末だ。
なんだったら毎秒足の小指を机の角にぶつけ続けろとまで思っている。粉砕骨折してしまえ。それくらいの勢いですらあった。
そんな怒りを発散させようとしたのか、ポラリスは扇子をぶんぶん振っている。
一見すると適当に振り回しているようにも見えるが、しかし軌道は正確であった。シュッと風を切る音がする。
「落ち着けポラリス。その、なんだ。
実はサミュエル殿下から婚約の話を持ち掛けられていてな。
侯爵家の三男なんだが、殿下の側近を勤めているハウエル・バミュリズ。彼はかなり優秀らしくてな。彼ならお前を支えてくれると思うのだが」
「はぁ!? 支える!? ふざけてらっしゃる!?」
「な、なんだ……!?」
宥めるように告げた父親に対してポラリスはさらに怒りをヒートアップさせた。ボルテージの上がり方が急すぎて父は生憎そのスピードについてこれなかった。コーナーで振り落とされている。
「わたくしは当主なんかになりたくなかった! だというのに、そこにきて当主としての仕事全部まとめてやってくれるとかならいざ知らず、支える!? 優秀だというのなら、当主の仕事まるっと肩代わりするからくらいの意気込みが欲しいものですわ!
支える、がどれほどのものか存じませんけど、ちょっと手を出しただけでドヤ顔されたらわたくしうっかり相手の顔面に椅子を叩きつけてしまうかもしれないわ。
それだったら夫としてではなく普通に優秀な人材を雇った方が万倍マシ」
宥めようとした父を威嚇するかのように手足を繰り出すポラリスに、父は残念ながら近づく事ができなかった。
でたらめに動かしているように見えるが、しかしポラリスの繰り出す一撃は下手に近づけば急所に命中するであろう勢い。
危険を感じてしまって及び腰になりながら何かを言おうとしたものの。
「はっ、所詮は三男坊。家の跡継ぎになれる道が限りなく薄い甘ちゃんの発想ですわね。
代行の立場であろうとも、そこで当主としての仕事を全て覚えてきみの代わりにこなしてみせるよ、くらい言えない男など論外ですわ。
殿下からの推薦であろうとも、お断りしてくださいませお父様。王命で無いのだから問題ありませんよね?」
ね? と疑問形のようではあるが、ポラリスは完全に決定のつもりである。
大体そのハウエル? 侯爵家の生まれであるというのなら、確かに育ちは良いのかもしれない。殿下の側近をしているというのなら、まぁ優秀なのも当然なのだろう。
だが、何故そのような男がうちと縁を繋ぎたがるのか。
実のところ、ポラリスとハウエルの接点はほとんどない。
ハウエルはとある家の催しに参加してそこでポラリスと出会い惚れたのだが、しかしポラリスにその記憶はなかった。つまりは、その程度の相手でしかないのだ。
どっかで会った気はしないでもないけれど……というくらいの薄い記憶。
せめてもう少し親しい間柄であったなら話はまた違ったのだが、しかし成人前の小娘と、殿下の側近として既に働いている青年、年の差はそこまで開いていないとはいえ、しかしポラリスにとってはあまりにも突発的な話でしかなかった。
ポラリスは自分が当主として見るのであれば至らないとハッキリ理解できている。
そんな相手の家に婿入りしたい、と言われて真っ先に考えたのが、お家乗っ取りだ。
フェイリス相手なら難しくとも、ポラリス相手なら簡単に御せるとでも思ったのかもしれない。
そこそこの身分、そこそこの家。アマルディ伯爵家はこの国の貴族の中ではまぁそういった……その他大勢に分類されるものだ。王家がなくなれば困るかもしれないが、少なくともアマルディ伯爵家がなくなっても多分そこまで困らない。まぁ、もしかしたらちょっとくらい誰かしら困るかもしれないが、しかし世界が滅ぶくらいの困り方はしないだろうとポラリスは思っている。
まぁ、当主としての仕事を肩代わりしてくれてちゃんとした仕事をしてくれるのなら、別に愛人の一人や二人、領地を盛り立てて使える資産を増やしてくれるのなら、もっと愛人を増やしたって構わないし、生まれた子に真っ当な教育を施してくれて将来家や領地のために役立ってくれるのであれば、養子として迎えたって構わない、とポラリスは思っている。
姉が当主にならないのであれば、アマルディ家の血筋を自分が繋げなければと思う程ポラリスは確固たる決意を持っていない。世の中大体適材適所、やりたいという人の中から適任がいるならその人に任せればいいのである。
だからまぁ、家の跡継ぎになれないから、他家に婿入りしてそちらに根を下ろそう、と考えていたとしても、ポラリスはそれはそれで構わない、と思ってはいるのだ。
だがしかし、先程の父の言葉を思い返すのであれば、そのハウエル某はポラリスを支える、つまりは補佐としてと言っているらしい。支える、というが、それはどこまで、どれくらい支えてくれるつもりなのか。
婿入りしたからと言って殿下の側近を辞めて……とはならないだろうとポラリスは思っているし、であれば支える、のそれは業務全体の三割くらいが関の山ではなかろうか。
現状ポラリスは当主としての役割を七割でいいからこなせと言われても無理だと断言できる。
であれば、その程度の支えならいらない。
五割支えて三割は人を雇うから、残りの二割をどうにか頑張ってくれ、とか言われたらまぁポラリスもちょっとは考えたかもしれないが、そういう雰囲気でもなさそうだし、であればわざわざ夫としてはいらないなとしか思わないわけで。
侯爵家の三男で跡継ぎではないが、殿下の側近。肩書としてはまぁそこそこだが、伯爵家に婿入りして身分的な部分に箔をつけたいとかそんなところだろう。
ハウエルがポラリスに惚れている事など知らないので、ポラリスはそう結論付けた。
一般的な貴族家の娘であったならこうもハッキリお断りはしないだろうけれど、しかし今まで散々甘やかされて育ってきたポラリスは、嫌なものはイヤとハッキリ言える娘であった。
これに対して焦ったのはサミュエルである。
まさかこの縁談を断られるとは思っていなかったのだ。
迅速に、それでいて正式な訪問となれば拗れた時が困るので、あくまでもお忍びという形でもってアマルディ家へ向かい、ここでサミュエルはポラリスとマトモに話をするに至ったのである。
姉がいなくなった後すぐに婚約の話を持ち出すのは流石に作為的なものを感じるだろうと思ってサミュエルはアマルディ伯爵に話を内密に通していた。ある程度教育が落ち着いた頃に婚約の話をする予定だった。
ところがポラリスの教育は難航し、更にはポラリス本人が「否」を突き付けている。
サミュエルはそれとなく、ポラリスが当主となるのであれば、彼女の支えとして夫となれるよう話を持ち掛けてみる、とハウエルに伝えていた。
ハウエルもまたそれを励みにより一層活躍しているのだが、しかしポラリスに断られました、なんて伝えたら今までの反動で廃人になってしまうかもしれない。絶望の後の希望はそれがどれだけ淡かろうとも輝かしく感じられるが、しかし希望の後の絶望は世界の終わりレベルの絶望と言っても過言ではない。
なんとか婚約の話を前向きに検討してもらわねばならなかった。
前向きに検討とか考えてる時点でサミュエルは気付いていない。
その時点で既にどうしようもないという事を。
「――お話はわかりました、殿下。
ですがまず前提が違います。わたくしは、決してお姉さまに意地悪をされてはいません」
姉に虐げられていた可哀そうな妹。
姉がいなくなったので、今は多少当主としての学びが辛くあったとしても、それでも未来は幸せに満ちているのだと、サミュエルはポラリスの気持ちを少しでも前向きにしようとあれこれ言葉を尽くした。
だがしかし、ポラリスはそんなサミュエルの言葉をばっさりと切り捨てた。
「確かにわたくし、恥ずかしくも人前で泣いた事がございます。
姉に厳しくあたられた事もあります。
ですが、それはわたくしが至らぬからこそ。不当に虐げられた事は一度もありません。
周囲はそれでも、それを面白がって噂していたようですが」
噂は所詮噂、とばかりに言い切られてサミュエルは額に汗がにじむのを感じていた。
ポラリスの言い分としては、単純なものだ。
今のポラリスは貴族家の娘として見るのなら、まぁそこそこである。
次期後継者としてはダメダメでしかないが、貴族令嬢という点ならそれなりなのだ。
次期当主としてどこに出しても恥ずかしくないように教育された姉、フェイリスと比べれば全然ダメダメなのだが、比べなければまぁ大体こんなもん、と言われるレベルであると言える。
ポラリスとしては人前に出た時に恥をかかなきゃそれでいい、くらいに思っていたものの、やはり姉と共に行動する時はどうしたって見劣りする。
洗練された所作、最高のお手本。そんな相手が近くにいるのだ。
自分もせめて、少しでも姉に近づきたい。
そう思って、どうにか少しでも真似て、姉に「まぁ、いいんじゃない?」なんて素っ気なく言われつつも褒められたい。
姉の前で素敵な淑女であるというのを見せて、認めてもらいたい。
だがしかし、そうして意気込んでいざ実行してみれば、結果は酷い有様なのである。
姉にいいところを見せようとすればするほど空回るのだ。
おかしい。こんなはずでは……!
練習した時は上手くいったのに……!!
そんな風に思っても失敗した事実は消せない。
一度の失敗でへこたれても仕方がない。次は。次こそは。
そんな風に努力を重ねて。
だがしかし、姉の前ではどうしても余計な力が入るのか失敗して、普段以上の失態を晒す羽目になる。
そのせいで、姉からは厳しい指導が入ったのだ。
悔しい!
もっとちゃんとできるはずなのに!
どうして。なんでできないの!
お姉さまの前でみっともない姿なんてさらしたくないのに!!
そんな気持ちが膨れ上がって、そうなってしまうと駄目だった。
人前であろうとも、あまりの悔しさに涙が込み上げてくるのだ。
人前で泣けば余計に惨めだし、みっともないだけなのに。
姉の指導を受け止めて、次に繋げたい。そう思っても、どうしても姉を前にすると緊張してふわふわした気持ちも混じって、あっ、と思った時には失敗している。
頭でわかっていても、これを何度も繰り返してしまう。姉がいないところでは、まぁそれなりにできるのに。
姉が自分に厳しくするのは、決して嫌っているからではない。
姉に甘やかされたらそのままずるずると沼に沈むが如く楽な方に流れてしまうからだ。
だからこそ、ポラリスは最初に姉に頼み込んだのだ。決して甘やかさないでほしいと。
既に両親が甘やかしているからこそ、姉にまで甘やかされたら自分は本当の意味でダメになる。
それを理解していたからこそ、ポラリスは姉に縋りつく勢いで頼み込んで――
結果、それは周囲でポラリスが虐げられている、なんて噂になってしまったのであった。
一応ポラリスはそれらの噂を否定している。
自分は決して姉に意地悪などされていないと。
だがしかし、周囲がそれを信じないのだ。何故か。
こういうのはムキになって否定すればするほど、何故か信じてもらえなくなる。
であれば、もう話題に出さないで風化するのを待つしかない。社交界の噂話なんてそれこそ日々大量に湧き出てくるものなのだから、時間がかかってもいずれポラリスが虐げられているなんていう荒唐無稽な話は消えてくれるはず……だった。
そんなポラリスの話を聞いて、サミュエルは察してしまった。
嘘ではない、と。
ポラリスが姉のフェイリスの事を語る時のその目は、さながら自分の母が憧れのスタァを語る時のような瞳であった。
「それより殿下、本当にお姉さまは辺境伯に望まれておりますの?
もしそうでもない、というのならいっそお姉さまを帰して下さいませ。やはり何をどう考えても、わたくしがこの家を継ぐなどとてもとても……」
瞳から熱量が消えて、すんっとしたものに変わった直後に言われた言葉にサミュエルはあやうく動揺を露骨に出すところであった。
姉、フェイリスが辺境伯の元へ行って既に一年。
だがしかし、未だに二人は婚約者という関係で結婚に至ってはいない。
――結婚するはずがないのだ。
サミュエルがハウエルの想いを成就させたいと願った事からカイルは手を貸してくれることとなったけれど。
彼自身は別にフェイリスと本当に結婚したいわけではなかった。ただ、まだ結婚を考える時期ではないと思っていたものの周囲がうるさいからこそ、適当に先延ばしするために、ポラリスを当主とするために彼女を家から引き離すべく、婚約者として望んだだけに過ぎない。
ポラリスとハウエルが結ばれれば、フェイリスとの婚約には適当な理由をつけて解消するはずだった。
辺境領という慣れない場所、フェイリスが慣れるまでなんて言葉と、結婚式の準備をするための時間を、という理由とで先延ばしにしているもののそれらは全てただの時間稼ぎである。
とはいえ、その時間稼ぎだって無限にできるものではない。
ポラリスが家を継ぐ事ができるまで。
思い切り限界まで見積もったとしても、三年が限界だろう――と思っていたがしかしポラリスは一年でギブアップし、更にはハウエルと結婚する意思などこれっぽっちもない。
サミュエルがハウエルの素晴らしさを語って聞かせても、最初から興味のない相手でしかないポラリスにとっては「へぇほぅふぅん? だからなんですの?」といった態度である。
何故ならポラリスには比べるべき相手がいるので。
ポラリスの支えとなって~なんて語られたところで、そもそも最初からそんな事をしなくとも、本来当主となるべきだったフェイリスを当主にすれば支えも必要ないのだ。
それを無視してお勧めされても、だったら最低限ポラリスが尊敬し愛してやまないお姉さまと同じだけのスペックを持った相手じゃなければ話にならない。フェイリス以上に優秀である、とかであったなら、ポラリスももうちょっと話を聞く姿勢になれたかもしれないが、そうではないのだ。
ポラリスにとってサミュエルの持ち込んできた婚約者候補の話は、ちっとも魅力を感じなかった。
家にとってはもしかしたら利があるのかもしれないが、ポラリス個人にとっては一切何の利も感じられないのだ。何故なりたくもない当主に突如なる事になった挙句、個人的に魅力を一切感じられない相手を婿にしなければならないのか。
確かにポラリスは今まで甘やかされて育ってきた。
だが、その結果として今後の人生全てを犠牲にするような、そんな悪い事を果たしてポラリスがしただろうか?
家を傾かせるような贅沢はしていない。両親が甘やかしたのは、両親の意思であって自分はそれを甘んじて受け入れていただけだ。
ポラリスも貴族令嬢であるので、勿論家のために結婚をする、という未来は見据えていた。見据えていたが、両親の事だからそこまで酷い相手を見繕ってはこないだろうと思っていた。
ハウエル本人は酷い相手ではないのかもしれない。
だが望まぬ当主の立場。更にのしかかる重圧。まだまだ終わりの見えない学習。
自分の事で一杯一杯になってしまったところで、更に望んでもいない婿。
ポラリスがぼんやりと思い描いていた結婚相手は、自分を溺愛せずともそれなりの対応をしてくれる、そこまで多くを望まない相手だった。ポラリスが相手に望む事は多くないし、同じように相手もポラリスに高度な何かを期待しなければそれでいいと思っていた。どこにでもある貴族の政略結婚。自分が思い描く範疇であるのなら、別に見た目が悪かろうとも性格に難があろうともポラリスにとってはどうでも良かったのに。
ハウエルが優良物件であったとしても、しかしそれに付随する様々なものが邪魔すぎるのだ。
他者が見れば羨むものかもしれなくとも、ポラリスにとってはガラクタでしかない。
それをさも素晴らしいものとして勧められても、ポラリスからすれば詐欺みたいにしか思えないのだ。
それに――
「ねぇ殿下、わたくしだって噂を耳にしていないわけではございませんの。
辺境伯はお姉さまを結婚相手に、と望んだはずですが、ではだったらどうして。
どうして、それ以外の女性との恋の話が噂で流れてくるのでしょう?」
ヒュッ、と。
サミュエルの喉が音をたてた。
ポラリスが当主になるつもりがこれっぽっちもないとはいえ、それでも三年引き延ばせば。あと二年の間でなんとかなれば。
カイルは適当な理由を作ってフェイリスとの婚約を解消する予定でいた。
そうなれば、結婚相手もいない、当主の座からも追いやられたフェイリスの未来が大変な事になるとわかっていても、しかし妹を虐げるような性悪であればそれくらい当然だとすら思っていた。
だが実際フェイリスはポラリスを虐げてなどいないし、であれば彼女の人生を弄んだだけという結果が残る。
相応の慰謝料を支払って今後の生活を保障したところで、だから許されるというものではない。
他者の人生を軽率に弄んだのだと、暗にポラリスに突き付けられた事で。
サミュエルは今更のように自分が何をしでかしたのかを自覚したのだ。
カイルは結婚なんてまだ先の話だと言っていた。
けれども周囲はそうは思わず、実に様々な家からうちの娘はどうですか? なんて話を持ち掛けられていた。それにうんざりしていたからこそ、彼は仮初の相手としてフェイリスを据えた。
サミュエルとの作戦で、長く見積もっても三年が限界とわかっていたので、その三年の間でちゃんとした結婚相手を探そうと目論んでいた。
そして彼は。
辺境伯領へやってきたフェイリスを――決して冷遇した覚えはないが、しかし元々興味のない相手。
当たり障りのない対応をして、部屋を与えたその後は好きに過ごさせていた。
つまりは、交流をしたりはしなかったのだ。
そしてその直後、なんとカイルは運命の相手と出会ってしまった。
婚約者として望み連れてきた、という名目のフェイリスとの婚約はいずれ解消するつもりとはいえ、だがしかし流石に一月後に解消するとなれば問題しかない。一月程度なら実家に帰れば、やはりフェイリスを後継者に、となる可能性だってあるのだ。サミュエルたちがそれとなく流したフェイリスの悪評があったとしても。
そうなればポラリスはどこかの家に嫁ぐ事になるだろうし、その場合ハウエルが名乗りを上げても結ばれる可能性はとても低い状態でしかない。
サミュエルの側近として一応爵位も持ってはいるけれど、だがしかし実家の侯爵家程ではないし、サミュエルの側近をしていて王族から目をかけられる事があるといっても、王家と縁付くと言える程の名誉はない。ハウエル個人の資産はまだそこまででもないし、そんな状態でポラリスを娶りたいなどと言ったところでアマルディ伯爵が頷くとはとてもじゃないが思えなかった。
だからこそ、もう少し時間が必要だったのだ。
ポラリスがアマルディ伯爵家を継ぐ事ができる頃には、きっとサミュエルの思惑通りにハウエルとポラリスは結ばれているはず――という夢想はそもそもポラリスがぶった切っているのだが。
ともあれ、まだポラリスにハウエルとの話を持ち出す前の状態で、早々にカイルとフェイリスとの婚約を解消するわけにはいかなかった。
だがカイルも折角出会った運命の相手を逃したくはなかった。
カイルが出会った運命は、冒険者だった。
フェイリスが辺境伯領にやって来てから半月後にどこかからやってきた女冒険者。多彩な魔法を使いこなし、いくつもの依頼を颯爽と解決していくその姿に。
カイルはまるで女神を見たとばかりに目を奪われたのである。
そこから半月後、つまりフェイリスが辺境伯領にやって来てから一月後には、カイルがすっかりその女冒険者に夢中であるという事は領内では噂になりまくっていた。
婚約者にと望んだ相手とは別の女性に現を抜かしているという点でカイルの評判も落ちつつあったが、しかしカイルにとっては些事だった。
平民たちの間に流れる貴族の悪評などにいちいち心を痛めるなど時間の無駄。そういうものが平民たちの間で娯楽と化している事も理解しているからこそ、カイルは自らの悪評に関してはそこまで気にしていなかった。
気にしていたのは、彼が心を奪われた女性の反応くらいだ。とはいっても、自分の悪評がバレたところで、それを覆すべく努力するつもりもあった。むしろ最初にちょっと悪い噂が聞こえてから実はそうでもないな、と思わせた方が印象としては良くなるという考えで、カイルはその噂すら利用している状態だった。
女冒険者――名を、エリスと言う――はカイルに対してのらりくらりとした態度であったため、二人が両思いである、とまでは噂でも流れなかったがしかしカイルがエリスに夢中であるというのは、エリスを熱心に口説くカイルを見た者からすれば一目瞭然である。
「婚約者がいるんでしょう?」
エリスがそんな風にカイルに言えば、カイルは一瞬思いもよらなかった事を言われたかのような反応をして、
「実のところ、あの婚約は自分の意思ではない。頼まれたからしただけに過ぎない。
きみが私の想いに応えてくれるのなら、婚約などなんとでも言って解消するさ」
そんな風に言ったのである。
だがエリスはカイルの想いに応える様子はなかった。
ひたすらに単独で仕事をこなし、依頼を片付ける日々。
一向に振り向いてくれる様子のないエリスに、カイルはますますのめり込んだ。
エリスは冒険者だ。いつ、ふらりと他の土地へ行ってしまってもおかしくはない。
彼女を追って自分も行く事ができればいいが、しかしそういうわけにもいかない。
だからこそ、カイルは自らの立場を利用して、冒険者ギルドにエリス宛の依頼を出して彼女が留まるように必死だったのである。
「ねぇ殿下? 辺境伯はお姉さまとの婚約を自らの意思ではない、と言っているようですし、でしたら別にお姉さまが辺境伯と結婚する必要はどこにもないでしょう?
お姉さまが帰ってくればわたくしが後継者としての教育を受けなくとも済みますし、当初の予定通りお姉さまが家を継げば我が家は何の問題もないのです。
最初にお姉さまを望んだ時はまるで自らの意思であるかのような言い分でしたが……どちらが本当の事かはもうどうでもいいの。
辺境伯がお姉さまではない他の人に愛を捧げているという噂はきっと本当の事でしょうし、我が家と辺境伯が繋がったところで家としても政治的にもそこまでの旨味はない。
お姉さまとの婚約を解消すれば辺境伯も憂いは絶たれ堂々と想い人に想いを伝える事ができますし、我が家も元通り。
それがきっと、一番良い事だと思うのです」
サミュエルはカイルが運命の相手と出会った、という話を一応耳にしてはいた。
だが、ポラリスとハウエルが結ばれるための時間稼ぎを手伝うと申し出た以上、すぐにフェイリスを帰すわけにもいかない。
想い人がいつ辺境伯領から立ち去ってしまうかもわからない状態で、それでもサミュエルのためにと手を貸してくれていたのだ。
サミュエルが自身の頼りになる側近に幸せになってもらいたい、という願い。
むしろ我侭としか言いようのないそれを叶えるために、カイルだって一肌脱いでくれたのだ。
フェイリスがアマルディ伯爵家を出る事になれば。
そうすれば、後はなんだかんだで上手くいくと思い込んでいた。
だが実際はどうだ。
サミュエルの思惑とは異なりポラリスはハウエルの事などなんとも思っていないようだし、ハウエルとの婚姻に対しても何の利も感じ取れていない。サミュエルがハウエルの良い部分を語ってもポラリスの瞳には興味の一欠けらすら浮かんでいなかった。
サミュエルはまだ王子という立場であるので、王命というものを使うわけにもいかない。
父に頼んでポラリスとハウエルが結ばれるように……としたところで、父がその願いを叶えてくれるかは微妙なところだ。ハウエルはあくまでもサミュエルの側近であって王の近衛ではないのだから。
そして、明確に誰が見てもハッキリとした功績をハウエルは出してはいない。褒美として望んだ相手との婚姻を……とするにも無理しかなかった。
サミュエルが即位して王となっていたのなら、なんだかんだ理由をつけての王命も可能になったかもしれないが、現状でその手段は使えない。
「……そう、だね。辺境伯と話はしておく」
結果としてサミュエルが言えたのはこれだけだった。
どう考えたところでポラリスとハウエルが結ばれそうな雰囲気はない。無理にごり押ししたところで、ポラリスの機嫌を損ねるだけで、そうなれば無理に結婚させたとして、この家でハウエルの立場はきっとロクな事にはならない。ポラリスへの愛だけで耐えるにしても、サミュエルとて別にそこまでして……と思ってしまうし何よりサミュエルはハウエルにそういう――結婚後の生活を冷めたものにしてほしいわけではなかったのだ。
思いを寄せた相手と幸せになれれば、そうなってくれることを望んだだけ。
だが、その『だけ』は叶いそうにない。
結局のところ、サミュエルがした事は他人の人生に横やりを入れて振り回しただけだった。
それでも、まだ望みがないわけではなかった。
このままではカイルとフェイリスとの婚約を解消してフェイリスが実家に戻る形となるのは避けられないが、しかしフェイリスがほんの少しでもカイルに好意を持っていたのであれば。
そう考えて、しかしサミュエルは頭を振った。
無理だ。
いずれ解消する予定だったからこそ、カイルはフェイリスと交流をする事は極力避けていた。
手紙で報告されていたし、更にその後カイルは運命の出会いをしている。
フェイリスがカイルに縋ってまでこの婚約を継続させようとは、とてもじゃないが思えなかった。
わかりきっていながらも、それでも少しでも事態を先延ばしにすれば、もしかしたら何か事態が好転するような出来事や発想が浮かぶのではないか、と思っていた。
アマルディ伯爵家を後にして、サミュエルは次に辺境伯領へと向かう事にした。
カイルと今後の事について話をするためだ。
いっそのことハウエルの事をフェイリスにも話して協力してもらえないか、とも。
いかにそれが都合の良い考えであるかを無意識に追いやりながらも、それでもそんな風に考えてしまった。
ところが、いざカイルの屋敷へたどり着けば、そこにフェイリスはいなかったのである。
一体どういう事なのか――
気まずそうな顔をしているカイルに、サミュエルはまず事情を聞く事にした。
婚約を、といっても元々カイルが望んだわけでもなく、単なる時間稼ぎとしてのもの。
だからこそ、カイルはフェイリスがここに辿り着いた時に、全てではないがある程度の事情を明かしたのだと、サミュエルに説明した。
自分が望んだといって婚約を申し込んだけれど実際は違う事、いずれこの婚約は解消に至る可能性がある事。
この婚約はポラリスを不憫に思った存在が、彼女の不遇さを解消するために物理的にフェイリスを引き離すために結ばれたものである事。彼女の立場が盤石になればフェイリスは解放される事など――
フェイリスにとっては理不尽極まりない内容であった事だろう。
実際ポラリスを虐げた事がない、などといってもそれを信じてくれる者が果たしているかも謎である。
実際に虐げられてなどいない、と言えるのはポラリスだけで、虐げていないとフェイリスが言っても周囲はそうは見ないのだから。
更にはサミュエルとカイルはそれらの噂を利用し更なる噂を流した上でこうしているのだから、フェイリスの言葉など最初から存在していないも同然であった。
妹を虐げるのであれば、いずれ彼女が家を継いだところで領民たちすら妹と同じように軽んじる可能性があるかもしれない。
そういう風に思ったのもあるのかもしれない。だからこそ、彼女をこうして家から遠ざけた。
カイルにとって真実はどうでもよかった。カイルにとってはサミュエルの望みを叶えるためだけのものであったが故に。
屋敷の離れに押し込めるような事はしなかった。客室に案内し、そうしてしばらくの間そこで過ごすようにと伝えた。
それ以降、カイルはフェイリスとロクに関わっていない。使用人たちには客として扱うように指示を出して、それきりだ。
だから、と言ってしまえばそれは言い訳でしかないが、気付けなかった。
フェイリスがその状況でどういう扱いになるかなんて。
更には、彼女が屋敷を出て行方知れずになっている事なんて。
姉を返せというポラリスの言葉を叶えるにしても、肝心のフェイリスはいない。どこに行ったかもわからない。
その事実をポラリスに言えば、間違いなく騒ぎになる事は明白で。
これは王家がアマルディ伯爵家を潰そうとした策略だ! などと言われても完全に否定できないものであった。
使用人たちはフェイリスの噂の真偽などどうでもよかった。
ただ、性悪な女性が仮初の婚約者として辺境伯のもとに滞在している。その事実だけで充分だった。
実際カイルは彼女と関わるつもりはほとんどないようだし、であれば相応の対応というものは――
あからさまな冷遇はしなかったといえ、それでも真っ当な対応であったか、と問われると間違いなく否。
客に出すには粗末すぎる食事であったりだとか、身の回りの世話をするための者を寄こす事もないままだとか。
婚約者に対する対応でないだけではなく、客人に対してのものですらない。完全に厄介者に対する態度だった。
客に出すには粗末すぎる食事を、フェイリスが手を付けた様子はなかった。
それもまた、使用人たちからすれば我侭である、と捉えたらしい。
むしろ、いつまでそんな態度で居られるか見ものだとすら思って毎回同じように質素な食事を出し続けた。
室内に足を踏み入れたりはしていない。部屋の前に食事をのせたトレーとワゴンを置いて、ドアをノックし合図する。部屋の鍵はかけていなかったとはいえ、フェイリスが勝手に屋敷の中をうろつくような事があれば、何らかの理由をつけて室内に閉じ込めるつもりであったが、フェイリスは最初に案内された日から今まで一度も部屋の外に出た様子はなかった。
だがそれでも。
それでも、いつの間にか彼女は姿を消していたのである。
カイルは使用人たちが一応それなりな応対をしていると思っていた。
それどころか、出会った運命の相手に夢中になってフェイリスの存在などほとんど忘れていた。完全に忘れていないのは、サミュエルに頼まれたというのもあるが、エリスに婚約者がいると聞きましたが? なんて言われたからだ。できる事ならさっさと関係を解消して改めてエリスにこれでなんの枷もないと告白したいくらいであった。
ほぼ一年、カイルはフェイリスの様子を自ら窺う事もなく放置していたのである。
だがそこでポラリスが、それならお姉さまを帰せと言い出した事で。
ハウエルと結ばれるつもりがポラリスにはこれっぽっちもないとサミュエルに告げた事で。
今更のようにカイルはフェイリスに直接この関係を解消する事となった、と伝えるはずだったのだ。
ところがいざ彼女の部屋を訪れても、彼女の姿はそこにはない。
一体いつからいなくなっていたのかと使用人に問うても、明確な答えは誰も返してこなかった。
使用人たちも、食事に手を付けなかった事で最初こそいつまでそんな態度でい続けられるか見ものだと思っていたが、ここに来た初日から一度も彼女は食事に手を付けていなかった。
だからこそ、もしかして中で死んでるんじゃないだろうか……なんて思ったのだ。
流石に室内で死なれていたら、後が大変だ。
それもあって使用人は一度、部屋の中を確認するために部屋の中に入ったのだが。
「ここの使用人は勝手に室内に入るのですか?」
鋭い叱咤。当然と言えば当然だろうと思うのだが、しかしその時の使用人はその失態を認められなかった。
「だんまりですか。もしかして、私の荷物を盗みにきたのですか?
中央で言われているようにやはり辺境の人間は蛮族ばかり、という事かしら?」
あからさまに侮辱され、中を確認するために入った使用人はカッとなって無礼な! と叫んだものの、逆に無礼はどちらだと冷静に返されて部屋から追い出されたのである。
挙句の果てに、内側から鍵がかけられる音がして、それ以来客室は完全に閉じられたままだった。
あまりにも反応がなさすぎたから生死を確認するためだったのに、盗人扱いされた使用人は頭に血が上った状態で、いかにあの女が性悪であるか、自分は悪くないと言ったような話を同じ使用人仲間に吹聴した。
生きているのは、何らかの方法で食事を確保しているのかもしれない。もしかしたら、厨房に夜な夜な忍び込んで食料を盗んでいるのかも。
そんな風に、勝手にあれこれ事態を捏造してフェイリスの悪口で盛り上がった。
それらの報告は、カイルまでは届かなかった。
どうせ報告されたところで、主人の機嫌を損ねるだけ。
そう判断して、どうしてフェイリスが一度もここの食事に手を付けていないのに平然としているのか、などを深く調べようとも思わずに、向こうがこちらを拒絶するのならこちらも放置でいいだろうと。
――そう、結論付けてしまっていたのだ。
ただ、それでも形だけは取り繕うべく、食事だけは運び続けた。
相変わらず粗末なものであったけれど。
ほぼ一年。
そんな事をし続けていたのだ。
だからこそ、カイルが今更のようにフェイリスと話をしようとして鍵のかけられた部屋をマスターキーで開けて、その中がもぬけの殻であったとしても、彼女が一体いつどこへ行ってしまったのかなんて。
わかるはずがなかったのである。
とはいえ、流石にこれは大問題。
婚約者として迎えたはずの女性がいつの間にか姿を消していたなど、醜聞以外のなにものでもない。
離れに押し込めていた、などであれば知らずならず者が侵入してなどと言えたかもしれないが、フェイリスがいたのは本館の客室。そこに賊が侵入して、などという事になっていれば屋敷の警備体制に問題があるとしか言えないし、問題がないのなら警備している者がいかに無能であるかという話になってしまう。
フェイリスの行方にカイルが関わっていなくとも、この件は完全にカイルの責任となる。
婚約者を放置し続けて、いついなくなったのかもわからない。
一体いつから、と使用人たちに問うても使用人たちすら果たしていつからフェイリスがいなくなったのか、答えられる者は誰もいなかった。
流石にいなくなりました、と本当の事をアマルディ伯爵家のポラリスにいえば、どうなるかなんて火を見るより明らかだ。だからこそ、まずは早急にフェイリスの行方を捜索する事となったのだが。
彼女は一向に見つからなかった。
目撃証言が一つも出ないのである。
そんな事が果たしてあるか? と思った。
屋敷から出るだけでも警備の目をかいくぐる事となるのに、そこをどうにか突破したとしてフェイリスのような貴族令嬢が市井にふらっと出たならば間違いなく目立つはずだ。だというのに、誰一人としてそれらしい目撃情報を落とさない。
最初からフェイリスなどという存在はなかったのだと言わんばかりに。
その報告をうけて、サミュエルも流石に焦った。
ポラリスにフェイリスがいなくなった、などと言えば一体どんな風に受け取られるか。
ハウエルとポラリスが結ばれればいいな、と思っただけのそれは、気付けば王家が貴族の家を潰そうと画策したととられかねない事態になっているのだ。
何事もなければサミュエルはいずれこの国の王となる――が、しかしこのような話がもし広まれば、サミュエルのその日の気分次第で家が潰されるかもしれないと思われてみろ。王家の支持率はダダ下がり、むしろサミュエルを王の座から引きずり落とせとなる未来がハッキリと見えてしまう。
いや、それどころか、今はその王になるという未来すら危うい。
優秀な側近の願いを叶えれば、主従の絆もより深まるだろうと思っての事だったのにこれでは側近たちの立場すら危うくなりかねない。
どうにかしなければ、と思っていたところで――
アマルディ伯爵家が爵位を返した、という話が出たのである。
何がなんだかわからなかった。
アマルディ伯爵夫妻は気付けば平民となっていて、一応それなりの家と使用人を雇うだけの資産はあったようだが、今までの生活と比べれば確実に質は下がる。
本人たちも何が何やらわかっていないようだったが、それでも確かに爵位は返されてしまい、今更やっぱりなしでとはできない事もわかっているらしく、王都の片隅でひっそりと暮らしているようではあった。
念のため事情を確認するべく訪れたサミュエルだが。
そこにいたのは数名の使用人と元アマルディ伯爵夫妻だけで。
ポラリスの姿はどこにもなかったのである。
――両親が嫌いだった。
それはフェイリス、ポラリス両名共に抱く感情だった。
いずれ後継者となるのだから、と厳しい教育を課した両親の事をフェイリスは嫌っていた。
息抜きの時間すらあまりとれず、何かを覚えたらすぐ次、と自由時間はほとんどないまま教育を詰め込まれたフェイリスは、割と早い段階で気付いていた。既に自分が両親を超えている事を。
あの二人は大して優秀でもないくせに、さも自分たちは完璧ですという顔をしてフェイリスに更なる高みを目指せと無理難題を吹っ掛けているのだ。
既に自分たちですら及ばないと理解もせずに、自分たちこそが上なのだと言わんばかりの顔をしてフェイリスを下に見続ける。
そんな両親の事を、フェイリスは心底軽蔑していたし嫌っていた。
せめて一度でもフェイリスを褒めればまだしも、既にあの二人が学んですらいない事すら習得したフェイリスに対しても、お前はまだまだ未熟だから、などと言って決して認めようとしなかった両親の、一体どこを好きになれるかという話である。
周辺の国の言葉だけではなく、この国があまり関わる事すらないもっと遠くの国の言語すらマスターしていても、それが当然とばかりの顔をする両親。周辺の国の言葉ですら完璧でないくせに。
自分よりもできないくせに、自分を見下し続ける両親。
わからないくせに知った風な口をきく両親。
妹を溺愛し続ける両親。
フェイリスは、両親という存在をいずれ廃棄するゴミだと判断した。
ポラリスは自分を甘やかす両親が嫌いだった。
最初は勿論、そこまで嫌ってはいなかったけれど。
だがある日気付いてしまったのだ。
両親は可愛がっているけれど、自分は愛されているわけではないという事に。
どこまでも高みを目指す姉の様子を見て、自分もあれくらいできるようにならなければいけないのか、と両親に問うた事がある。
だがしかし、両親はポラリスはそんな事をしなくていいと言った。
フェイリスは跡取りになるから厳しく教育しているだけで、貴方はそうじゃないのだからいいのだと。
そこで安堵できるような精神をポラリスは持っていなかった。
ただ、可愛い可愛いと猫可愛がりしてくる両親は、むしろポラリスが何もできない事を望んでいるようだった。
たまに興味のある事を学びたいとねだっても、貴方はそんな事しなくていいの、と両親が望む可愛いままの娘でいる事を望まれ続けた。
まさしく、両親にとって自分は愛玩動物やお人形さんのようなものだったのだろう。
ポラリスのやりたい事は、両親の思う理想の可愛い娘から外れればやんわりと、時としてばっさりと切り捨てられる。
興味のある事を学ぶ事も、着用する物も、髪型といった外見に関する事すらも。
ポラリスの意見が通った事はほとんどなかった。
甘いお菓子が嫌いだった。
けれど、両親はそれを許さなかった。
可愛い娘に似合うのは、お砂糖たっぷりの甘いお菓子。
ケーキやマカロンといった、見た目にもこだわりを持つかのような可愛らしいものだけが認められていた。
甘いお茶も苦手だった。
けれど両親のせいで、使用人たちがポラリスに淹れる紅茶にはいつだってお砂糖が入ったもので。
両親の思う可愛いの範疇であるのなら我侭も許されたが、しかしその我侭ですらポラリスの心から願ったものではない。
それでも、いつか。
姉が家を継げば自分はもうこんな風に愛らしいだけの娘を演じる必要はなくなる。
いつか、自分がどこかへ嫁げばきっと今よりマシになる。
未来だけが、ポラリスにとって救いだった。
それでも息苦しさはどうしたってあるが故に、忙しい姉に無理を言って自分にも淑女としてせめてもう少し学びたいと願った。
両親のように押し付けるだけの甘い態度を望まなかった。
なんでもできる姉に少しでも近づきたくて、厳しくてもいいからと指導を願った。
姉からみたポラリスは、至らない点ばかりだっただろう。
けれども彼女は見捨てずに、本当に言葉通りビシバシとしごいてくれた。
できない時は叱咤されたが、できれば褒めてくれた。少しずつでも認めてもらえている、と思った時のポラリスの胸の高揚感を、果たしてどう表現すればいいだろうか。
もっとも、姉に憧れがありすぎて彼女の前ではいつも失敗ばかりだったけれど。
両親の思う可愛い娘の演技をし続けているポラリスにとって、姉といる時だけが息がしやすい状況だったのである。
だというのに、何故だか姉は辺境伯に婚約者として望まれているなどと言われ、家を出る事になってしまったし、残された自分には突如後継者の座が降って湧いてきた。
姉のようになりたいと思ったけれど、あの姉のようになるには今からではとてもじゃないが時間が足りない。それどころか、自分は別に当主になりたいと思った事もないし、ましてやあれだけの学習をこなせと言われたって無理だ。
やりたい事に関してはやる気があるからいいけれど、そうじゃないものに関しては本当にやる気が起きないし覚えられる気もしない。
既に一番やる気のない可愛い娘でい続ける事、をし続けているのだから、それ以上やる気を出せと言われても無茶な話だ。
それでも一年は努力した。
したくもない努力を一年は続けたのだから、褒められる事はあれど叱られる覚えはない。
それに、ポラリスは知っていた。
辺境で姉がどういう対応をされているかを。
実際こちらに噂が流れてきたわけではないけれど、姉から連絡がきていたのだ。
結果として、どうにも何者かの策謀が巡らされているとポラリスも把握できた。
一体全体どんな面倒事が……と思っていたが、ふたを開けてみればどうやらサミュエル殿下の側近ハウエルとやらがポラリスに想いを寄せていて、その想いを成就させたいがためだけにサミュエルが仕組んだもののようだった。
くだらない。
実に、実に実にくだらない。
ポラリスは両親のせいで天真爛漫無垢な娘を演じているだけに過ぎないが、そんな偽りの姿に惚れた相手だ。
もし結婚しても、その姿を望まれ続けるのだろう。
冗談ではない。
そうでなくとも望みもしない次期当主としてのあれこれで面倒極まりないのに、自分にとって全く旨味のない相手との婚姻など、反吐しか出ない。
天真爛漫無垢で愛らしい娘をご所望であり続けるのなら、せめて当主の仕事全てを引き受けるから君は隣で笑っていてくれくらい言える気概もない男などごめんである。
演じ続けるだけならまだしも当主としての仕事も、などとなれば間違いなくポラリスのキャパシティオーバーなので。
まさか自分のその偽りの愛らしさが今回の件に繋がったなど夢にも思わなかったが、しかしそのせいで自分たちはいらん迷惑を被ったのだ。
頭の中身がお花畑の両親はポラリスが嫁がず家にいるからずっと愛らしい娘といられるなんてキャッキャしているし、そのせいでいらぬ苦労をしょい込んだポラリスの事など見えてすらいないのだろう。
姉だって、愛のない結婚……どころかいずれ婚約解消されるとわかった上で敵地にいるようなものである。
自分がここで暴れたところで、事態は解決しないだろう。わかっている。ちょっと暴れたくらいでは、また我侭だとしか思われない。
だからこそ、姉だけが頼りだった。
フェイリスは辺境伯領でカイルからこの婚約がいずれ解消されるものである事を告げられた時点で、大体察していた。
それと同時にこれはいい機会だとも。
客室に案内された時点で既に使用人の態度は最悪だった。ここの使用人の質が知れて、故にフェイリスはさっさと行動に移った。
室内に結界を張って、不用意に誰かが踏み入れないようにしておく。
どうせロクな対応をしないだろうからその必要はないだろう。
フェイリスに魔法の才がある事を両親は知りもしないし、周囲に明かしたわけでもないのでフェイリスが魔法を使える事実を知る者はほとんどいない。
だからこそ、こうして案内された時にもそういった対策はされていなかった。
おかげで魔法使い放題やりたい放題やったぜ状態である。
鞄の中の空間も圧縮したので思った以上に荷物を持ってきているので、お金にも困っていない。さっさとこの屋敷から脱出して街で生活してもいいが、とりあえずしばらくは様子見かな……と思ってはいた。
いなくなったと探されるのも面倒なので。
だが、その心配は早々に消えた。
初日から客をもてなすつもりのない食事。
辺境伯領の懐事情はそこまで逼迫しているのですか? と煽ってやろうかと思えるくらい粗末すぎるそれは、むしろ用意する方が大変だったのではないかと思う程だ。我が家でもここまで質素なもの出てきた事ありませんわぁ……と思いながらも、部屋の前にワゴンと共に置かれただけのそれを扉を少し開けて見てすぐに扉を閉めた。
誰が食べるのかしらアレ。
わたくしに食べろとおっしゃる……?
はぁ? ご冗談でしょう?
そんな気持ちでもって、フェイリスは窓を開けた。
そしてそこからすとんと脱走。高さがあろうが魔法を使えば関係ない。気配を遮断して見張りをやり過ごし、堂々と屋敷を抜け出して魔法で変装して街へと繰り出した。
どこにでもいそうな娘になったフェイリスは、そうして美味しいご飯をもりもり食べてまたもや堂々と屋敷へ戻ったのである。
宿をとるには金がかかるし、とりあえずあの客室は寝るだけの部屋。そう認識して。
その後フェイリスは魔法で髪と目の色を変えて、髪型やメイクもフェイリスの時のものとは変えた上で冒険者として活動を開始した。
女性冒険者ソロ活動、は流石に珍しかったのかちょっと注目されたけれど、まぁどうという事はない。エリスという偽名を使い、冒険者として稼ぐ。
アマルディ領や王都あたりではあまり依頼もないけれど、辺境伯領は魔物が棲息する場所が近い事もあって仕事には事欠かなかった。おかげでかなり荒稼ぎできた。
ところでそれから間もなく、カイルが何故か自分に言い寄るという珍事が発生した。
髪と目の色、それから髪型にメイクを変えているとはいえ、声はそのままなのにエリスがフェイリスであると気付かないカイルを適当にあしらいつつ、いつ気付くのかしらなんて思いながらも冒険者として今日も今日とて元気いっぱいに過ごす。
部屋に閉じ込めた状態のフェイリスの事をカイルはどう思っているのか知らないが、こうも気付かないとか節穴なのですね……と思いながらも、婚約者がいると聞きましたが? と言えばそれはいずれなんとかするという言葉。
早々に解消するために動くか……? と思ったものの、そうする動きがなさすぎて、フェイリスもエリスとしてカイルを手玉にとる日々が続いていた。冒険者であるエリスがいつこの地を発つかわからない不安からか、カイル本人がエリスを名指しでいろんな依頼を出してくれたのもあって、懐は潤う一方。
流石にデートしてくれ、みたいな依頼は受けないが、魔物討伐を一緒に、というものは引き受けた。
だが、まぁ。
魔法で連絡をとった妹の反応から、そろそろ潮時かとも思ったので。
フェイリスはいい加減終止符を打つ事にしたのである。
完璧を望まれていたフェイリスには、早々に領主としての仕事も割り振られていた。
フェイリスの処理能力は父を軽々と超えるもので、毎回領主のサインが必要な書類がどどんと積み上げられた事で父も相応に執務をこなさなければならない状態に陥っていた。
今まで数日かけて行っていた量が、フェイリスにかかれば一日で終わる。
そのせいでサインをする書類の数も増えて、父の処理能力が追い付かなくなって。
だからこそ、父は早々にフェイリスにその権限を与えた。
果たして父はそれを覚えているのだろうか。
アマルディ家の当主は既に父ではなく、フェイリス・アマルディ女伯爵であるという事を。
憶えていたらまさか当主を嫁に出すとかしないよな、と思うのでまぁ忘れているのだろう。
仕上がった書類をどんどん積んで、さぁサインをとさも時間が残されていないかのように急がせて、父の自由な時間を奪って追い詰めていったのだから。
あの時父が早々に当主の座を譲ったのだって、多分酒が入っていたからというのもある。
朝だろうと夜だろうと関係なく書類を積んでいった甲斐があったというものだ。
フェイリスは自身が天才である自覚があった。そして父と母が凡人でしかないという事も。
その上で、それでも自分たちの方こそが上であると思い続けたいというのが透けて見えていたのもあって、フェイリスを下に見ていたからこそ、フェイリスは両親の事が嫌いである。
別に崇め称えろとは思った事がないけれど、だがしかしそれはそれとして優秀な娘を持って自慢だとか、そういう方向性であればよかったのにあえて娘が至らなくてだのなんだのと言ってくる。どうあっても下にしたい両親の事を思えば、これからやる事に躊躇いなどあるはずもなかった。
アマルディ家の当主として、さっさと爵位を返す手続きをした。
使用人たちには紹介状を残しておいた。というか、書いたやつを魔法でポラリスのところに届けておけば、あとは妹が各自に配布するだろう。
両親の事は嫌いだが、死ねとまでは思わないので、一応住処と使用人を少しは残しておく。贅沢をしなければまぁどうにかなる程度だが、その気になれば明日も知れない物乞い生活に陥れる事も可能なのだから、寛大な処置に感謝してほしい。
そうして辺境伯領から、悠々と出て行って。
伯爵令嬢ですらなくなったポラリスと合流したのである。
サミュエルは突然アマルディ伯爵家が爵位を返した事で意味が分からなかったし、更にはポラリスの行方も知れなくなったという事実を中々受け入れられなかった。
てっきり爵位を返した伯爵が娘を売ったのかとも思ったが、伯爵ですら娘の行方を知らなかった。
攫われたのかもしれない、と取り乱すハウエルは一体どうしてこんな事に……となり、色々と調べた結果サミュエルが行った事を知り、側近の座を辞した。
ポラリスとの仲を橋渡ししようとした、というところまではいいが、やり方が不味すぎたのだ。
むしろこうなるまで気付けなかった己の愚かさに嫌気がさして、しばらくは抜け殻のようでもあった。
サミュエルも信頼していた側近がその立場を辞す事になってこんなつもりじゃ……となったところで、完全に手遅れである。
カイルもまた、フェイリスの行方が知れぬまま婚約が解消されたとはいえ、黒い噂が付きまとうようになってしまった。
フェイリスを亡き者にしたのではないか、という噂だ。
屋敷の中に閉じ込めて外に出していないはずなのにいないのだから、もう死んで死体も残っていないのだろうと。
どれだけ否定したところで、ではフェイリスはどこに行ったのか、と聞かれても答えようがない。
屋敷の中に賊が侵入した様子もない以上、誰かのせいにもできないまま。
更に惚れていた冒険者エリスが忽然と消えた事も、カイルの精神に大きなダメージを与えていた。
愛する者が消えただけでもショックが大きいが、フェイリスを殺したという噂が広まったせいで結婚はまだ先でいいかな、なんて余裕をかましていた男は、波が引くように縁談の話も途絶えたのである。
アマルディ伯爵家がなくなった事は社交界で確かに話題になったけれど。
それ以上に、他に醜聞があるのだ。
だからこそ周囲はそちらの醜聞に夢中になって、アマルディ伯爵家の事など早々に話題の一つとして埋もれていったのであった。
ポラリスの行方がわかれば、もしかしたらハウエルは戻ってくるかもしれない。
フェイリスの行方もそうだが、エリスの行方も知れなくなったカイルもまたその行方を捜し続けているが、一向に目撃情報が落ちてこない。
二人だけが、いつまでもその話題に縛られ続ける事となってしまった。
――そんな身勝手な二人のことなど知った事もなく。
フェイリスとポラリスは旅装束に身を包み、のんびりとした足取りで各地を巡っていた。
二人とも髪をバッサリと切って、魔法で色を変えているので以前の貴族令嬢としての姿を知る者が見たところで、即座に気付けはしないだろう。
「さて、どうしましょうか」
「何がですか?」
「いえ、冒険者として偽名を使っていたのですが、エリスも使わない方がいいかなと思いまして。
貴方も一応ポラリスの名を捨てた方がいいでしょうし」
「そうなんですか? まぁ姉さんが言うならそうなんでしょう」
もう今のポラリスは伯爵令嬢などではない。ただのポラリスで、姉と一緒に活動する普通の冒険者だ。
素早い身のこなしと的確な一撃でもって魔物を仕留めていく様からいくつかの二つ名で呼ばれるようになったとはいえ、ポラリスにとっての名前ではない。だが、確かに姉が言うようにポラリスの名を使い続けるのは、いつかそのうち問題があるような気がした。
同時に姉もまた、かつての名を使う事で辺境伯という厄介ごとが現れる可能性が確かにある。
さっさと諦めればいいのに、今もまだ探しているという噂は二人の元にも届いていた。
「偽名を考えるにしても、あまり馴染みのないものだと呼ばれて即座に反応できないのが難点よね」
「あっ、それならポーラはどうでしょう!? 姉さんは私にとってお星さまみたいな存在だから!」
「ポラリスからもとってない?」
「えへへ、わかります?」
「……まぁ、それでもいいけれど。だったらあなたはそうね……フェイ、かしら?」
「妖精、ですか?」
「えぇ、あの人たちにとってきっと貴方はそういう存在だった。きっとね」
「でも、姉さんの元の名前とおそろいですね」
「そうね……そうかも」
「えへへ、だったら私はこれからフェイ。姉さんがポーラ!」
あの人たち、というのがポラリスを溺愛していた両親なのか、それとも彼女に想いを寄せていたハウエルも含まれるのかはわからない。ポラリス――フェイにとってはどうでもいい。けれど、姉がそう呼ぶのなら、それでいいのだと思う事にする。
それよりも、姉が自分の提案を当たり前のように受け入れてくれたことの方がフェイにとっては余程重要だった。
どうでもいい存在よりも、大切な存在に心を傾けるのは当然の事なので。
淑女として姉に褒めてもらいたい気持ちがあったのは確かだ。
けれど、姉を前にすると失敗ばかりしていた。
それが悔しくて泣いた事もあったけれど。
でも今は、そんな事もない。
のびのびと自由に振舞う事ができる。
おかげで、姉の前で失態を晒す事はかなり減った。
それもまた、フェイにとっては嬉しい事の一つである。
思わず姉の手をとって、きゃっきゃと振り回す。
ポーラは仕方ないなとばかりに苦笑を浮かべていたが、それでも手を振りほどく事はしなかった。
未来は未だ未知なれど、しかし確かに二人のその瞳には。
希望という光が灯されていた。
サミュエルとカイルはこの後ゆっくりじわじわと破滅していきます、が特に派手になにかがあるでもなく本当にじんわりじわじわなので本人たちも立て直そうにも手詰まり状態。
はっきりしてるのがアマルディ伯爵家に関する部分だけどそこはもうどうしようもないからね、仕方ないね(´・ω・`)
次回短編予告
あいつとは単なる友人だよ。異性であっても、男友達みたいなものさ。
そんな風に言う婚約者ではあるけれど。
みたいな、だとか、ような、とか言われても。
でもそれ結局女性じゃないですか。
次回 ようなもの、と言われても
こっちは概念ではなく現実の話をしているのです。
そこのところ、ご理解いただきたいわ。




