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水浸しドロップ  作者:
In fact, darkness:第一幕
14/22

感情その2

※作中の診察行為は正式な方法ではありません。また、医学的根拠等もありません。


消毒液の臭いが充満する、白い室内で目を覚ました。

浮上した意識の中でふわふわと漂いながら、うっすらと目を開ける。

寝ぼけているのか、視界いっぱいに広がる白色と明らかに自室ではない部屋に居ることに対して、疑問を感じていなかった。

何だか身体がだるい気がして、状態を確認するために両手で握っては開いてを繰り返す。

握った感触が鈍い。

少し、浮腫んでいるかもしれない。

腕を動かそうとした瞬間、言い表せない痛みが首付近に走る。

その感覚で最後に起きていたときのことを思い出した。




「おはよう安曇」




いきなり間近で聞こえてきた声に驚き、びくりと身体を震わせる。

私の名前を呼ぶ人なんて、ここに居た?

冷静な判断が取れない、すぐにでも無理矢理に思考回路を切りたくなる。

頭の中にある情景は常軌を逸するスイとがらんとした私の部屋、落ちた毛布、少し白くて暗い箱の中で起きた歪な出来事。

起きている今、起こるはずのないアクションが視界に映るような気がして、力強く瞼を閉じる。

何も分からない、知りたくない。

無知こそが恥だと自分を悔いた前世が脳裏に過る。

そんなこと、今はどうでもいい。

他者や家族から受ける暖かな感情を知ったせいで、裏切られることへの恐怖心が芽生えてしまった。

前世だって多少なりとも不安も恐怖心もあった、だけどそれは叔母さんだけに向けられたモノだ。

あのときはヒトリだったから。

支えてくれた人もヒトリだったから。

だから私は他の感情も知らず、向けられる感情の色も知らない。

身体がガクガクと震え始め、喉が引きつって目頭が熱くなる。

この世界には、暖かな人が多過ぎた。




「安曇?!大丈夫か、ゆっくり息をしなさい」




肩に触れた暖かくて大きな掌に、大袈裟なほど身体が跳ねた。

「安曇深弥」であることを肯定するかのように、嗚咽を零す私の背中を摩られる。

静かな部屋でえぐえぐと泣き始める私を、少し戸惑ったように、だけど確かに力強く支える手。

目まぐるしく脳内を駆け巡ったあり得ない光景に、喉が絞まったような息苦しさを感じてしょうがない。

それでも手は離れなかったせいか、少しずつ冷静になってきた。

どうやら蓋をしたはずの記憶の封が切れかけて、私が現実(いま)、安曇深弥であることを忘れかけていたみたいだ。

自分の体温よりも高い手の温度のおかげで次第に涙も止まり始めた。

ゆっくりと深呼吸をする。

私は、安曇深弥だ。

混同してはいけない、私は前世の私として生きているわけではないのだから。

私の積んできた人生は前世の私のモノじゃない、いま生きている安曇深弥のモノだ。

いま助けてくれる人は叔母さんではなくて、いまの私の大切な人達だ。

言い聞かせるかのように何度も何度も頭の中で繰り返す。

そうしていないと、すぐにでも此処から消えてしまいたいと思ってしまう気がした。

私はスイ達だけではなく、自分さえも怖いと思いだしたようだった。


震えの止まった身体からあの手が離れる。

無意識に手の主を見ようと思っていたのか、ゆっくりと後ろを振り返る。

柔らかそうな焦げ茶色の短髪、普段は威厳を保つために上げられている垂れ目、印象よりもお洒落な柄のシャツやネクタイ、素敵なスーツ。

そしていつも、無愛想に見える顔に浮かぶ柔らかくて控えめな笑顔。

あの手の先には、ここに来たときから良くしてくれている彼が居た。

彼が、秀薗先生が困ったように微笑んでいる。

どうやらあれは先生の手だったらしい。

その事実を頭に入れてそろりと視線を回す。

この白い部屋は、前世で画面越しに見ていたあの保健室。

この状況から考えると最後に部屋に居たはずの私をここに運んだのも先生だろう。

私はどれだけこの人に迷惑を掛けているのだろうか。

自分のクラスの生徒がひきこもりってだけでも大きな迷惑をかけているのに、どれだけ我儘を言っているのだろう。

いくつ我儘を言えば気が済むのだろう。

気づかなかったことにして好き放題してた。

先生を心配するフリをして、結局は私の我を通しているだけじゃないか。

そんな推測や後悔を考えればいいわけじゃないとわかっている。

だけれどそんな無駄な考えばかりが頭に浮かぶ。

行動出来ない中途半端な私が言って良いことではないのに。

それでも私は、都合のいいことを言ってしまう。




「せんせい、ごめんなさい…」




所詮自力で変えられることのない事実なのに、責任から逃れたくて口からするりと「ごめんなさい」が出てきた。

私は何一つ、私の為に何かをしてくれている人に恩を返せていない。

この謝罪すら自分勝手じゃないか。

最低だ、なんて最低な人間だ。

止まったはずの涙が再びボロボロと両目から落ちて行く。

早く泣き止め、泣いたって仕方が無い。

泣く奴は邪魔だ、私だってそう思う。

迷惑を掛けたく、ない…。

両手でゴシゴシと目から伝う涙を拭う。

拭っても拭っても落ちてくる、それどころかもっと溢れ出てきた気がする。

そんな勘違いさえも都合が良すぎて不愉快で、肌を強く擦る。

すると一連の様子を見ていた先生が私の手首をやんわりと持ち上げて、顔から遠ざけようとする。




「やめなさい、赤くなってる」


「せ、んせ」



先生が私を見て表情を歪ませる。

助けてもらった人にそんな顔をさせたくないのに、なのに何故私は繰り返してしまうのだろう。

悔しい、悔しい。

昔から私は何一つ返すことが出来ていない。

相変わらず溢れる涙が鬱陶しくて両方の瞼を力強く閉じる。

ああ、また胃が痛い。

キリキリと締めつけていくこの圧迫感が不快でしょうがない。

全身から寒気がする。

心なしか急速に上半身から血が落ちていっている。

怖い、この感覚はまるであのときと一緒だ。

クズミに裏切られたあの日と、一緒だ。




「安曇、落ち着きなさい。君はいま病気なんだ」




背中の向こうから声がする。

沈んでいた思考と共に浮上していく意識。

それと共に浮かんできた疑問に頭の中で首を傾げる。

私が、病気…?




「君は目が覚める前に吐血して倒れていたんだよ。診察してもらったところ、ストレス性胃炎らしい。それとは別に胃潰瘍になりかけていたみたいでね」




い、胃潰瘍…。

診察っていつの間に。

テレビでも聞いたことのあるあの胃潰瘍…。

そう言えば叔母さんが面白半分で上司が胃潰瘍になったと話していたな。

医学系番組で、胃潰瘍の恐ろしさを見ていたけれどまさか自分が予備軍になるとは…。

いや、無い無い。

そんな非現実的なことは無い、これは嘘でしょう。

先生からの新手のドッキリに違いない。

私の胃は正常だ。

そんなはずはないだろう、さすがに過保護だと思うよ。




「胃痛はいつからあるんだ」


「あ、え、…っと小学校高学年くらいからたびたび…」


「それはいつも何のときに起きていた?」


「…に、」




人間関係のもつれです…。

思い当たる節があったせいで台詞がしりすぼみしてしまう。

疑問点を見つけてしまった瞬間、ふと考える。

ずっと体質のせいだとか思っていたけれど、実際のところはどうなんだろう。

ストレスかかってるなぁ、と思うことはちょっとはあったけれど気にもしてなかった。

前世を引きずってたこともあったからかお母さんに相談したことは無かったし、その必要性を感じていなかったっていうこともある。

でも一番は、胃痛持ちを自覚していたけれど、あからさまなことは無いだろうと過信していたことだ。

え、え…?

過食はストレスで起きてるんだってことだけは自覚していたけれど実際は、ストレス性胃炎で、胃潰瘍予備軍なの?

さっきとは違い目を白黒させる私に険しい顔つきをする先生。

く、雲行きが怪しい…。




「少しごめんね、背中を触ってもいいかな?」




先生に話しかけようとしたそのとき、横から第三者の声が掛かる。

ここ、先生以外にも居たんだ…。

全然気がつかなかった。

掛けられる声は少しゆっくりめの心地のいい低音。

誰だろうか。

この声、何処かで聴いたことがある気がする。

ゆっくりと声の方向へ顔を向ける。

視界の端でフワリと揺れたミルクティー色の髪に心臓がドクリと重く鳴り響く。

予測と違う人であることを願い、そろりと顔を覗き込むと案の定その人だった。

衝撃から一瞬だけ動きが固まり、それを誤魔化すかのように小さくコクリと頷き、焦りを悟られないように元の位置に顔を戻した。

最近は自分のことで頭がいっぱいになっていて色んなことを忘れていた。

そうじゃないか、この人が居ることは普通だ。

だから怯えるな。

焦れば焦るほど私は追い詰められるのだから。




「ちょっと強く指圧しちゃうかも、少しだけ我慢してね」



近づく気配に緊張で僅かに身体が震える。

保健室に居たもう一人の人物は、養護教諭の木更津安薺(きさらづ あんざい)先生。

甘い笑顔を携えた保健室の主であり、『罪の果実』ヒロインの攻略対象者。

保健室が『罪の果実』通りならば、ここはお悩み相談からちょっとしたサボり、そして時々学園ラブコメが繰り広げられる憩いの場として有名なはずだ。

確かこの人の容姿や人柄のおかげか、この保健室はいつも賑わっているらしい。

意外と頑丈に出来ている身体なので、記憶が戻ってからの約三年間弱の中で保健室に寄る予定なんて一切なかった。

だからか、私の中で耐性が出来ていない状態になっているみたいだ。

私は、教師でもあるこの人が怖い。

頭の中にある「木更津安齋」は相変わらず空想の人物だ。

なのに恐怖を感じるなんて、可笑しな現象が起きている。

理由は思い出せない、だけども怖い。

どうやってもこの甘いマスクが、ドロドロと濁った不気味な何かにしか見えない。

触れたところから腐敗しそうな気がしてしょうがない。

今だって私に触ることで殺そうとしているのでは無いかと想像してしまうくらいに、この人に恐怖している。

押されたところからズク、と痛みを感じて瞼を閉じた。

どう、しよう。

脳味噌の中から情報が出てこない。

彼は確かペテン師のはずだ。

それだけは覚えている。

でも、でも…この人のヤンデレモードって何だったっけ…?

この人に関すること自体思い出せない。

何故だ、何故思い出せない。

ぐるぐると駆け巡る思考に目が回りそう。




「うん、やっぱり。内臓が腫れてるみたいだね。安曇さん、保険証持ってるかい?」


「え、あ、はい」




危ない、考え過ぎて話を聞いていなかった。

墓穴を掘ってはいけない。

理由は分からない、けれどもこの人は危険なのだから。

いくらここが現実だからと言って、全てが全てゲームから逸れているわけではないのだ。

あの「望月佑磨」のように。

動きの止まった私をじっくりと観察するかのように数秒見つめて、口を開く。




「親御さんに連絡するから、一緒に近くの病院へ行こうか」


「…へ?」




病、院に行く…?

何で?

純粋な疑問に帯びた目を木更津先生に向ける。




「放っておいてはいけない。医師免許を持っているからと言って、学園内にいる僕に出来ることは限られているんだよ。だから一緒に病院へ行こうか」




私を診察した人はどうやらこの人のようだ。

そんなに危ない気はしない、だけどこの人の話は信じた方がいいのかもしれない。

例え、信じたくない人からの言葉だとしても。

この「木更津安齋」は医師免許を持っているらしい。

『罪の果実』ではー…。

もういい、アレを思い出そうとするのはやめよう。

思い出せないのならいくら脳味噌を捻ったところで無駄骨、無謀な話だ。

この行為をすることで、部屋でのスイを思い出してしまいそうになる。

例えばこの目の前の「木更津安齋」が私にとって架空の人物に見えるように、私の知っている「スイ」が、私のある意味知らない『罪の果実』の「三橋彗劉」に見えてしまう。

それがとてつもなく嫌だ。

私とスイが過ごした時間は紛れもない現実だったのに、それを無かったことにするだなんて無理だ、絶対に認めない。

そんなことになるくらいならスイと引き換えにこの人が、「木更津安齋」が架空の人物であればいいのに。

そんな願いを込めて顔を上げ、後ろに居た男と目を合わせる。

合うはずがないと思っていた視線が絡み、正面から見えたギラリと光る冷たい色が私を凍り付かせる。

何故この人はあからさまな殺意を向けて私を睨むのだろう。

ふるりと身体が震えた。




「せ、先生も…秀薗先生も、一緒に来てください」




せめてこの人と二人でという事態だけは避けたい。

この人と居たら私は私ではなくなる。

少なくとも「安曇深弥」ではなくなってしまうだろう。

恐れているのはそれだけではない。

この人と一緒に居るだけで、焦って追い詰められて、いつ殺されるか分からない恐怖に呑み込まれる。

そんな非現実的を考えること自体が間違っているのだろうが、どうしても非現実的だと言い切れない私がいる。

いつか、前世で最後に見た血をもう一度見ることになるかもしれない。

殺されたくない、生きていたい。

その為に何と言われようと誰かを利用する。

もう、それでいいじゃないか。

結果なんて変わらないのだから、虚しくなるだけの考えなんてやめてしまおう。

どうせ殺されるなら遠くへ隠れて、一時でも幸せな時間を過ごした方がいいじゃないか。

少し驚いたような表情をした先生を見つめ、その口が「分かった」と動く様を焼き付ける。

今の私の味方は、先生だけ。




「…安曇」


「はい」


「もう、三橋と会わないか…?」




そうか、先生は“首”を見たのか。

その質問に瞼を下ろし、一瞬ドキリと跳ねた心臓に知らなかったふりをする。

その間も「木更津安齋」は私を見る。

善悪を判断し裁く人間かのように、じっくりと重たい視線を被せ続ける。

優しいあの頃のスイは、きっと会ってくれない。




「会いません」




絶対に、会えません。

アレがスイじゃないだなんて否定をするわけではない。

彼が不安定になるくらいの何かがあったんだろう。

じくじくと侵蝕する痛みがあるからこそ、それが何なのかを追求しようとは思わない。

私に出来ることは、この首の痛みと同等のことくらいだ。

もう彼らのことを気にするだけ無駄なのかもしれない。

スイも、クズミも、二人とも『罪の果実』の「三橋彗劉」と「苅田久住」にしか見えない私にはどうしようもない。

何でこうなったんだろう。

目尻に浮かんできた水滴を外に出さないようにもう一度ぎゅうっと瞼を閉じる。

全てが現実だと受け入れたくないけれど、また首のペリドットがしゃらんと鳴り響くから、いま感じている全ての感覚が頭の中で「目を開けろ」と叫び出す。

いつまでも逃げ続けることは出来ないんだ。

ゆっくりと瞼を開いていく。

いつ振りか見た室内に入り込む光が眩しくて、本当に泣きたくなった。




「先生…私、」




さぁ、本当の意味でのゲームを始めようじゃないか。






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