11話 ポンピドゥ・センター
「見て、この透明な部分、まるで硝子でできているみたい」
篠原はじっと俺の靴を見つめて、急にそんなことを言い始めた。篠原らしくない子供のような無邪気な笑みを浮かべている。そんな不意打ちを食らった俺は動揺を隠せたかわからない。まあ、こいつは俺がどんな風に思うかなんて気にしていないんだろうけど。
「そのデザインはフランスのポンピドゥ・センターって建物から着想を得たらしいぞ」
俺は平静を取り戻そうと、親父から聞いた蘊蓄を披露する。スニーカーオタクにとっては常識的な話らしい。
「ああ、あの美術館があるところね。言われてみれば、なんとなく似てるかも」
「おまえ、まさか行ったことあるのか?」
「ええ、小さい時母とパリに住んでたもの」
それがどうかしたの、と篠原はさも当然のように言う。庶民の俺にとってはフランスなんて、実に遠くかけ離れた存在だった。行ったことがあるだけでもすごいのに、住んでたなんてたまげてしまう。
「さすがはハーフだな、コスモポリタンってわけか」
「ハーフじゃないわ。クォーターよ、祖母がドイツ人なの」
「そうなのか、やっぱり噂は当てにならないな。ところで、フランスはいいとこだったか?」
「別に普通よ。日本の方が居心地はいいくらい。だいたい日本人は西洋に変に期待しすぎなのよ。ハーフだのクォーターだのってすぐに騒ぎ立てて、おだてるんだから。ヨーロッパ人なんて、蛮族の末裔じゃない」
どうもそれが篠原の本音らしかった。教室では決して見せることのない姿を俺に見せているのを喜ぶべきなのかはわからないが。
「でも、フランスに住んでたのはすごいと思うぞ。なかなかできない経験だ」
「ほんの2年だけよ、小さかったからほとんど覚えていなし」
「そっか。俺も小さい時、フランスに行ってみたいって思ってたな」
「どうして?」
篠原は興味ありげに俺の顔を覗いた。まいったな、そこまで食いつかれるとは思ってなかった。だが、仕方ない。
「幼稚園のとき同じ組で仲良くしてた子がフランスに引っ越したんだよ」
「へー、それって女の子?」
「そうそう、奥ゆかしい可愛い子でな。よく一緒に遊んでたんだ」
なぜか話の途中で篠原は顔を赤らめてそっぽをむいた。どうした、と俺が訊ねても、篠原はこっちを向かずにいいから続けなさいよ、とスニーカーで俺の肩を叩いた。
「まあ、今となっては顔と名前もよく思い出せないんだけどな」
「そうなの?」
なぜか篠原ががっかりとうなだれる。今日は本当に様子がおかしい。
「でも、引っ越す前の日にみんなの前でヴァイオリンを弾いてくれたのは覚えてる。すごい綺麗な音色でさ」
いまでもその響きは忘れられない。フランスに憧れをもったのは、それが原因だった。あの子が暮らしている国はきっと素敵な場所に違いないと幼い俺は思ったのだ。
「バッカじゃないの、そんなガキが弾いたヴァイオリンが上手いわけないじゃない」
昔の思い出に浸っていた俺に、篠原は無残に言い放った。
「いや、あれは本当に素晴らしかったんだが」
「うっさい、バカ」
「うおっ」
篠原がスニーカーを思い切り投げつけてきた。なんとかそれをキャッチしたが、片足立ちをしていたためかバランスを崩して転んでしまう。幸いにも他の乗客にはぶつからずにすんだ。電車が駅に着いたらしく、乗客は開いたドアから次々に出たり入ったりする。
忙しくなく動く乗客たちの間で立ち尽くしたまま篠原は床に倒れた俺を見下ろしている。
「ここでしょ、駅」
「ああ」
「さっさと行くわよ」
俺を置いて彼女は先に行ってしまった。俺は靴を履く間もなく、そのあとを追いかけた。
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