ターン182 ニーサ・シルヴィア
「私はね、あなたに惹かれてた」
ニーサ・シルヴィアはユグドラシルの根から立ち上がり、星空を見上げながら微笑んだ。
「例の夢に出てくる、黒髪の彼ね。あなたの傍にいると、彼の夢にうなされることが減っていったの」
ニーサが断片的に持っている、前世の記憶――と思わしきもの。
その中に登場する、「黒髪の君」という人物。
そいつこそ俺の恋敵であり、前世でのニーサの恋人であり、彼女を苦しめる悪夢の元凶だ。
「あなたの近くにいれば……。一緒の時間を重ねていけば、いつか彼のことを自然に忘れる日が来ると思っていた。……でも、無理だった。時々あなたに、彼の姿が重なってしまう」
ニーサは悲し気な青い瞳で、俺を見つめてくる。
「今夜もそう。ラストダンスを申し込まれた時、彼の姿があなたに重なって見えちゃった。やっぱり、白い服だとダメみたい」
俺は、自分の白い燕尾服を見下ろす。
ああ、そうか。
「黒髪の君」は、いつも白い服を着て夢に出てくるって話だったな。
「思い知っちゃった。私はこれからも一生、彼のことを忘れられないんだろうなって」
ニーサの笑みが、乾いたものに変化する。
辛そうだ。
「あなた、前に言ってたよね。『黒髪の君と、俺を重ねるな』って。過去の男……それもこの世、この世界にいない男を忘れられない女なんて、恋人にできるわけないでしょう?」
そう言ってニーサは「サンサーラストレート」を背にし、金網へと寄りかかった。
どうやら言いたいことは、言い終わったらしい。
――なら、今度は俺の番だ。
「確かに、『黒髪の君と、俺を重ねるな』っては言ったけどさ……。忘れてしまわなくても、別にいいんじゃないかな?」
「えっ?」
「なにを言ってるの?」と言いたげに、ニーサは目を丸くして驚いた。
「ほら。俺ってニーサみたいに断片的なヤツじゃなくて、完璧に前世の記憶がある転生者だろ? だから地球の家族のこととか、かなり鮮明に憶えているんだ」
名前は思い出せないんだけどね。
それ以外の記憶は――思い出は本当に、鮮明だ。
「そのせいでこっちの父さんや母さんが、嫌な思いをするかと思っていたんだ。間違いなくオズワルド父さんとシャーロット母さんから生まれてきたのに、別の両親との思い出もある。だからその思い出を、忘れてしまった方がいいのかなって相談したことがあって……」
あれは――こっちで何歳ぐらいだったかな?
まだ、基礎学校低学年の頃だったと思う。
「そしたらさ、言われたんだよ。『忘れるな』ってさ。『その思い出もランドール・クロウリィという人格を形作っている、大事な一部分なんだから』って」
俺の言葉に、ニーサが両手で口元を押さえた。
「ニーサ・シルヴィア……。俺は、お前が好きだ。『黒髪の君』が忘れられなくて悩んでいる、繊細なところも含めてな」
ぽろぽろと、彼女の瞳から大粒の涙が零れる。
「忘れ……なくて……いいの……?」
「もちろん、辛い部分は忘れてしまった方がいいと思う。彼が黒い穴に飲み込まれたっていう、瞬間とかさ。……でも、楽しい思い出は……愛し、愛された記憶は、大事に取っておけよ。それも俺の好きな、ニーサ・シルヴィアの一部分なんだから」
「もっと言って!」
言ってって、何を?
――なんて、聞くまでもないな。
「好きだニーサ」
「もっと言って! ……いつからだったの?」
そう問われて、記憶を振り返る。
思えば俺は――
「最初からだよ。ひと目見た時から、好きだった」
「もっと言って! ……最初の頃、私は嫌われているのかと思ってた」
もたれかかっていた金網から、ニーサがゆっくりと身を起こす。
「お前が近くにいると、胸が苦しかったんだ。それぐらい、最初から好きだった」
「もっと言って! 私もだよ。あなたが近くにいると、ドキドキし過ぎて苦しくて……。それを誤魔化すために、突っかかってた」
俺もニーサも、1歩踏み出した。
互いの距離が縮まる。
「サーキットでは、いつも姿を目で追っていた。そしてニーサの前でカッコつけたくて、必死で走っていたんだ。好きだから、認めて欲しかったから」
「もっと言って! 私もだよ。私も走るところを、あなたに見てもらいたかった。あなたの視界に、入っていたかった。だからいつも、頑張ったの」
気づけば俺達は、走り出していた。
元からさほど、距離が離れていたわけじゃない。
ニーサの姿が、あっという間に目前まで迫る。
「俺は……ランドール・クロウリィは、ニーサ・シルヴィアを愛している。ずっと……ずっと前から……」
ニーサを強く抱きしめながら、耳元で囁いた。
「私もだよ……。ずっと……ずっと前から……」
俺の胸元に顔を埋めながら、彼女はすすり泣き続ける。
ああ――
泣かせようと思っていたわけじゃないのにな。
やっぱりニーサ・シルヴィアには、勝気で自信に満ち溢れた笑顔が似合う。
それが無理なら、せめて泣き顔よりはプリプリ怒っている顔の方が――
そこでふと俺は、イタズラを思い付いてしまった。
ちょっと怒られるかもしれないけど、涙は止めることができるだろう。
「そういえばさ、ニーサ。俺ってさっきラストダンスを断られたから、例の表彰台ボーナスはまだもらってないよな?」
「へあ?」
思いもよらなかった台詞らしく、ニーサは素っ頓狂な声を上げた。
なに?
この可愛い生き物。
「ラストダンス代わりに、して欲しいことがあるんだ」
そう告げて、彼女の顎に手を添える。
「ちょ……ちょっとランドール!? なにを……」
「ニーサ、目を閉じて」
ゆっくりと、顔を近づけてゆく。
「やだ……私まだ……心の準備が……」
震える唇でそう言いながらも、ニーサはそっと両目を閉じた。
俺はそのまま、互いの息がかかるほど近くに迫って――
「今日から俺のことは、ランドールじゃなくてランディと愛称で呼んでもらおうか?」
唇が触れ合う寸前で、こう告げた。
「えっ?」
閉じていた、ニーサの瞼が開く。
イタズラ成功だ。
思惑通り、涙は止まっていた。
混乱している彼女に向かって、俺はニヤリと笑いかけてやる。
「だからさ、例の表彰台ボーナスだよ。みんなは俺のことを愛称で呼ぶのに、ニーサだけ他人行儀な本名呼びだろ? それを、変更してくれって話さ」
ニーサは俯いて、肩をプルプルと痙攣させていた。
頬は、イブニングドレスに負けず劣らずの真っ赤だ。
「……目を、閉じさせた意味は?」
「なんとなく」
もちろん、誤解させるようにわざとだ。
キスされると思って、焦っただろ?
しかし、本当に大人しく目を閉じるとはね。
惜しいことをしたな。
あのまま唇を奪っても、問題なさそうだった。
さすがに今日は、そこまでする度胸は無いけどね。
まだ、互いの気持ちが通じ合ったばかりだし。
「ランドール・クロウリィ……。覚悟はできているな?」
頬の紅潮と肩の震えが止まり、妙にニーサは冷静になった。
口調もいつものやつに、戻ってしまっている。
彼女は無表情のまま、ゴキゴキと拳の関節を鳴らした。
それ、関節に悪いんだぞ?
燕尾服の襟が、ニーサの左手に掴まれた。
右手はゆっくりと、振り上げられる。
――あ、これは殴られるな。
ちょっと怒られるかもしれないという目算は、甘かったか。
めちゃくちゃ怒ってる。
仕方ない。
この1発は、甘んじて受け入れよう。
「目を閉じろ」
ドスの効いた冷ややかな声を受けて、俺は内容を把握する前に瞳を閉じてしまう。
――ん?
これからぶん殴る時って、普通は「歯を食いしばれ」じゃないのか?
なんで、目を閉じさせる?
暗闇による、恐怖感向上のためか?
だとしたらニーサの奴、エゲツないな。
そんなことを考えながら、怒りのドラゴンパンチに備えて身を固くしていた。
すると――
不意に暗闇の中で、柔らかな感触が唇に走る。
えっ?
この感触は、いったい――
目を開くとすぐそこに、ニーサ・シルヴィアの顔があった。
本当に、すぐそこだ。
彼女の唇は、俺の唇へと押し当てられていて――
「ふ……ふん。くだらないイタズラのペナルティだ」
ゆっくりと唇を離したニーサは、そう吐き捨てた。
再び紅潮した表情と、震える声で。
――こいつ!
このドラゴン娘ときたら、本当に!
「お前……。これだけ俺を煽っておいて、ただで済むと思ってるんじゃないだろうな?」
ずいっと顔を近づけると、ニーサは手で俺の胸を押しながら1歩後退する。
「なっ!? えっ!? 煽ったなんて、私はそんなつもりじゃ……」
ジリジリと、後退るニーサ。
だけどすぐに、その後退は止まる。
もう彼女の背は、転落防止用の金網に当たってしまった。
俺は右手を伸ばし、金網を掴む。
手の位置は、ニーサの顔のすぐ脇。
壁ドンならぬ、金網ドンだ。
「だ……ダメぇ。下の道路を通る車から、見られちゃう……」
現に彼女の背後から、ヘッドライトが差している。
けれどもそんな彼女の訴えを、俺は無視した。
「知るか」
「んっ!」
これ以上、なにも喋らせない。
開けば生意気なことばかり言う口は、俺の唇で塞いでしまおう。
さっきニーサがしてきたような、ふわっとしたキスじゃない。
貪るように――
俺の体内にある熱を、全部伝えるように口づける。
呼吸をすることすら、忘れていた。
息が苦しくなって、俺は一旦唇を離す。
すると今度はニーサが俺の顔を掴んで引き寄せ、反撃してきた。
下の道路を通る車のうち、何台かは俺達の存在に気づいたかもしれない。
なにをやっているのかも。
だけど、そんなの構うもんか。
何度も何度も、俺達は唇を重ねた。
互いの唇が、腫れてしまうんじゃないかってほどに。
最後の方は、顎がガクガクになってしまった。
ようやく顔を離したところで、ニーサが提案してくる。
「ねえ、ランド……ランディ! 踊ろう!」
ユグドラシルの根っこと落下防止用金網の間には、ちょっとした平地スペースがある。
ダンスパーティーの会場とは比べるべくもないけれど、2人だけで踊るには充分な広さだ。
俺はかしこまって――
けれど少しだけおどけた調子で、彼女にダンスを申し込んだ。
「お嬢さん。わたくしと、踊っていただけますか?」
「はい! 喜んで!」
さっきパーティー会場で申し込んだ時とは全然違う返答に、心が弾む。
これが俺とニーサにとって、今夜のラストダンス。
世界樹の葉がざわめく音をBGMに――あれ?
なんか、おかしくないか?
世界樹ユグドラシルって、高さが6000mぐらいあるんだよな?
葉っぱも、メチャクチャ高い位置にあるよな?
なんで麓の俺に、葉っぱのざわめきが聞こえるんだ?
「ランディ。あなたにも、聴こえる?」
「ニーサもか? ……樹神レナード様が、気を利かせてくれているんだろう。ダンス曲の代わりだ」
「そうね。きっとそう……」
世界樹ユグドラシルと夜空の星々に見守られながら、俺とニーサは踊り続けた。




