8.心優しいエミリア
エミリアのことは最初、妹のようだと思っていた。
弟と年も背丈も変わらないのだから、なおさらそういう思いが強かった。
自分よりも小さな女の子を守ろうと思うのはそうおかしなことではないだろう。そこに、妹だからという理由だけでなく守りたいという思いが加わったのは、彼女のいた孤児院の実態を調べ終わった頃だった。
彼女が育ったのは辺境の片田舎にある孤児院で、王都から人を派遣するのに時間がかかり、現地での調査にも時間がかかり――すべてが明らかになったのは、エミリアが城に来て一年が経過した頃だった。
「……取り壊し、はできないか」
届けられた書類に目を通し、小さく呟く。
エミリアのいた環境はあまりにもひどかった。
孤児院には国からの支援があるが、補助金は院長とその部下たちの懐に入り、子供たちに与えられるのは最低限の食事と、ぼろきれになるまで着続けないといけない服。
そしてわずかな金銭と引き換えに、労働力として貸し出される日々。
辺鄙な場所にある孤児院で、周囲には小さな村しかないことが劣悪な環境を生む要因となっていたのだろう。領主がたまに見回っていたようだが、そんな土地に貴族然とした者が現れれば、すぐに噂になる。
その場限りで体裁を整えるのは難しくなかっただろうし、子供たちも比べる対象が他にないからこそ、そういうものだと受け入れてしまっていたのだろう。
一応、うだつの上がらない貴族の家に聖女が現れ、それを手土産に他国での地位を望まないようにと方々の貴族に目を光らせてはいた。だがさすがに辺境にある小さな孤児院にまで手を回してはいなかった。
養い子の数に応じて支払われる補助金と子供の数の報告義務、そして聖女を見つけた者に支払われる報奨金。そのどれかが欠けていたら、エミリアはもちろん、子供たちもどこかに売り払われていたかもしれない。
その事実に、孤児院を調査した者は肝を冷やしたそうだ。
「エミリアには……言う必要はないか」
孤児院に関する書類が俺のところにも来たのは、彼女に寄り添うようにという無言の圧力だろう。
もちろんそうするつもりだが、彼女のいた環境が劣悪だったことを言う必要はない。
養女にする案は却下され、エミリアのためだけの家名を用意することになった時、どんなものがいいのかと彼女に聞いたことがある。
彼女が口にしたのが、マクシミリオ。彼女が育ってきた孤児院の名前だった。
どうしてその名前がいいのかと聞いた俺に、彼女は「お世話になりましたし……それに、この名前がある限り、皆のことを忘れずにいられそうなので」と言ってはにかんでいた。
彼女にとって孤児院は悪いものではなかったのだろう。他に比べるものがなかったからだとしても、わざわざ思い出を汚す必要はない。
「シオン様、今日は聖女の歴史について教えていただきました」
日に一度、エミリアと過ごす時間を設けている。そこで彼女はいつも、今日は何をしたのかを報告してくれた。
新しいことを学ぶのが楽しいのか、いつも目を輝かせて。
あんな環境で育ったのだから、翳りの一つでもありそうなのに、彼女にはそれがない。
「毎日勉強尽くめで大変だろう? たまには休みたいと言ってもいいんだよ」
エミリアに寄り添い労わるためにはどうすればいいのか。彼女の望みを探る意味もこめて、労わりの言葉をかける。
「いえ、そんな。こうして教えていただけるだけでもありがたいと思っています」
エミリアの日々は勉強で埋まっている。いつかは王妃として立つのだから、ある程度の知識――貴族の子女であれば知っていてもおかしくない知識は必要だからだ。
聖女を迎える可能性も考えて、我が国の王太子妃や王妃の責務は重くはない。だがそれでも、社交の場に出ることは避けられず、他国からの客人をもてなすこともある。
格式ばった場で粗相を働くことがないようにと、エミリアは学ばされている。
文字の読み書きもできなかった彼女のことだ。きっと苦労しているだろう。
だがそんなことはおくびにも出さず、楽しいと微笑んでいる。
最初は淀んでいた受け答えも、今では明瞭なものとなっており、彼女の飲み込みの早さがうかがえる。
聖女が必ずしも貴族から生まれる保証はないと、制度を整えてくれていた先人には、きっと先見の明があったに違いない。
そうでなければ、彼女がこうして過ごすことはなかっただろう。
「君が聖女で本当によかったよ」
心の底から言うと、エミリアは嬉しそうに微笑んだ。
ちなみに、院長とその部下たちは聖女の報告をしたのが運のつきということで、ふさわしい場所に送られる。
そして、王都から派遣された者が代わりに院長を務めることになるだろう。子供好きの世話好きで、多少顔は怖いし屈強だが、エミリアの大切な孤児院を守るためには適任だろう男が。
純粋に楽しいと笑っていたエミリアの瞳に翳りが生まれたのは、俺が十五歳になったある日のことだった。
ある日、とぼかしてみたがいつなのかは明白だ。
彼女が聖女としてはじめて公的なパーティーに参加した日。他国より来訪した者が、エミリアをないがしろにした。
聖女の名はいわば名誉称号に等しい。アディセル国内では王家に次ぐものとされているが、他国にまでその権威が届くわけではない。
それでも我が国に敬意を表して、丁重に扱ってくれる者は多かった。だがここしばらく聖女が現れていなかったこともあり、若年層の貴族や、新興貴族にとって、アディセル国における聖女がどういうものなのか知らない者も増えた。
それ自体は、しかたないことだろう。他国の歴史や、何十年も扱われていない名誉称号についてぴんとこないのもありえることだ。
理解できるからといって、見て見ぬ振りをするかといえば、別の話だが。
彼女の見る黒いもやは、当人に悪いことをしているという意識がなければ生まれない。たとえ結果が悪くとも、善意からの行動であれば黒いもやが現れないことは確認済みだ。
黒いもやを出しながら我が国の貴族に話しかけていたのなら、そこには悪意が存在する。
子供、しかも貴族出身ではない者相手ならば誤魔化せると思ったのかもしれないが、エミリアはしっかりと聖女の仕事をこなし、どこでどんな状況で黒いもやを見たのかを報告してくれていた。
中には貴婦人たちの嫌味の応酬などというたわいもないものもあったが、そうでないものもあった。
エミリアをないがしろにした貴族は、そういった類のもので、叩けば出てくる埃を集め、アディセル国にはアディセル国の、アディセル王家の流儀があるのだと教えてやった。
「……これからはこういうことも増えるだろうな」
漏れ出た呟きと共にため息を吐く。
聖女の仕事はこれから本格化していく。
彼女の力は、武器を手に取る戦いから机の上での戦いに切り替わっている今の時代において、とても有用だ。
相手の悪意を見抜ければ優位に立てるし、嘘を見抜ければ会話の流れで本当は何を求めているのか探ることもできる。
隠し部屋に待機させて様子をうかがわせることもあるだろうが、今回のようにパーティーに参加する必要も出てくる。
そしてその機会は、王太子妃になればより増えるだろうし、王妃になればその比ではない。たとえ気が重くとも、聖女の仕事と関係なくとも、参加せざるを得なくなるだろう。
自国内の貴族を集めた催しなら問題ないが、他国の者も混ざっていれば、否応なくエミリアに好奇の視線が注がれる。
「彼女には苦労をかけることになる」
その様を想像し、自嘲する。
聖女の義務で、王太子妃の、王妃の義務だからしかたない。そう思えれば、どれほど楽だろうか。
輝いていた瞳に生まれた翳りに、心が痛む。
これからも幾度となく、エミリアは人の汚い部分を見ることになる。上辺だけの褒め言葉。言葉の裏に隠れた敵意。それを、彼女は見抜いてしまう。
彼女はこれまで劣悪な環境にいたから、黒いもやをまとっている者も多く見てきたことだろう。
それなのに、孤児院を離れてからもずっと、嫌なものを見続けなければいけない。そして俺はそれを、彼女に強制しなければならない。
仕事だからと言ってしまえばそれまでだが、それでも俺はエミリアには綺麗なものだけを見ていてほしかった。
瞳を輝かせて、笑っていてほしかった。
「いっそのこと――」
ただ綺麗なものだけに囲まれた箱庭に彼女を閉じ込めてしまいたい。
どろりと溶けて出てきた思いが溢れないように、俺は慌てて口を閉ざした。




