ターン193 サンサーラストレート
指が動かない!
そんな馬鹿な!
いったいどうしたっていうんだ!? 俺の左手!
今まで何回もこの「サンサーラストレート」で、オーバーテイクシステムを作動させてきたじゃないか!
今更、ビビったとかいうんじゃ――
瞬間、脳裏に映像が走った。
昨日の昼、目の前で個人参加チームの〈ライオット〉が宙を舞った光景だ。
あの車は、タイヤ破裂から事故を起こした。
そうか――
この状況は、今までとは違う。
俺の――
〈レオナ〉のタイヤはもう、限界ギリギリだ。
この状態でオーバーテイクシステムとドラッグ・リダクション・システムを作動させ、450km/hの世界に突入してしまったら――
もしその速度域で、あの〈ライオット〉みたいにタイヤが破裂してしまったら――
本能はその危険を感じ取り、作動ボタンを押す指にストップをかけているんだ。
――冗談じゃない!
ためらっている間にも、後ろからはブレイズ・ルーレイロが迫ってきているんだぞ!?
当然あいつの〈イフリータ〉は、オーバーテイクシステムもDRSも作動させてくるぞ!?
こちらも使わずに、しのぎ切れるわけないだろう!?
動け!
動け!
動いてくれ!
俺の左手よ!
このままだと、負けちまうじゃないか!
くっそーーーーーー!!
不意に、視界が暗くなった。
「……えっ?」
もう、日が昇りそうな時間帯だったはずだ。
空は明るくなり始めていたはずだ。
なのに前窓越しに見える前方の景色は、真っ暗だった。
いや――
サンサーラストレートの両脇にある篝火は燃え続けているし、正面には世界樹ユグドラシルも見える。
ただ、その篝火は移動していない。
俺も〈レオナ〉も、走っていない?
静止している?
エンジン音が、聞こえない。
そして、すぐ後ろにいたはずのレイヴン〈イフリータ〉が見当たらない。
後方モニターの中にも――
ドアミラーの中にも――
「これは……いったい……?」
不思議に思っていると、左の手首に温かさを感じた。
「世界樹の……腕輪……?」
レーシンググローブとスーツに覆われた手首で、腕輪が光っていた。
なんで衣服を透過して、光が見えるんだろう?
光は腕輪から飛び出し、人の形を取った。
白いヒラヒラとした衣を纏った、スマートな体型の女性。
幽霊みたいに透けていたけど、それは俺のよく知る人物だった。
風もないのに、なぜか微かに揺れる翡翠色の髪。
その間から生えた、長く尖った耳。
ルドルフィーネ・シェンカーだ。
彼女の両目は、空色だった。
ああ、こりゃ幻覚だな。
本物のルディは右目が機械化義眼で、金色なはず。
幽霊ルディは〈レオナ〉のドアをすり抜けながら、俺の左側に寄り添った。
「ランディ先輩。ボクはずっとここに……ユグドラシルの麓に来たかった。一緒に走りましょう」
優しい声色でそう告げると、彼女は動かない俺の左手に両手を添える。
そして上から、オーバーテイクシステムの作動ボタンを押し込んだ。
篝火が、ゆっくりと流れ出す。
前方から、後方へ。
〈レオナ〉が動き出したんだ。
ルディは再び光の塊になると、左手首の腕輪へと吸い込まれていった。
代わりに今度は右手首の腕輪から、新たな人物が現れる。
ニーサ・シルヴィアだ。
彼女も幻覚だな。
尻尾がない。
格好もおととい夢で見た、貴族っぽい服装だ。
透けているのは、ルディと同じか。
「そうよ、ランドール・クロウリィ。世界中が、あなたを見ている。走ろう、一緒に。明日の朝日と、チェッカーフラッグまで」
ニーサは俺の右手に、両手を添えた。
右手には、DRSの作動ボタンがある。
それを力強く、手の上から押し込んでくれる。
彼女もルディと同じように、右手首の腕輪へと戻っていった。
篝火の流れが加速する。
前窓に投影されているスピードメーターの表示も、パラパラと忙しく上昇して――
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唐突に、世界に光が――
〈レオナ〉にエンジン音が戻ってきた。
ついでに後方モニターの中に、ブレイズの〈イフリータ〉も戻ってきていやがる。
すでに速度は400km/hオーバー。
前窓には、オーバーテイクシステムとDRSが正常に作動中と表示されていた。
どうやら俺が作動ボタンを押せずに逡巡していたのは、ほんの一瞬の出来事だったらしい。
〈イフリータ〉もオーバーテイクシステムとDRSを作動させているにもかかわらず、まだ後方にいる。
だけど俺のスリップストリームにベッタリついて、エンジンの余力を残しているみたいだ。
――これから仕掛けてくる!
『ぶん回すだニよ! おいちゃんの組んだロータリーは……』
「壊れないんだろ!? 知ってるさ!」
言われるまでもないぜ、ヌコさん!
8年も前から、よーく分かっているさ!
もう少しだ〈レオナ〉。
この「サンサーラストレート」終わりにある最終コーナー「リヴァイアサンベンド」さえ押さえてしまえば、コントロールラインまでに抜き返されることはない。
世界一は、すぐそこだ。
最後まで、一緒に頑張ろうぜ。
俺の〈レオナ〉とブレイズの〈イフリータ〉は、連なったままユグドラシル直下のトンネルへと飛び込んでいく。
下り坂に入った拍子に車体底面が路面を擦り、激しく火花が散った。
突入した瞬間、トンネル内の大気が激しく震える。
速度は450km/hを超えていた。
内部の照明が光の線となって、消し飛んでいく。
「あっ……」
このトンネルは、レース開催時以外は公道。
なので道の端には、歩道がある。
その歩道の手すりに手をかけて、俺を見ている3つの人影があった。
こんな危険な場所に、観客が入れるわけがない。
かといって、コース係員とかでもない。
あの人達は――
父さん! 母さん! 兄さん!
この世界での家族じゃない。
地球にいた頃の家族だ。
――みんな、見てくれよ。
俺、ワークスドライバーになったんだ。
プロだよ、プロ。
しかもこっちの世界では最高峰のレース、「ユグドラシル24時間」に出場している。
そこで今、トップを走っているんだ。
俺はずっと、プロのドライバーになりたかった。
自分の走りで、お金を稼げる男になりたかった。
それは親のお金で走るのがカッコ悪いからだとか、自分の能力を世間に示したかったからとか、そんな理由じゃない。
俺は大人になりたかったんだ。
自分の力で生きていける、大人に――
この世界では、大勢の仲間ができたよ。
助け合って、笑い合って、ぶつかり合って、励まし合って、夢に向かって一緒に突っ走る仲間が。
守りたい人も、できたんだ。
父さん達に守られてばかりだった俺が、自分の力で守りたい人が。
彼女を守るために、俺は強くなってみせるよ。
だからもう、大丈夫。
父さん、母さん、兄さん――
俺はもう、自分の力で生きていけるよ。
心の声が、届いたのか――
俺が横を走り抜ける瞬間、3人の顔は笑っていた。
「さよなら……みんな……」
トンネルの出口が近づく。
今朝も少し雲が出ているせいで、まだ朝日が差していない。
それでもトンネルの出口は、真っ白に輝いて見えた。
光の精霊〈レオナ〉に誘われて、俺は光の中へと飛び込む。
ああ――
なんだか今から、新しい世界に生まれるみたいな雰囲気だな。
そういえばこの世界に転生して、気付いた時にはベビーベッドに寝ていた。
生まれ落ちる瞬間の記憶は、持ち合わせていない。
あまりのスピードに、生まれ変わると言い伝えられているサンサーラストレートか――
俺は今からやっと本当に、新しい世界へと生まれるのかもしれない。
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『絶対に、内側を開けるんじゃないぞ! なにがあっても、絶対にだ!』
なにがあっても絶対にとは、無理を言ってくれる。
生まれ変わったぜ的な余韻に浸る暇なんて、全然ありゃしない。
トンネルを脱出するなり、無線からニーサの怒鳴り声が飛び込んできた。
ニーサの奴、必死だな。
お前、そんなに俺と結婚したいの?
奇遇だな、俺もだよ。
だから絶対に、内側は開けない。
勝ってニーサと結婚する。
早いタイミングで、俺は〈レオナ〉の車体を内側へと振った。
最終コーナーへの進入ラインが苦しくなっても、構うもんか。
なにがなんでも、ブレイズには抜かせない。
露骨なブロックラインを取る俺に対し、ブレイズの〈イフリータ〉は外側へとマシンを寄せた。
『みゃあああああああーーーーっ!!』
相変わらず、ヌコさんがうるさい。
そう興奮しなさんな。
エンジン対決は、ヌコさんの勝ちさ。
スリップストリームをガッツリ使ったのに、〈イフリータ〉は〈レオナ〉に並びかけられていない。
もっともこれは、エンジンパワーが優位だったからってだけじゃないな。
ケイトさんのデザインした車体が、空気抵抗少なかったってのもある。
速度は457km/h。
最終コーナー、右の直角ターンであるリヴァイアサンベンドが迫る。
さーて。
遅いブレーキングがご自慢のブレイズさんよ。
今から俺の、生涯最高のブレーキングを見せてやるぜ!
行くぞ〈レオナ〉!
(ごめんなさい。もう無理です)
「……は?」
唐突に聞こえた、女性の声。
誰の声かと考える間もなく、車体に衝撃が走る。
これは〈レオナ〉の車体が、大気の壁にぶつかった衝撃。
まだブレーキを踏んでいないのに、DRSが勝手に解除されてしまった!
空気抵抗の少ないロードラッグモードから、ハイダウンフォースモードに変形してしまっている!
もちろんブレーキを踏み始めたら、よく止まるハイダウンフォースモードに変形してくれないと困る。
だけど今はまだ、タイミングが早すぎるよ〈レオナ〉!
強力なダウンフォースで地面にガッチリ食い付くのと引き換えに、莫大な空気抵抗がかかる。
俺と〈レオナ〉は、大気の壁に押し戻されてしまった。
代わりに〈イフリータ〉の車体が、グイッと前に出る。
おかげで俺とブレイズの位置関係は、完全な2台横並びだ。
――まだだ!
まだ、抜かれてはいない!
一瞬早く、エアブレーキが効いてしまっただけだ。
ブレイズと並走したまま最終コーナーに飛び込めば、有利なのは内側の俺。
――フルブレーキング!
世界が逆流した。
集中力を、神経を、魂を――
ブレーキペダルを踏む左足と、4つのタイヤに集中させる。
視界の左側が、赤く染まった。
隣で減速中の〈イフリータ〉。
そのブレーキローターが、ブレイズの髪みたいに赤く燃えているんだ。
そして次の瞬間――
振動が、俺を襲った。
ワンテンポ遅れて、車体の左前から火花が噴き出す。
ハンドルが取られる、この感触は――
タイヤ破裂だ!
左前タイヤが、吹き飛んでいる!
ブレイズの〈イフリータ〉は、もう隣にいない。
俺と〈レオナ〉だけが正常な減速ができず、オーバースピードの世界に取り残されてしまっている。
「く……くそっ!」
スピンしてしまわないように逆ハンドルを当て、マシンをコース内に留めるので精一杯だった。
タイヤの1つが――それも減速時に重要な前輪が無い状態で、まともな減速なんてできっこない。
コースは右に曲がっているのに、コントロールを失った〈レオナ〉は真っすぐ突き進む。
俺の眼前に、クラッシュパッドの壁が迫ってきていた。




