11.純粋で可愛くてどこにもやりたくないエミリア
エミリアが聖女でよかった。
エミリアが王妃になる相手でよかった。
エミリアが――
彼女に捧げた言葉も想いも、本心からのはずだった。それなのに、頭の片隅で本当に? という疑問が湧く。
そのたびに、本当だと自分に言い聞かせてきた。
だがそんな、俺の考えはとうに見透かされていた。
いつからもやが漂っていたのかはわからない。いつからエミリアが気づいていたのかもわからない。
いつからだろうと、関係ないことだけはわかっている。エミリアが俺を拒絶し婚約の解消を望むのなら、覆すことはできない。
聖女が相手を選べば、よほどの理由がない限り受理されることになっている。
「……攫って逃げてしまおうか」
頭ではわかっているのに、口から零れ落ちるのはまったく別の言葉だ。
傷つけたいわけじゃない、大切にしたい。それなのに、彼女に対してよかったと思えるのは、彼女が俺の婚約者であることだけ。
聖女も王妃も、それに付随しているだけで、心の底から喜んでいるわけではない。
だから安易にどうすれば聖女の仕事をしなくて済むかを考えるし、王妃になっても社交の場に出さずに済むかを考えてしまうのではないか。
「もう……嘘はいいのです」
次から次へと湧いてくる言葉が頭の中を支配し、同時にそんな俺の考えに気づいたエミリアの言葉が頭の中を巡る。
どちらも振り切ることができないまま、ただただ日にちだけが経つ。エミリアの予定表があるので、顔を合わせず過ごすことは簡単だ。
ミスティアとの茶会にも顔を出さず、ただひたすら王太子の職務だけをまっとうする。
何も考えずに済むように――何もしでかさないように。
「シオン様……いらっしゃいますか?」
今日もまた、空いた時間をどう過ごすか考えていた俺の耳に、ノックの音が飛びこんできた。そして続いた声に体が震える。
今すぐにでも扉に駆け寄って、開け放ちたい衝動に駆られる。
だがそれはできない。どうして来たのかはわからないが、もしも今ここで彼女を――説得のよちすらなく俺のもとを去るという決断をした彼女を――目の前にしたら、何をしでかすかわからない。
エミリアを傷つけたくはない。悲しませたいわけでもない。彼女の頬が涙で濡れるのを見たいわけでもない。
ミスティアに言われなくても、早まった真似をするつもりはない。したくない。
だから耳をふさいで、彼女の呼びかけに応えないようにと口を閉ざす。
「……これで最後にしますから。だから、お願いします」
それなのに、今にも泣き出しそうな声に耐え切れなくなって、結局扉を開けてしまった。
「エミリア」
久方ぶりに見た彼女は相変わらず可愛くて、こちらを見上げる潤んだエメラルドグリーンの瞳は光を反射し、いつも以上に綺麗に見える。陽光の下では赤にも茶色にも変わる髪は、今は茶色にしか見えない。だからこそ、陽の光の下で彼女を見たいという欲求に襲われる。
そして城に来たばかりの頃には傷だらけだった肌と傷んでいた髪は、毎日丹念に手入れをされてきたからか、きらめいて見える。
滑らかな白い肌はきめ細かく、肩を流れる髪は触れなくても柔らかさを堪能できるほどで。
「シオン様……中に入っても、よろしいでしょうか」
鈴を鳴らしたかのような心地良い声が鼓膜を揺らす。
ほんの数日会わなかっただけで目を奪われたのだから、部屋に招き入れれば何をしでかすか自分でもわからない。
もう二度と外に出られないように、鍵をかけて閉じ込めてしまうかもしれない。
「いや、それは……用があるのなら、ここで聞く」
湧いてくる思いを必死に抑え、ゆっくりと後ろ手に扉を閉める。
これで無理矢理中に連れ込む可能性は減ったはずだ。
後は衝動に駆られないように注意して、何事もなくこの場をやり過ごす。それだけに集中すればいい。
そうすれば、俺の勝手な要求で彼女を傷つけなくて済む。
「……シオン様は、私にどのような嘘をついていらっしゃったのですか」
それなのに、エミリアの口から出てきた言葉が胸を衝いた。
俺の勝手な欲求に気づいたから離れようとしたのではないのでは、という期待が湧き起こる。
それならば、どうにか言いくるめることができるのでは――と。
「それは、言えない」
今にも泣き出しそうなエミリアに触れ、綺麗な言葉を、溺れるほどの言葉を――好きだとか愛しているだとか言って、彼女の心を繋ぎとめられればどれほど楽だろうか。
だができない。そんなことをしても、彼女はすぐに見抜いてしまう。それが彼女の、聖女の力なのだから。
俺の中にあるのは、どうすれば彼女が俺のもとに留まってくれるのか。どうすれば彼女が俺だけを見てくれるのか。
そのためにするべきことは何か――そんな、身勝手な欲求ばかり。
見守ると言って、温かな眼差しをアランに向けていたミスティアとは違う。
こんな醜い感情を、好きだとか愛しているだとかという、綺麗な言葉で包んでいいはずがない。
「シオン様……どうか、どうか教えてください。それがどんな真実であれ、受け入れますから……」
「……言うことはない」
殊勝なことを言うエミリアに、いっそすべて吐き出してしまいたくなる。
だがそれをすればどうなるのかなど、考えなくてもわかる。
もしも軽蔑の眼差しでも向けられたら、俺は本当に、何をしでかすかわからない。
わかりましたと言ってよりいっそう瞳を潤ませたエミリアを抱きしめたくなる。抱きしめて部屋に連れ込んで鍵をかけて――
「頼むから……今日は、もう、帰ってくれ」
湧いてくる考えを振り払おうと、思っているのとは正反対のことを口にする。
せめてもう少し冷静な時であればと願わずにはいられないが、エミリアを前にして冷静でいられる時などあるだろうか。
いや、ない。
「シオン様の幸せを、心から望んでおります……」
まるで永遠の別れのように言う彼女に、必死に耐えてきた理性が振り切れた。




