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六十九話 どうしようもなく悔しい。

 慶二が幼稚園だった――それも悠とは単なる幼馴染でしかなかった――頃の話である。


 先の宣言通り、彼は歌が好きではなかった。

 理由は単純明快。

 自分が下手だから。


 慶二が歌うと、園児たちはくすくすと忍び笑いを漏らす。

 引率の保育士たちもどこか苦笑い。


 何をどうやっても音程がずれてしまう。何度、練習しても変わらない。

 だというのに、慶二は人一倍声が大きかった。

 当然ながら、更に目立つのである。


 さて、幼稚園といえばお遊戯会というものがある。

 季節ごとに一回ずつ、保護者参観も兼ねて園児による発表を行うのだ。


 今回のお遊戯の内容は、慶二にとって実に都合の悪いことに合唱だった。


「慶二は声だけはデカいよな」


 練習中、誰かが言った。

 このあたり、子供とは容赦がないもので、平然と手厳しい言葉を投げかけてくる。

 その子としても、自分の親にいいところを見せたいのだろう。だというのに不協和音の元凶がいてもらっては困る。

 半ば当てこすりのような物言いだった。


 しかし、慶二は負けん気の強い少年である。

 一対一であれば喧嘩に負けないだけの腕力があったし、へこたれない強い意思もあった。


 どれだけ同じ年の子供に嘲られようと、止めてやろうという気持ちにはなれなかった。

 むしろ、意地のような形で更に大声で歌ってやることにした。

 ――それが理由で、余計に音痴になっている面もあったのだが。





 ある日のこと、練習が終わりお昼寝の時間がやってきた。

 少し前まで燥いでいたこともあって疲れ切っていたのだろう。

 全員が眠りの世界へ旅立つのはそう時間はかからなかった。


 しかし、そんな中、慶二をつつくものが一人。


「慶二くん……」

「……なんだよ」


 悠だった。

 無理に起こされた慶二は不機嫌を隠そうともせず答える。


「トイレ、ついてきてくれないかな」


 不安そうな表情で、何かを堪えながら()は言う。

 どうやら催した結果目覚めたらしい。

 漏らさなかっただけ僥倖だったかもしれない。

 すでに卒業していてもおかしくはない年齢ではあるが、人によってはごくまれに粗相をしでかすこともある。


 一人で行くのは怖いのだという。


 ――男のくせに情けない。


 慶二は心の中でそう呟いた。

 皆が寝静まり、静かになった幼稚園。日中とはいえ一種の不気味さがあるのも事実。

 だが、怯え震える悠の姿を見て、慶二は辛辣に評する。


 これだから俺が守ってやらないといけないのだ。

 慶二は、親分として尊大な考えをしながら


「いいぞ」


 とだけ言った。


 子供たちがすやすやと寝息を立てる中、慶二たち二人はトイレへと向かう。





 悠が用を足している間、どうにも慶二は暇になってしまった。


「慶二くん、そこにいる?」

「ああ、いるから」


 気のない返事をしつつ、辺りを窺う。

 お昼寝をしているのは慶二たちの組だけではない。年少、年長の組に関わらずである。

 今なら誰一人いない中庭を独り占めできるかもしれない。


 そんな思いが沸々と湧いてきた。

 中庭は遊び場としては人気が高いのだが、どうも女子のたまり場となりがちで慶二としては近寄りづらい。

 おままごとなど巻き込まれるのは簡便だ。


 このころから慶二は女の子にそこそこモテていたのだが、不遜なことに一切の興味を抱いていなかった。

 むしろ迷惑極まりない。

 そんなものに誘われるぐらいなら、鬼ごっこやサッカーをしていた方がマシ。


 だが問題点が一つ。

 中庭へと抜け出るには、職員室を通過しなければならない。


 この時間帯、保育士たちがお茶を飲みながら休憩しているのを慶二は知っていた。

 彼女たちに見つかれば連れ戻されるのは必至。

 見つからないよう、忍び足でそろりそろりと進んでいく。


 その折のことだった。


「――慶二くんは、あんまり歌が上手じゃないですよねえ」


 なんて声が聞こえたのは。


 ――ふん。言わせておけばいい。


 慶二は、子供じみた――事実当時は子供である――強がりで自分を奮い立たせた。

 保育士たちも口には出さないものの、園児たちと同じことを考えている。

 慶二は幼さゆえの直感で、なんとなく理解していた。

 だからこそ、驚きはない。


 が、続く言葉は別だった。


「お兄ちゃんの慶一くんは上手だったのにね」





 気づけば慶二は幼稚園の運動場へと飛び出していた。

 いくらなんでも幼稚園を抜け出しはしない。

 かつて別の園児が幼稚園を脱走したことがあり、その際大騒ぎになった記憶があるためだ。

 保育士と保護者が総出で探すだけならまだしも、誘拐の疑いありと警察までやってきてしまった。


 似たようなことを起こせば面倒なことになる。

 父からの拳骨は免れないだろう。

 慶二の父は仕事柄、あまり息子とはふれあえないのだが、その分躾をきっちりする主義らしい。


 失意から――当人は認めたくないものの――逃げ出してしまったものの、それだけの理性は働いている。

 しかし、苛立ちは収まらず、思わず駆け出してしまったというわけだ。


「ふん……」


 運動場の端にあるフェンスにもたれかかりながら、慶二は鼻を鳴らす。

 どうにも気に入らない。


 慶二は、どちらかといえばヒエラルキーにおいて上位に存在する側の人間である。

 我は強いし、運動も得意。決して頭の回転の遅い方ではない。

 だからこそ幼馴染の悠に対し、ある種傲岸不遜な態度すら取れるのだ。


 しかし、兄に関しては話は別。

 慶一は頼れるお手本であり、もっとも近くにいる上位種だった。


 何かと慶一と比較されるのは勿論、仲のいい友人ですら彼に魅了されてしまう。

 とぼけてはいるものの何処か大人っぽい慶一は、大人に憧れる子供心を擽るのだ。

 その度、慶二は何とも言えない嫉妬に苛まれ続けた。


 要するに、彼は所謂ブラコンなのである。

 ブラザーコンプレックス――ただし、コンプレックスは偏愛ではなく劣等感の方。


 現に今の慶二は慶一への鬱屈とした想いを抱えていた。


 別に歌が下手でも問題はない。そんなもの、どうとでもなる。

 そもそも自分は歌が嫌いなのだから。

 だが、兄と比較されれば話は別だ。


 兄に出来ることが、出来ない。

 ある意味では幼い弟が共通で抱く理不尽な怒りなのだが、前述のとおり、慶二はそのあたりが過剰なのである。

 むしゃくしゃとした気持ちを抱えながら、空を仰ぎ見る。

 いつの間にか、太陽は雲に覆い尽くされ、あたりは薄暗くなっていた。


 ――帰るか。


 流石に頭も冷えた。

 弟分を置き去りにしてしまったことは少しだけ気にかかる――


「慶二くん、どうしたの?」


 と、そんな中、現れたのは丁度頭に思い浮かべていた少年だった。

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