9.大切なエミリア
「エミリアが聖女で本当によかった」
まぎれもなく本心だ。
聖女でなければ、彼女は他の誰かのもとに行っていたか、孤児院で儚くなっていただろう。
「エミリアならきっと、より良い王妃になれるよ」
これも本心だ。
嘘を見抜ける彼女なら外交の場において優位に立てるし、彼女の力を知らない者相手ならば、聖女として同席させるよりも王妃として交流してもらったほうが油断を誘える。
だからすべてすべて、本心で間違いない。その理由もしっかり説明できる。
それなのに、一度抱いてしまった思いが時折頭を覗かせる。
綺麗なものだけを見せて、綺麗な言葉だけを聞かせて、綺麗なものに囲まれていてほしい。どこにも行けないように、好ましくないものを見ないように、閉じ込めてしまいたい。
「いっそ、歩けなくさせれば……」
そうすれば、外交の場には出なくて済むかもしれない。
聖女の血を取り込む必要があるから、聖女の仕事が物理的にできなくなっても、俺との婚約がなくなることはない。
「そんなことしたら愛想を尽かされるわよ」
昔馴染みであるミスティアが呆れたように言う。
彼女は王家と聖女の血をひいているということで、城に来て茶会を開こうと表立って文句を言われない立場だ。
そして俺と彼女のそばに控えるのは、幼少の頃から突き従ってくれている信用のおける従者のみ。
彼女の従者も俺の従者も呆れたような目をしているが、口に出すことなく職務をまっとうしている。
「わかっているとも。だからこうして、口にするだけに留めているんだ」
思い余ってエミリアに向かないように、彼女の前で吐き出さないように。こうして適度に息抜きして、エミリアの前では綺麗な言葉だけを紡げるようにしている。
そうでなければ、ミスティアとの茶会なんて放り出してエミリアのもとに向かっているところだ。
「私としてはいい迷惑なのだけれど」
カップに口をつけ、冷めた目をしているミスティアに苦笑を返す。
この茶会の名目は、国の今後について話すのだとかなんとか、ということになっている。王家と公爵家、共に将来国を率いていく立場として、意見を出し合うのは大切だとかなんとかで、昔から行ってきたものだ。
とはいえ、ミスティアには兄がいる。国を率いるのは彼女ではないのだが、文句を言ってきた者はこれまで一人もいない。
「俺だけ利用されるのは癪だからな」
「私は見ているだけなのだから、かわいいものでしょう」
「俺だって口にしているだけだ」
ミスティアは間もなく十九歳になるが、結婚する気はない。
わざわざ縁を結んで勢力を広げる必要もなく、力をつけたいのなら事業で金という名の力を積んでやると言い放って、舞い込む縁談を断り続けている。
「実行しそうになったら教えなさい。私は無関係だという証拠を集めておくから」
そう言って冷ややかに微笑んでいたミスティアに聖女の力が発現したのは――この茶会から数ヶ月してからだった。
ミスティアは聖女に認定されてからすぐ、城に居住を移した。
王命だからというものもあるが、事業を部下に任せ荷を運び終えるまでがあまりにも迅速だった。
「よかったじゃないか」
いつものごとく茶会を開き、ミスティアに労わりの言葉を贈る。
「あら、どうもありがとう。あなたとの縁談話が持ち上がっていなければ、最高の気分だったのでしょうけど」
ミスティアを王太子妃に据えてはどうか。そんな声が上がっているのは知っている。
だがエミリアが十六歳――結婚適齢期になれば、すぐにでも式を挙げる予定なので、愚にもつかない戯言は聞き流していた。
エミリアとの婚約を解消する気もなければ、ミスティアとの婚約を新たに結び直す気もない。
「そんなもの、お前が否定すればいいだけだ」
エミリアもミスティアも望んでいなければ、絶対に起こりえない。
聖女は必ず王家に嫁がなければならないが、聖女の側も王族相手であれば選ぶ権利が与えられている。
どうしても覆せない結婚や婚約をしていないことが条件にはなるし、聖女がこちらの決めた婚姻相手を全身全霊で拒否しない限り提案することもないが、制度の上ではそうなっている。
そして聖女と王族の子孫であるミスティアはこの制度を知っている。
「……私から指定するなんて、そんなこと……できないわ」
だというのに、ミスティアは青い瞳を伏せ、いつになく気弱な態度を見せていた。
思わず何を企んでいるのかと疑いそうになるが、きっと何も企んではいないのだろう。
「あなたはいいじゃない。年の差は四つだし、男だし、最初から決められている相手だもの。……だけど私の場合は六つよ、六つ! あの子が結婚できる年齢になった時、私は何歳だと思っているの!」
気弱な態度から一転して雄々しく猛るミスティアに、ふむと首を傾げる。
貴族の子息は十八歳から結婚が認められる。成人として認められるのもまた同様に、十八歳から。
「二十四歳だな」
「そうよ! 二十四……行き遅れもいいところな年齢だわ!」
貴族の子女の結婚適齢期は十六歳から十九歳まで。
少なくとも二十歳を越えれば行き遅れ扱いだ。
「それに私から指定したら、いつからとか、何歳の子供にとか、色々勘繰られるかもしれないじゃない。他の人からどう見られようとどうでもいいけど、彼にそう思われたら立ち直れなくなるわ」
――などと考えていたら、またもやミスティアの態度が弱気なものに変わっていた。
ミスティアが危惧しているところもわからないわけではない。行き遅れになる覚悟のあったミスティアでも、胸に抱いていた相手と結ばれる可能性が生まれた以上、どうしても年齢を気にしてしまうのだろう。
「だが、年齢を気にするのなら俺が相手になるしかなくなるが……もしもお前と結婚しろと言われたら、俺はお前を切ってエミリアと逃げるぞ」
「私だってあなたと、なんて話になったら逃げるわよ。……私が言いたいのは、大義名分がほしい、ということよ。私の相手が一人しかいなかったら、六歳差でもまあしかたないわよね。他に誰もいないんだから……という顔をしていられるじゃない」
父上の弟の子供――俺の従弟がいるのだが、さすがにそれを言うのは野暮というものだろうし、王弟の子とはいえ優先順位は下がる。ミスティアが指定しない限り、候補として名前すら挙がらないだろう。
「兄様――と、ミスティア様もいらしたのですね」
ではどんな言葉をかけてやろうかと悩んでいたところで、弟のアランがととと、と駆け寄ってきた。生垣に隠れてよく見えなかったのだろう。ある程度近づいてようやく、ミスティアの存在に気がついたようだ。
居住まいを正し、丁寧な所作で挨拶するアランにミスティアの瞳がわずかに揺らぐ。
「ごきげんよう。今まで通り、普通に呼んでくれていいのよ」
「ミスティア様は聖女になったのですから、これまで通りにはできませんよ」
のほほんと微笑むアランにミスティアの唇が少しだけ引き結ばれた。
アランからしてみれば、これまで通りにできないのは当たり前のことだ。聖女の立場は王家に次ぐ――正確にいえば、王と王妃、それから王太子の次の地位となる。そのため、王太子ではないアランの立場は聖女の下だ。
だがミスティアにとっては、アランの一歩引いた態度は不満しかないのだろう。
「別に……私だってこれまで気心の知れた人たちの前では二人を気軽に呼んでいたでしょう? それと同じことだと思えばいいじゃない」
俺のことを無下に扱うことの多いミスティアだが、人目があれば淑女としか言いようのない振る舞いをしている。
そのことについては昔からだから今さら何も言わないが、少しは俺に対して敬意や感謝の念を払ってもいいのではないだろうか。
建前と名目に付き合ってやっているのだから。
「そ、そ、それに、もしかしたらアランが私の夫になるのかもしれないのでしょう? それなら、今から親しくしておいても、何も損にはならないのではないかしら」
普段の毅然とした態度からは想像もつかないほどしどろもどろになっているのだが、アランにとってのミスティアはこんなものだ。今日もどことなく挙動不審だなぁ、ぐらいにしか思っていないだろう。
ミスティアがアランに好意を抱きはじめたのがいつだったかは、興味がなかったので覚えていない。
覚えているのは、後継者である兄ばかり優先されることに寂しさを覚えていたところをアランに慰められたのだという、至極単純なはじまりだったことだけだ。
ミスティアは俺と同類だ。
純粋無垢という言葉からはほど遠く、自分にはないものに惹かれてしまうのだろう。
その気持ちはわかるつもりだ。俺もエミリアに対してそうなのだから。
――そう思っていたのだが、目の前でアランと話すミスティアを見ていると、揺らいだ。
アランを見つめる穏やかな青い瞳に、少しだけだが嬉しそうにほころぶ唇。
好意を抱いているのだとわかるその姿に、ならば俺はどうなのだろうかと疑問が湧いた。
ミスティアがアランに向けるのと同じような思いを、彼女に抱けているのだろうか。
エミリアのことは大切だし可愛いし守ってやりたいとは思っているが、好きだとか愛しているだとかを考えたことはない。
いや、そもそも――
「これからどうなるかはまだわかりませんから、気軽にお呼びすることはできませんよ。エミリア様とのお茶会を設けるようにとも言われていて――」
思考が打ち切られる。そしてアランの言葉が遠ざかり、ミスティアと顔を見合わせた。
深い海のような青色に、血の気を失って青いのか、瞳の中だから青いのかわからない俺の顔が映っていた。
そしてこの日、俺はエミリアに婚約の解消を突きつけられた。




