6.そして
「シオン様……いらっしゃいますか?」
コンコン、と遠慮がちにシオン様の私室の扉を叩く。
ミスティア様はあの後すぐ「望むものができたらいつでも言いなさい」と言って、さっさと行ってしまった。
そして私は、頭の整理が追いつかないまま真っ直ぐ――これまで何度も足を運んできたシオン様の部屋に向かった。
もしかしたら、シオン様は本当は私との結婚を望んでいて、あの黒いもやは別の、私では想像もつかない理由があるのかもしれない。そんな夢を抱きながら。
いったいどんな理由があれば黒いもやをまとうのかは、頭の片隅に追いやって。
「……シオン様」
コン、ともう一度扉を叩く。だけど中からの応答はない。
部屋にいない、ということはないと思う。ミスティア様は部屋にいると言っていたし、最初のノックの時にかすかに中から音が聞こえてきた。
「お願いします……どうか、ここを開けてください」
縋るように呼びかけても、何も返ってこない。
抱いた希望が少しずつしぼみ、代わりに不安が湧いてくる。
ミスティア様は私が折れればと言っていたけれど、それはシオン様にとっては聖女との結婚が義務で、折れるも何もないだけかも――いつものように考えないようにしていた可能性が頭の中を支配しはじめ、扉を叩いていた手がだらりと垂れる。
「……これで最後にしますから、だから、お願いします」
やはり幻想は幻想に過ぎず、ミスティア様の言葉を都合よく捉えただけだったのでは。そんな風に考えはじめた瞬間、これまでぴくりとも動かなかった扉がゆっくりとだけど開かれた。
「エミリア」
そして、顔をしかめたシオン様が私の名前を呼んだ。何年も見てきた夕焼け色の瞳に見下ろされ、ほっと息を吐く。
だけど彼の周囲に黒いもやが漂っているのが見えて、自然と頬が強張った。
「……中に入っても、よろしいでしょうか」
「いや、それは……用があるのなら、ここで聞く」
眉間に刻まれた皺と、逸れる夕焼け色。少しぶっきらぼうな物言いに胸の奥がチクリと痛む。
落としかけた視線を無理矢理上げて、シオン様を見上げる。抱いた幻想がすぐに霧散する夢幻に過ぎないのかを確かめるために。
「ミスティア様が……私に、シオン様と結婚するようにとおっしゃいました」
「……勝手なことを……」
ため息と共に吐き出された小さな呟き。
それをどう受け止めればいいのかわからず、胸元で両手を握る。祈るように、願うように。
「シオン様、どうか……教えてください」
ミスティア様はシオン様と話すように言っていたけれど、何を話せばいいのかまでは教えてくれなかった。
だから私は、私にわかることを。私にしか見えていないもののことを口にする。
――これまで聞くのが怖くて、はっきりと言われるのが怖くて、聞かずにいたことを。
「シオン様は……私に、どのような嘘を……どのような思いを、抱いていらっしゃるのですか」
その瞬間、黒いもやが増した。水たまりができるほどではないけれど、シオン様を覆うほどに。
やはり、幻想は幻想に過ぎなかったようだ。それでも私は、シオン様から目を逸らさないように努める。
「シオン様……どうか、どうか教えてください。それがどんな真実であれ、受け入れます。ですから……」
もうこの際、役立たずの聖女でも、王太子妃にふさわしくないでも、なんでもいい。
シオン様が黒いもやをまとっていることは覆せない事実なのに、ミスティア様にほんの少し、話してみてと言われただけなのに期待してしまった。
同じことがもう二度と起こらないとは限らない。
私がどうしようもないことは、今回でよくわかってしまった。はっきりと言われなければ、私はこれからも同じことを繰り返してしまう。
甘い言葉を耳にするだけで、一喜一憂してしまうだろう。
「……お願いします」
夕焼け色の瞳を見つめて懇願する。
だけどシオン様は静かに息を吐くだけだった。
「……言うことはない」
そしていくらか間をおいて聞こえてきた小さな声。
嘘をついているのだと指摘しても、その心の内を教えてほしいと願っても、シオン様は私に何も教えてはくれない。
これまで、聞くのが怖かった。はっきりと言われるのが怖かった。だけど一番怖かったのは――こうして、何も言われないことだ。言う価値もないのだと、思い知らされるのが、何よりも怖かった。
ミスティア様はきっと、何か勘違いしていたに違いない。だからシオン様と話してみてと言ったのだ。シオン様が私と話す気がないだなんて、思わずに。
それがわかっただけでも、ここに来た甲斐はあった、というものかもしれない。
「……わ、わかりました」
鼻の奥がツンと痛くなる。
これ以上無様を晒す前に立ち去ったほうがいいとわかっているのに、顔を伏せれば涙が零れ落ちてしまいそうで、一礼して立ち去ることもできない。
見慣れた夕焼け色と、その中に映る私の姿。これまで何度も見てきたこの色を、これからは見ることができないのだと感じて、よりいっそう胸が痛くなる。
「エミリア――」
シオン様の手がゆっくりと動き、止まる。続けてガタンと音が鳴り、驚いてシオン様の瞳から視線をずらせば、シオン様の部屋に通じる扉がいつのまにか閉められていたことに気づいた。
何故かはわからないけれど、一歩後ろに下がろうとしたシオン様の体が扉に当たってしまったようだ。
「頼むから……今日は、もう、帰ってくれ」
「……わかり、ました」
帰れと言われれば、従うしかない。
今日は、とシオン様は言ってくれているけれど、きっともう二度と、彼は私のために扉を開いてはくれないだろう。
「これまで、ありがとうございました。……シオン様によくしていただいたことは、忘れません」
私のような役立たずの聖女でも、シオン様は本当に優しくしてくれた。これからも顔を合わせることはあるだろうけど、これまでのように話すことはできなくなる。
だからこれが、婚約者として言葉を交わせる最後になるかもしれないからと、頭を下げる。
涙が零れないようにぎゅっと力を入れて、声が震えないように注意して。
「わ、私は本当に……シオン様の婚約者でよかったと、思っております」
お慕いしていた、とは言えない。シオン様は優しい方だから、そんなことを言えばミスティア様との婚約を結び直した後、罪悪感を抱いてしまうかもしれない。
だからただ、感謝の言葉を口するだけに留める。
「シオン様の幸せを……心から、望んでおります」
何も言われないことをいいことに一方的に言い切って、泣き出す前に立ち去ろうと踵を返す。
シオン様の周りに漂っているであろう黒いもやも見たくはなかった。もしもさらに増えていたら、感謝の言葉すらも不快なのだと思ってしまいそうだったから。
これからは、王になるシオン様を陰ながら支えられる聖女を目指そう――そう思った瞬間、視界が暗転した。




