ターン177 あなたはレーシングドライバーなのだから
「やだもう! 父さんったら、大袈裟なんだから……。病院の廊下で、ちょっとつまずいて転んじゃっただけじゃない」
実家クロウリィ・モータースに帰ると、リビングで椅子に座るシャーロット母さんがコロコロと笑っていた。
いつもと、全く変わらない笑顔で――
「サーキットには、連絡するなって言ったのよ? あなたもヴィオレッタもレース中なんだから、変に心配しちゃいけないものね」
元気な人だった。
俺が生まれてからずっと――
ちょっと風邪を引いたりぐらいはあったけど、持病もなければ大病を患ったこともない。
「そうそう。第9戦は、3位ですってね。おめでとう、母さんも嬉しいわ。明日、ご近所さんに自慢しちゃうんだから」
今だって、とても健康そうに見える。
表面上は――
「ちょっとランディ、なにを暗い顔してるの? 私と父さんがレースを観に行けなかったから、拗ねてるの? 私だって、あなたの活躍を観たかったのよ? 来年こそ、絶対現地で観戦してやるんだから」
来年も元気で、俺のレースを観に来てくれる。
それは、凄く嬉しい宣言だった。
本当にそれが、叶うなら――
「とにかく、母さんのことは心配しないで。あなたはレースに集中しなさい。次戦はもう、『ユグドラシル24時間』じゃない。くぅ~! トミー兄さんの夢に、自分の息子が辿り着くなんて……。滾るわ!」
拳を握り締め、熱っぽく語る母さん。
そんな母さんを、俺は正面から見据えて問いかけた。
「ねえ、母さん。病院での検査結果、どうだったの?」
母さんは、ニッコリと微笑みながら言い切った。
「健康そのものよ。ちょっと、運動不足って言われたわ。ダイエットしようかしら?」
「健康そのもの……ね……。じゃあ、なんで父さんは俯いてるの? なんで、ヴィオレッタの肩は震えてるの?」
クロウリィ家で、1番嘘が上手なのは母さんだ。
次いでヴィオレッタ。
父さんは、俺よりはマシといったレベル。
そんな父さんに、隠し事は無理だよ。
ヴィオレッタだって、感情を堪え切れていないじゃないか。
俺の問いかけに、母さんは肩をすくめて諦めの溜息をついた。
「ちょっと……病気が見つかっちゃったの」
「なんの病気……だったんだい?」
母さんの隣に立っていたヴィオレッタが、顔を背けた。
父さんの拳が強く握り締められ、ギリッという音を立てる。
怖い――
聞きたくない――
耳を塞いでしまいたい――
だけどここで聞かずにいたら、きっと後々ものすごく後悔しそうだ。
俺は覚悟も充分じゃないままに、母さんからの返答を待った。
「……魔晶病……だった……」
気が遠くなり、視界が歪んだ。
前のめりになって母さんを見据えていた俺は、仰け反ってしまった。
なんとか椅子の背もたれに寄りかかり、体を支える。
だけど、そこまでだ。
全身にのしかかる重圧で、俺は動けない。
魔晶病――
魔晶病だって?
俺の聞き間違いじゃないのか?
それとも、病院の検査ミスとか?
だって、魔晶病は――
「このままだと……あと半年ぐらいかなって、お医者さんは……」
「嘘だろ……? なんで? どうして母さんが……」
「まあハーフエルフには、ちょくちょく発症する人がいる病気だからね。足かな……と思っていたんだけど、脊椎の方だったわ」
魔晶病は、体の細胞がまるで宝石の原石みたいに結晶化して死に至る。
母さんのような人間族とエルフの間に生まれたハーフエルフ特有の病で、症例も少ない。
――だけどもし発症したら、治らないと言われている。
地球よりも進んでいるこの世界の医療技術を以てしても、決定的な治療法が見つかっていないんだ。
結晶化した細胞を外科手術で取り除けば、延命することはできる。
だけど、「延命」でしかないんだ。
大抵の場合は再発したり、他の細胞に転移していたりして助からない。
「ちょっとなによ、暗い顔をして。手術を受けるから、元気になるかもしれないじゃない。末期の状態から、10年以上生きたってケースもあるんだから。私はこれでも頑丈な方だから、それぐらい……」
ヴィオレッタが、涙を堪え切れなくなった。
口元を押さえ、リビングを飛び出していく。
オズワルド父さんは静かに椅子から立ち上がり、ヴィオレッタをそっと追いかけた。
そして俺は――
「なんで……? なんでなんだよぉ……? 母さんが、なにをしたっていうんだ。まだ、これから……。俺達家族は、これからもっと……」
頬を伝う涙が――
嗚咽が止まらない。
「あらあらランディ。25にもなって、泣き虫さんなんだから」
母さんは手招きして、俺を近くに呼び寄せた。
滲んだ視界の中、ふらふらと歩いて傍まで行く。
すると母さんは掌で、俺の両頬を包み込んだ。
「ふむ……。我が息子ながら、かなりの色男に育ったわね。これなら、勝機は充分だわ。……ランディ。あなたニーサちゃんに、『結婚してくれ』って言いなさい」
「えっ……? どうして母さんが、それを……?」
「何十年、あなたの親をやっていると思ってるの? 好きな子なんて、バレバレよ。……それにね、なんとなく感じていたのよ。昔あなたとニーサちゃんが一緒に住んでたってヴァリエッタママから聞かされた時、なんだかそれがとても自然なことのように思えてね」
「知ってたんだ……その話……」
「クロウリィ家で知ってるのは、母さんだけよ? いいわ。もう10年ぐらい前の話だから、時効ということにしておいてあげる。その代わり、私が生きてるうちにニーサちゃんをお嫁さんにしなさい。そしたら私も、心おきなく……」
「そんなこと! 言わないでくれよ!」
心おきなくだなんて――
死ぬだなんて、言わないでくれ――
母さんがいなくなってしまったら、俺は――
俺は――
「そうね……ごめんなさい。今の発言は、良くなかったかもね。でもね、ランディ。あなたもヴィオレッタも、大人になったわ。私がいなくなっても、生きていける」
「無理だよ……。そんなの無理だ……。転生して何十年生きてたって、俺は父さんと母さんの子供なんだ。子供でいさせてくれよ。まだまだ半人前なんだよ。父さんや母さんみたいに、立派な大人にはなれていない。だから……いかないで!」
頬を挟み込んでいた母さんの掌に自分の手を添えて、俺は情けないことを口走っていた。
本当に情けない奴だと――ガキだと思う。
前世での経験を合算するなら、俺の精神年齢は母さんと2歳しか離れていないはずだ。
なのに――
なのに――
ここはしっかりしたところを見せて、母さんを安心させないといけない場面なのに――
俺は悲しくて仕方ないのに、母さんは面白い冗談でも聞いたみたいに笑った。
「『立派な大人』ですって? やだランディ。私も父さんも、あなたが思っているほどしっかりした大人じゃないわよ? この歳になっても毎日悩んで、迷って、後悔して、自信が無くて、不安に怯えている。それでも子供の前では、なんとか取り繕って生きてきただけ」
そんなことは――
そんなことはない!
いつだって、父さんも母さんも頼れる大人だった。
俺やヴィオレッタを、ここまで育ててくれた。
働いて、稼いで、子育てをして――
それがとんでもなく大変な仕事なんだと、最近になってようやく分かってきたところなんだ。
俺には父さんや母さんみたいな、大仕事ができるとは思えない。
レースばっかり――自分の好きなことばっかりやってきた、俺とは違う!
「畜生……。なんで俺は、レーシングドライバーなんかになっちまったんだ……。ただ他人より速く、車を走らせられるだけじゃないか。そんな役に立たない仕事より、医者を目指せば良かった……。そしたら、母さんの病気だって……」
「コラ!」
突然、母さんに両の頬をつねられた。
そのまま左右に、皮を引っ張られる。
「自分の仕事を、卑下するようなことを言わない! あなたの仕事は兄さんが……トミー伯父さんが夢見て、焦がれて、追い続けて……それでも届かなかった仕事なのよ?」
「で……でも……」
「でもじゃありません! ……ねえ、ランディ。レーシングドライバーは、役に立たない仕事なんかじゃないわ。あなたや兄さんの走る姿に、母さん達がどれだけ夢と勇気をもらったのか、分かっていないでしょう?」
「夢と……勇気?」
「そう。人生で辛いこと、逃げ出したいこと、泣きたいことがあった時、人はみんなレーサーに自分の姿を重ねるの」
頬を引っ張っていた指が、離される。
代わりに母さんは俺の頭に手を乗せ、ゆっくり、優しく撫で始めた。
「足が竦んでしまいそうなスピードと、体を押し潰すG。莫大なお金と時間がつぎ込まれたマシンを、任されるという責任。それに耐えながら戦い抜く英雄達の姿を見て、『きっと自分もやれるはずだ』という勇気をもらう。それはとてもとても、素敵な仕事」
くしゃくしゃと、髪を撫でてくれる手つきが心地いい。
「ねえ、ランディ。本当はね、母さん怖いの。魔晶病の手術なんて、痛そうじゃない。それに、死ぬのも怖い。死んだ後ってどうなるか、分からないものね。だから……勇気をちょうだい」
「勇気……? どうやって?」
「馬鹿ねえ、なにを聞いていたの? 走る姿を、見せろって言ってるのよ。『ユグドラシル24時間』をね」
「嫌だ! ユグドラシルは欠場する! 手術を受ける間、ずっと傍にいるよ!」
チームの皆から、失望されてもいい。
それでも俺は、手術を受ける母さんの傍についててあげたい。
そう思っていた。
思っていたのに、母さんは心底迷惑そうな表情を向けてきた。
「はあ? ランディ。あなたが手術の時に私の傍についていて、何か役に立つの?」
「へっ?」
「あなた、自分で言ってたじゃない。『車を速く走らせられるだけ』って。医療関係者でもなければ、なんの助けにもなりはしないわ」
「ええっ? 母さん。それちょっと、酷くない?」
「事実を言っているだけよ。傍にいても、私の助けにはならない。でもユグドラシル24時間を走れば、私に勇気をくれる。どっちが役に立つかなんて、考えるまでもないでしょう?」
ああ。
母さんは優しくて、厳しいな。
「私に構わず、夢の舞台を走ってこい」
「職務を投げ出すことは、許さない」
そう言ってるんだ。
俺は涙を拭い、顔を上げる。
ヘーゼル色の瞳はいつもと変わらない輝きで、俺を見つめていた。
そしていつか聞いた言葉が、再び俺の背を押す。
「走り続けなさい、ランドール・クロウリィ。あなたはレーシングドライバーなのだから。そしてどこへ行っても、私と父さんの息子なのだから」




