ターン184 マリー・ルイス
■□マリー・ルイス視点■□
ワタクシがユグドラシル島に入ったのは、予選日である29日の明け方でした。
残念ですわ。
とっくの昔に、レセプションパーティーは終了している時間です。
仕事で入国が遅れていなければ、ワタクシも参加しておりましたのに――
パーティー用のドレスも、新しく作りましたのよ?
エレガントな、桜色のイブニングドレスですわ。
そう――
南プリースト基礎学校の校舎裏にあった、「乙女の桜」と同じ色です。
元から桜色は、そこそこ好きな色でしたわ。
けれどもあの日――
桜の下でランディ様と出会ってからは、特別な色になりましたの。
この特別な色のドレスを着て、特別な人と――ランディ様と、ダンスを踊る。
きっと、素敵なひと時になるでしょう。
ケイト様やニーサ様もランディ様と踊りたがるかもしれませんが、ワタクシが独占してしまいます。
チームオーナー命令だと言えば、誰も逆らえませんわ。
ランディ様は無自覚タラシなお方ですが、恋愛事には鈍感な面もあります。
ひょっとしたらダンスパーティーにおける、ラストダンスの意味をご存じないかもしれません。
そうであれば、ワタクシがしれっといただいてしまいます。
そして最後の曲が終わった後、こう告げるのです。
「ラストダンスは、意中の女性と踊るものですのよ」
と――
うふふ――
その時ランディ様は、どのような反応をされるのでしょうか?
そのまま「ラストダンスを踊った責任をとって下さい」と迫れば、案外「乙女の桜」の伝説を実証できたかもしれませんわ。
実際には、パーティーに間に合わなかったのですけれども――
こんちくしょう!
ワタクシは間に合わないだろうと理解しつつも、一縷の望みにかけてプライベートジェットの中でドレスに着替えてしまっておりました。
ああ、ひと目でいい。
この姿を、ランディ様に見ていただきたかったですわ。
早朝なのにイブニングドレス姿で空港からタクシーに乗るワタクシを見て、運転手さんは目を丸くしておられました。
空が明るくなり始める頃に、ようやくチェックイン。
ホテルの自室に入ったワタクシは、ふとあることを思いついてしまいました。
この姿のまま、ホテル内を徘徊してはいけませんかしら?
いつも早起きなランディ様なら、そろそろ起きてこられるかも?
ちょっとだけ――
ちょっとだけドレス姿を見ていただいて、その後はすぐチームクルーの恰好に着替える。
それぐらい、いいですわよね?
寝ていないせいで、少々ハイになっていたのかもしれません。
ワタクシは、そんな突拍子もない行動に出てしまいました。
目指すは、ランディ様の宿泊している部屋。
何号室かは、把握済みですのよ?
勢いよくドアを開け、廊下の絨毯を踏みしめて歩き出した瞬間でした。
突然、隣の部屋のドアが開きましたの。
ニーサ様のお部屋ですわ。
そこから出て来た人物を見て、ワタクシは呼吸が止まりそうでした。
いえ、本当に止まってしまえばいい。
呼吸も――
心臓も――
「そんな……。ランディ……様……。どうして、ニーサ様の部屋から……」
声が掠れて、上手く喋れません。
「どうして」なんて、聞かなくても分かることでした。
ランディ様の体から漂ってくる、石鹸の香り。
それにドアの隙間から、バスローブ姿のニーサ様が見えました。
なにをしていたのかは、一目瞭然です。
「マリーさん……。俺は……その……」
ランディ様の言葉を、聞きたくはありませんでした。
なにを言おうとしているのか、分かってしまったから。
言い訳をして欲しかった。
この状況を取り繕う、下手くそな言い訳を。
それならばワタクシにも、まだ望みがあるというもの。
でもランディ様が口にしようとしているのは、言い訳ではありません。
ワタクシをあまり傷つけずに、事実を伝えるための言葉を選んでいる。
――自分はニーサ様と、愛し合っているのだと。
「なにも聞きたくありませんわ!」
聞きたくないし、見たくもありません。
ワタクシは強く、瞼を閉じました。
涙が零れ落ちる感触があります。
ああ。
自分だけが視界を閉ざしても、意味がありませんわ。
ランディ様にもニーサ様にも、見られたくない。
愛されなかったことに絶望して、惨めに涙を流す顔も。
浮かれてドレスを着たまま、ホテル内をうろついている滑稽な姿も。
「ワタクシ……馬鹿みたい……」
そうですわ。
見られないよう、消えてしまいましょう。
ドレスの裾を翻し、ランディ様に背を向けてワタクシは駆け出しました。
――どこへ? など、考えてはおりませんでした。
ただひたすらに速度を上げて、ホテルの廊下を走り抜けます。
涙で滲んだ視界の中で、ホテルの照明が――
客室のドアが――
絨毯の模様が流れて、後方へと消えてゆきました。
景色の流れと一緒に、悲しみも少しは後方へと流れて行くような気がします。
もっと――もっと速く走れば、涙と悲しみを振り切ってしまえるのでしょうか?
ならばワタクシも、レーシングドライバーになればよかった。
300km/hオーバーのスピードなら、きっと悲しみの無い世界へゆける。
いつの間にかワタクシは、ホテルの外へ飛び出しておりました。
ドレスの裾が、汚れてしまいそう。
ですがそんなことはもう、どうでもよかったのです。
外に出てからも走って、走って、走り続け――
辿り着いた先は、世界樹ユグドラシルの麓でした。
ここに来るのは、初めてではありません。
まだ、とても小さかった頃。
お母様がご存命だった頃に、家族旅行でいちど来たことがあります。
巨大な根に足を掛け、ワタクシはユグドラシルの幹へと近づきました。
そして拳を固めて、何度も何度も振り下ろします。
「ううっ! ふぐぅ! うう~っ!」
叩くたびに勢いよく涙が飛んで、ユグドラシルの幹にかかりました。
壁のような大樹の幹は、ワタクシ程度の力ではびくともしません。
ユグドラシルよ――
なんであなたは、そんなに澄ましていますの?
ちっぽけな存在である人間の悲しみなど、取るに足らないと仰るの?
「……マリーちゃん? こんなところで……そんな恰好で、何しとるん?」
背後から、聞き慣れた声がしました。
振り返るとそこには、トレーニングウェア姿のケイト・イガラシ様。
きっと今日のレース予選に備え、早朝ウォーキングでもして体調を整えていたのでしょう。
――この人は、仲間。
ワタクシと同じ男を愛し、敗れた仲間。
きっとケイト様はまだ、ランディ様とニーサ様が愛し合っていることを知りません。
知れば、ショックを受けるでしょう。
でもワタクシは、全てぶちまけてしまいたかった。
一緒に悲しみの沼へ、沈んで欲しかった。
醜い――
ワタクシは、なんて醜い女ですの。
こんな女、ランディ様に愛されなくて当然ですわ。
「……何かあったん? お姉さんに、話してみい」
(マリー、何かあったの? お母さんに、話してみなさい)
ケイト様に、亡くなったお母様の姿がダブって見えました。
もうダメ――
堪え切れない!
ワタクシはユグドラシルの根から飛び降りてケイト様の元へと走り、その胸に飛び込みました。
ワタクシの方が背は高いのですが、それでもケイト様には全てを包み込んでくれるような懐の深さを感じます。
「あああ~っ!! なんで!? どうして!? ずるい! ずるい! ワタクシ達の方が、ずっと……ずっと早く、出会っていたのに! ずっと長く、好きだったのに!」
ワタクシの言葉を聞いて、ケイト様の体が震えました。
ああ、彼女も理解してしまった。
自分は選ばれなかったのだと。
「そうなんやね……。ウチらは、届かなかったんやね……。辛かったな、マリーちゃん」
この人は――
自分だって失恋して、辛いはずなのに――
ごめんなさい、ケイト様。
でも今は、このまま泣かせて下さい。
「わぁあああああっ!」
涙で歪んだ世界の中で、ユグドラシルの葉が舞い落ちていました。
はらはら、はらはらと――
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AM10:30。
ワタクシがチームのピットに姿を現した時には、すでに予選が開始されておりました。
我らが〈シャーラ・BRRレオナ〉は、ニーサ様のドライブでユグドラシル島公道コースへと解き放たれてしまった後でしたわ。
「マリーさん……」
ワタクシの姿を見つけたランディ様が、近づいてきました。
コースを走るマシンの轟音と走行風に揺れる、金細工の髪。
深い海のような、優しい瞳。
シャーラワークスカラーの白いレーシングスーツに身を包んだ姿は、相変わらず眩しい。
口を開きかけたランディ様を、ワタクシは手で制しました。
やっぱり、話を聞きたくなんかありません。
どうせ「俺はニーサを愛しているんだ」とか、そんな内容でしょう?
それよりもワタクシが先に、言いたいことを言ってやります。
「ランディ様、291億7381万飛んで4モジャですわ」
「……へ?」
なんのことだか分からないという表情で、ランディ様は口をポカンと開け固まってしまいました。
「スーパーカートからノヴァエランド12時間、TPC耐久、GTフリークス、世界耐久選手権、そしてこのユグドラシル24時間までの間に、ワタクシがランディ様に出資した額です」
それを聞いたランディ様の額に、ぶわっと汗が噴き出しました。
あら、面白い反応。
「ワタクシはランディ様を夫として迎え、時間と体で291億7381万飛んで4モジャを返していただこうかと考えておりましたの」
「ま……マリーさん、そ……それは……」
「でもそれは、叶いそうにありませんわ。なにか別の方法で、291億7381万飛んで4モジャを返済していただかないと」
本当はランディ様個人にだけではなく、チーム全体に出資した部分も多いです。
宣伝効果やら節税やらで、会社としては充分過ぎる程の利益を得ています。
ですが少し、意地悪してやりましょう。
「どうすれば……。俺はどうすれば、マリーさんに受けた恩を返せる? 報いることができる?」
「そんなの決まっておりますわ」
ワタクシはレースクィーンのアンジェラ様から、サーキットパラソルを借り受けました。
それを畳み、綺麗に巻いて、横向きにランディ様へと差し出します。
「それは騎士剣の代わりです。表に出なさい」
そのひと言で、ランディ様はワタクシが何をさせようとしているのか察したようでした。
彼はパラソルを――剣を受け取ると、ピットの正面である作業エリアへと出ます。
ワタクシも同じように作業エリアに出て、ランディ様と向かい合いました。
ピンと空気が張り詰め、ワタクシとランディ様の近くから人がいなくなります。
大勢の人が行き交い、すぐそこのホームストレートをマシンが駆け抜けているというのに――
妙に静かです。
周囲から、音が消えたみたいに。
ランディ様は片膝で跪き、頭を垂れました。
次いでパラソルを、水平方向に掲げます。
そして本物の剣のように、抜剣する仕草を見せました。
日頃大根役者だなんだと言われているランディ様らしからぬ、迫真の演技でした。
――いえ。
これはワタクシとランディ様にとって、演技ではなく本物の儀式。
――騎士叙任式。
パラソル――剣が、そっと差し出されました。
ワタクシはそれを受け取り、先端を――切先を天へと掲げます。
BRRのスタッフ達だけではなく、周囲のピットを使っているチームからも視線が集まりました。
予選中で忙しいはずですのに、皆が足を、作業の手を止め、ワタクシとランディ様の儀式を見守っています。
ランディ様は再び頭を垂れ、両目を閉じました。
切先を、まずはランディ様の左肩へ。
力は軽く、想いは重く押し付けます。
次に切先を、右の肩へ。
そしてその体勢のまま、ワタクシは問いかけました。
「恩には走りで報いてもらいますわ。……ランドール・クロウリィ。ワタクシの騎士として、剣として、分身として、生涯走り続けることを誓っていただけますか?」
「……家族に。この世界と、転生前に過ごした世界。2つの世界の家族にかけて、誓います」
ランディ様の顔が上がり、強い決意の双眸が見開かれました。
「君がレースを走り続ける限り、俺はずっと君のドライバーで在り続ける」
その言葉にワタクシは頷き、剣をランディ様に返します。
彼は両手で恭しく、それを――ワタクシの夢を、受け取りました。
ランドール・クロウリィは、ワタクシの恋人にも夫にもなってはくれませんでした。
それでも彼は、ワタクシのもの。
マリー・ルイスのドライバーなのです。




