5.あんな男
聖女は貴族の出身ばかりだった。それを知った時には、私にも貴族の血が流れているのかも、なんて甘い幻想を抱いたものだ。
だけど幻想は幻想に過ぎず、私の出生記録から血筋を辿っても、貴族の名前はどこにもなかったらしい。
私が初めて登城した際に、城で働いている人たちが熱心に調べたので間違いないそうだ。
もしも私に貴族の血が流れていたのなら、シオン様は私のことを望んでくれただろうか。
そんな、どうにもならないことを考えてしまう。
「エミリア様?」
聞こえた声に、沈みかけていた意識が浮上する。いつの間にか下がっていた顔を上げると、不思議そうな顔でこちらを見ているアラン様と目が合った。
シオン様と最後に話してから一週間。毎日のように会っていたのに、この一週間は顔すら合わせていない。
「ご気分が優れないようですが、大丈夫ですか?」
「え、ええ。……少し、疲れているのかもしれません」
心配そうに眉尻を下げているアラン様に微笑んで返す。
アラン様との二度目のお茶会。和やかな空気に、流れる穏やかな時間。お茶もお茶菓子もおいしいし、前にはアラン様が座っている。それなのに、失礼だとわかっていてもどうしても、シオン様のことで頭がいっぱいになってしまう。
「今週は聖女の仕事もないはずですので、ゆっくりお過ごしください」
「はい、お気遣いありがとうございます」
アラン様は私との婚約について話はしないけれど、そういう話があることは知っているのだろう。
時折「兄様とエミリア様のほうが…」とこぼしかけることがあった。黒いもやは出ていなかったけど、私との婚約に乗り気ではないことに申し訳なくなる。
私が聖女である事実だけは変えられない。結局、シオン様を手放したところで、アラン様を縛りつけることになるのだ。
こんな、役に立たない力などいっそなくなってしまえば皆幸せになれるのに。
「それでは今日はこのあたりでお開きといたしましょう」
穏やかに言うアラン様に、申し訳ないと思いながらも頷く。
時が経てばシオン様のことも忘れることができるのかもしれないけど、今はまだ無理だったから。
「ちょっと、そこのあなた」
沈んだ気持ちのまま部屋に戻ろうとしていた私に、冷たい声が突き刺さる。
私の側仕えである侍女がハッとしたように頭を下げ、私もそれに倣って頭を下げる。
床に向いた視界の端に、黒いもやが映りこんだ。
「顔をあげてちょうだい」
「……ミスティア様、ごきげんよう」
ミスティア様は高貴な聖女ではあるけれど、聖女に貴賤なしとして、私と立場は同じということになっている。建前上は。
私が簡易な礼をすると、ミスティア様も同じように返し、ちらりと青い瞳を侍女に向けた。
「私が用があるのはエミリア様だけよ。あなたは下がりなさい」
「ですが……」
「私がいいと言っているのよ。誰かに聞かれても、聖女の命令だと説明しなさい。それで誰もが納得するでしょう」
アディセル国において聖女は王家に次ぐ立場とされている。私を一人置いていくことに難色を示していた侍女だったが、ミスティア様の命令に背くことはできない。
侍女は「先にお部屋に戻っております」と言い残して、ゆっくりとした足取りで廊下の先に向かいはじめた。
一人残された私は、ぎゅっと拳を握りミスティア様を見上げる。
「どのようなご用件でしょうか」
「……あなたに言っておきたいことがあるのよ」
先ほどまでの毅然とした態度から一転して、何故か言いにくそうに口を開閉させている。だが口を閉ざす気はなかったようで、ミスティア様は私を睨みつけるようにしながら言う。
「あなたの婚約についてよ。諦めてちょうだい」
その言葉に、乾いた笑いが漏れる。言われなくても、すでに諦めている。
わざわざ釘を刺しに来なくても、私とシオン様の婚約が正式に解消されるのも時間の問題だ。
私の笑みをどう受け取ったのか、ミスティア様はぴくりと眉を跳ねさせた。
「あなたが折れればすべて丸く収まるのよ。我慢を強いるのだから、当然それだけの対価は用意してあげるわ」
「ご安心ください。対価など頂かなくとも、私は元からそのつもりです」
「あ、あら、そうなの?」
拍子抜けしたのか、目をぱちくりと瞬かせるミスティア様。彼女の周囲を漂っていた黒いもやが消える。
どうやら私に対する害意は薄れてくれたようだ。
「聞いていた話と違うわね……」
ぶつぶつとそんなことを呟いたかと思うと、ミスティア様は悩ましげに落としていた視線を上げ、私を見据えた。
「それならそれでいいわ。でも、貰えるものは貰っておきなさい。私は人脈にも恵まれているから、人だろうと物だろうと、あなたが望むものを用意できるもの。あんな男と結婚するのだから、少しぐらい良い思いをしても誰も文句を言わないだろうし、言わせないから安心してちょうだい」
私が欲しいものなんて一つしかない。だけどそれは、ミスティア様にどうにかしてもらっても意味がないものだし、口にしても受け入れてはくれないだろう。
シオン様の心は、シオン様にしかどうすることもできない。
「すでに王家から十分なものをいただいております。それに……とてもお優しい方ですので、私には身に余るほどだとも思っております。これ以上望むものなどございません」
「優しい……? ええ、まあ、そう思っているのなら、いい、のかしら……?」
アラン様がいつかシオン様と同じように私に愛想を尽かすことはあっても、私から異を唱えることはない。シオン様にしろアラン様にしろ、私にはできすぎた婚約者だ。
それなのに、ミスティア様の歯切れがどこか悪い。
黒いもやが出ていないので、アラン様に害意を抱いているわけではないのだろう。それに嘘もついていないことになる。
そもそも、ミスティア様はアラン様とも幼い頃からの知り合いだ。彼が穏やかで優しい、まるで春の日差しのような方だということは知っているはず。
間違っても、あんな男と言われるような人柄ではないことを、知っているはずだ。
「あの……ミスティア様」
いや、そもそも、十三歳――ミスティア様からしてみれば六歳も下の男の子を、あんな男と表現するだろうか。
まるで年の近い相手を指しているようではないか。
生まれた疑問におずおずと話しかけると、ミスティア様は眉をひそめてさまよわせていた視線を私に定め、何かしらと首を傾げた。
「あんな男、とは……どなたのことでしょうか」
「あら、そんなの決まっているでしょう」
あっさりと、なんてことのないように告げられた名前。
それは私の婚約者で、いずれミスティア様と婚約を結び直すはずの名前だった。
「あ、あの……それは、どういうことでしょうか……? どうしてここで、シオン様のお名前が?」
シオン、と聞き慣れたはずの名前なのにすぐには理解できなかった。理解しても、どうしてここでシオン様の名前が出てくるのかわからなかった。
続けて問う私に、ミスティア様が訝しげな表情になる。
「どうしても何も、あなたとシオンが結婚するからでしょう」
黒いもやはないから、嘘をついているわけではない。だからなおさら、ミスティア様の言っていることがわからない。
ミスティア様は私に婚約を諦めろと言ってきた。それなのに、私が結婚する相手にシオン様の名前を挙げている。
「……あなた、シオンとの婚約が嫌になったのではないの?」
「え、いえ、そんな、まさか……! 私にはもったいない相手だと思いこそすれ、嫌だと思ったことは……」
嘘をつかれたことも、望まれていないことも悲しかった。だけど嫌だと思ったことは一度もない。
どうすればふさわしくなれるのか。そればかり考えていた。
慌てて否定する私にミスティア様の首が傾げられる。悩ましげな顔の奥で何を考えているのか。
敵意や悪意、害意を黒いもやとして見ることはできても心の中までは覗けない。なんて中途半端な力なのだろう。
「そうなの……。てっきり、シオンに嫌気が差したのかと思ったわ。そうなってもしかたないとは思うし……でもそうじゃないのなら……」
少しずつ考えにのめり込みはじめたのか、こちらの返答を待つことなく呟きはじめるミスティア様に、どうすればいいのかと視線をさまよわせる。
ミスティア様は私がシオン様と結婚すれば丸く収まるのだと言っていた。まるで私だけが折れればいいかのように。
だけど私が聖女に――王妃にふさわしくないと思っているのはシオン様で、折れないといけない人は私だけではない、はず。
四年もの間、シオン様の黒いもやを見て見ぬ振りをしていた私の心が震える。もしかしたら、という甘い夢に浸りそうになっていた私の耳に、ミスティア様の声が届いた。
「シオンと今一度話してみる気はある? あるのなら彼の部屋を訪ねてちょうだい。今ならいるはずだから」




