ターン153 西の空へ
事故から3日目の朝――
ルドルフィーネ・シェンカーは、目を覚ました。
「ルディ! ルディ!」
ストレッチャーに乗せられて、集中治療室から一般病棟へと移される途中のルディに呼びかける。
体の至るところに包帯が巻かれて、点滴のチューブが差し込まれた痛々しい姿。
けれどもその表情は、確かに笑っていた。
「えへへ……。ランディ先輩、やっちゃいました……」
「いいんだよルディ、今は何も言わなくていい。ゆっくり休んでくれ」
「先輩……。なんでそんなに、悲しそうな表情なんですか? 全身痛いけど、手も足もちゃんとついてます。ボクは大丈夫ですよ?」
ルディは俺の頬に触れようとしたのか、右手を伸ばす。
だけどその手は届くことなく、空を切った。
「……あれ? おかしいな? 確かに先輩の頬に、触れたと思ったのに。さすがにまだ、手が思うように動いていないのかな?」
「……きっとそうだよ。怪我が治ったら、きっと大丈夫だから」
「そうですね……。なんだかまだ、眠いや。ごめんなさい、少し……眠ります……」
「ああ、そうだね。そうした方がいい。しばらくお休み」
看護師さん達に押されて、ルディを乗せたストレッチャーが運ばれてゆく。
それに続いて廊下を歩いていくミハエル先生の背中に、俺は問いかけた。
「先生。ルディはまだ、あのことを……?」
「ああ、気付いていない。俺も、言い出せなかった」
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その日の午後、ルディが再び目を覚ました時だ。
意外な客が、見舞いに訪れた。
「ルディ! 良かった……意識が戻って……。ワシは気が気じゃなかったぞ」
鬼族のヤニ・トルキだ。
「……は? ヤニさん、どうしてマリーノ国へ? ヤニさんは、ガンズ国家連邦のストックカー選手権を戦っている最中でしょう?」
驚くルディに、ヤニは得意げに答えた。
「そんなもの、欠場してきたわい」
「そんな! 何を考えているんですか!? あなたそれでも、プロドライバーですか!?」
「……チームが行けと、言ってくれたんじゃ。ワシがストックカーで所属しとるのは、タカサキのチームじゃぞ? 仲間を見舞わんでどうする」
「そっか……。ありがとうございます」
「なに、礼には及ばん。こないだのGTフリークスで再会した時みたいに、無視されんで済んでよかったぞ」
「看護師さんに手を出したら病室から叩き出して、今後は完全に無視しますからね」
軽口を叩き、笑い合うルディとヤニ。
その光景を俺とミハエル先生は、1歩引いたところから見守っていた。
ああ、良かった。
この調子なら、きっと――
「ねえ兄さん。ボクの顔に巻かれた包帯の下、どうなってるの?」
突然の質問に、ルディ以外の3人全員がギクリとした。
ヤニも知っている。
ルディがどういう状態なのか、メッセージアプリのやり取りで伝えていたからな。
「ル……ルドルフィーネ……その……」
ミハエル先生は、言葉を続けられない。
その様子を見て、ルディは視線を俺へと向けた。
そうだよな。
こういう時に役目が回ってくるのは、嘘がつけない俺だよな。
「兄さんの口からは、言えないみたい。教えて下さい、ランディ先輩。この包帯の下は、どうなっているのかを」
ゴクリと唾を飲み込む。
俺自身が認めたくないその事実を、掠れる喉から必死で絞り出した。
「右目が……無いんだ」
「そう……なんだ……。なんとなく、そんな予感はしてました」
淡々と、ルディは答える。
もっと、半狂乱になると予想していた。
片目を失う。
それはつまり、距離感を測れなくなるということ。
ならば当然――
「ボクはもう……走れないんですね……」
重苦しい沈黙が、病室を支配する。
距離感が測れない状態では、サーキットをレーシングスピードで走るどころじゃない。
公道を安全運転することすら、ままならない。
目が自慢のエルフドライバーが、それを失ってしまった。
時間を逆行させる神技ブレーキングも、空間を切り裂くような鋭いコーナリングも二度と戻ってはこない。
レーシングドライバー、ルドルフィーネ・シェンカーの選手生命は終わった。
音速の妖精は幻となって空に溶け、消えた。
誰もそれを口に出さなかったけど、全員が理解していた。
「少し……1人にさせて下さい」
俺達には、黙って病室を出て行くことしかできなかった。
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ヤニがお見舞いに来た日から、3日後のことだった。
「ルディが病室から、いなくなった!?」
再びお見舞いに訪れた俺はミハエル先生からそう聞かされて、思わず叫んでしまった。
そんな馬鹿な――
もう立って歩けるのか?
まだ、点滴の管が入っているんだぞ?
「ランディ! 悪いが一緒に探してくれ! 俺は外にある、公園の方を探してみようと思う。お前は病院内を」
俺は無言で頷いて、病院内を早足で歩き始めた。
――どこだ?
どこにいる?
ルディの気持ちを考えろ。
俺がルディと同じ立場だったら、どうしたい?
どこへ行きたい?
瞬間、最悪の想像が頭をよぎった。
――屋上だ!
看護師さんや、お医者さん達から怒られても構わない。
俺は全速力で、病棟の階段を駆け上がった。
最上階まで行き、屋上へのドアを勢いよく開ける。
どこだ!?
ルディ、どこなんだ!?
周囲を見渡すと、人影が見えた。
「ルディ―!!」
走り寄ると、やっぱり人影はルディだった。
点滴スタンドを押しながら、屋上の端へと歩いて行く。
ままならない体を、引きずるように。
「待ってくれ! 早まらないでくれ!」
「わっ! びっくりした!」
後ろから抱き着いて引き留めると、ルディは心底驚いたという表情で振り返った。
「なんなんですか? ランディ先輩。『早まらないでくれ』なんて、ボクが飛び降り自殺でもすると思ったんですか?」
「ああそうさ! 思ったよ! 生きた心地がしなかったよ! ……あんまり心配させないでくれ」
「ごめんなさい。なんだか無性に、空を見たくなったんです。西の空を……」
「西……?」
「そう、西の空。ユグドラシル島って、マリーノ国から見て西にあるでしょう? 今日は晴れているし、世界樹ユグドラシルが見えるかな~なんて。あはは……。見えるわけないんですけどね。1万kmぐらい離れているから」
「ルディ……」
「なんだか前よりずっと、遠くに感じちゃいます」
俺とルディの夢の終着点。
「ユグドラシル24時間耐久レース」が開催される、ユグドラシル島。
彼女がドライバーとしてその島を訪れることは、もうない。
「一緒に……走りたかったなぁ……」
ルディは終始、笑顔のままだ。
だけど残された左目から、涙がこぼれて頬を伝った。
「……病室に戻ろう。ミハエル先生も、心配している」
「……はい」
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俺とルディは病室に戻る途中、ミハエル先生と合流できた。
先生は涙を流しながらルディに抱きつき、「もうどこへも行かないでくれ」と懇願する。
それを見たルディは、本当に心配をかけてしまったと実感したらしい。
ミハエル先生に、何度も謝っていた。
そんな俺達が、病室前まで戻ってきた時のことだ。
「もういっぺん、言うてみいー!!」
凄まじい怒声が、病室内から響いてきた。
知り合いの女性によく似た声だけど、あまりに彼女のイメージとかけ離れた怒鳴り声だ。
その後ボソボソと男の声が聞こえたかと思ったら、続いてドカッ! と何かがぶつかる音。
間髪入れず、長身細身のドワーフが床を滑りながら飛び出してきた。
ジョージ・ドッケンハイムだ。
唇の端が切れて、血を流している。
殴られたっぽいな。
ジョージは眼鏡を外してマッチョ化しなくても、力は強いしタフな男だ。
それがこんなに殴り飛ばされるなんて、相手は誰だ?
やった人物は、すぐに分かった。
殴り倒されて廊下をスライドするジョージを追って、病室から飛び出してきた人物。
白い翼を背中ではためかせた、天翼族の女性だ。
「ケ……ケイトさん?」
「おー。ランディ君、ルディちゃん。意識戻って、良かったで。ちょっと待ってな。この腐れドワーフの根性を、叩き直さなアカンねん」
なにこの状況?
いつもはケイトさんが、ジョージにビビってたでしょう?
「ジョージ。ケイトさんに、何を言ったんだ?」
「別に……。僕は何も、大したことは言っていません。レースをやめたいと、言っただけです」
「まだ、そないなこと言うんか!? ランディ君からも、なんか言うてやって」
突然話を振られてしまった。
なにかって、言われてもな――
実を言うと、ジョージはやめたいって言い出すんじゃないかと思ってた。
だって――
「実はね、ケイトさん。俺も、やめようかと思っているんだ」
俺の言葉に、隣でルディが息を呑んだ。
「なにを……なにを言うとるん?」
わなわなと唇を震わせて、ケイトさんが詰め寄ってきた。
そのまま彼女は両手で、俺の襟首を締め上げる。
「もう、充分だろ? 俺もジョージも国内最高峰レース、GTフリークスまで辿り着いた。プロのドライバーと、メカニックになった。年間王者だって獲得した。もうレースは、やりきったよ」
「そら確かに、偉業やけど……。まだ、夢の途中やないか! 『ユグドラシル24時間』は、どないすんねん! ウチに夢を見させておいて、自分達はケツまくって逃げ出す気なんか!?」
「……ごめん、ケイトさん。俺達は、ここまでだ。もう走れない。走りたくない。モータースポーツを……レースを……もう、愛せない」
ルディの片目を奪い、ミハエル先生を悲しませ、俺やジョージを苦しめ続ける。
そんな不幸を垂れ流す存在、もう愛せるわけがない。
襟首を締め上げていた、ケイトさんの力が緩んだ。
「……アホや、2人とも。なーんも分かっとらん。しゃーない。ランディ君が気付いて戻ってくるまでは、代わりにルディちゃんに乗ってもらうしかないな」
「……え? 乗る? ケイト先輩、なんの話をしているんですか? それに、ボクの右目はもう……」
「右目のことは聞いとる。なんやねん、ルディちゃんも分かってないんか? ジブンらレーシングドライバーはな、頭でマシンを降りたいとか考えても降りれる人種やないねん。降りれるのは、本当に走れなくなった時だけや。メカニックやエンジニアも、似たようなもんやで」
「……距離感が、全然掴めないんですよ? 走れるわけないじゃないですか!」
「コーナーまでの距離測る機能を、マシンに追加したらええんちゃう? 元々GTフリークスマシンには、レーダー機能があるやろ? ドライバーの機能が追いつかんなら、後は機械頼みや。車両規則で認められん言うなら、規則を改正させるよう働きかければええ」
無神経に言い放ったケイトさんに、さすがに俺も腹が立った。
「ケイトさ……!」
抗議しようとした俺を手で制したのは、傷つけられたはずのルディだ。
「機械頼み……。ひょっとして、あそこなら……。確かまだ、連絡先が残って……」
ブツブツと呟くルディを見て、ケイトさんは満足げな笑みを浮かべた。
「なんや。女の子の方が、ずっと立ち直り早いな。やのに野郎どもは、いつまでもウジウジと……。時間の無駄や! とっとと復帰せい!」
「いや。復帰もなにも、まだ辞めてないんだけど……。チームとの契約があるから、今年のGTフリークス最終戦までは走るよ」
俺の言葉に、ケイトさんはフンッと鼻を鳴らす。
「ちゃうな! 全裸賭けてもええ! 『今年のGTフリークス最終戦まで』やのうて、『ユグドラシル24時間で勝つまでは』になるで」




