ターン151 空の色、瞳の色
カチカチと、奇妙な音が聞こえる。
なんだ?
この音は?
時間が止まったかのように静かなピット内で、その音だけが耳障りに頭の中まで響いてくる。
――ああ、なんだ。
自分の奥歯が震えて、打ち鳴らされる音じゃないか。
俺の奥歯以外にも、震えているものが視界に映った。
マリーさんの唇と肩だ。
「そん……な……ルディ……様……。嘘でしょう?」
マリーさん、嘘に決まっているだろう?
なんだよ、あの漫画みたいな車の飛び方は。
あんな光景、現実のものであるわけが――
『これは……! これは大変なことになってしまったー!! 「ジェット・トゥ・ジェット」終わりの右コーナーで、ルドルフィーネ・シェンカーが激しいクラッシュ! コース外へと、飛び出してしまったぞ! ドライバーは!? ドライバーは、無事なのか!?』
やめろ!
そんな実況放送、聞きたくない!
こんな現実が、許されるはずは――
「お……お兄ちゃん。ルディさん、大丈夫……よね?」
褐色肌のヴィオレッタでも、血の気が引いている時は分かる。
唇も真っ白だ。
何をやっている、ランドール・クロウリィ。
マリーさんやヴィオレッタを、不安にさせるな。
「きっと大丈夫だ」と、言え。
――ダメだ。
顎が動かない。
いや。
顎だけじゃない。
金縛りにでもあったみたいに、全身が動かない。
「現場へ……現場へ行くぞ! ついて来い! ランディ! ジョージ!」
チーム内で真っ先に冷静さを取り戻したのは、アレス・ラーメント監督だった。
いつもは穏やかに喋るのに口調が激しかったから、ひょっとしたら全然冷静じゃなかったのかもしれない。
俺もジョージも、弾かれたように走り出した。
先に走り出していたアレス監督を追って行くと、ピットロードを走行中のレッカー車に出くわした。
救助作業の増援として、事故現場に向かう途中だったらしい。
アレス監督が、レッカー車のドライバーに懇願する。
「頼む! 私達も、乗せてくれ!」
着ているチームシャツや帽子から、俺達が事故車両の関係者というのは一目瞭然。
レッカーを運転する係員さんは緊迫した声で短く、「乗って」と言ってくれた。
アレス監督は助手席に、俺とジョージは後部のクレーンにしがみつく。
俺達を乗せたレッカー車は、すぐに走り出した。
――遅い!
レーシングカー以外の車で走ると、こんなに遅く感じるもんなのか?
くそっ!
〈サーベラス〉なら、あっという間に事故現場まで辿り着けるのに――
「……遅いですね」
「ああ、俺もそう思う」
ジョージが先に言ってくれたおかげで、少しは苛立ちが収まった。
代わりに胸が潰されそうなほどの不安が、押し寄せてくる。
その不安を煽るように、バタバタとした音が聞こえてきた。
「ヘリポートに待機している、ドクターヘリの音ですね。いつでも飛べるよう、回転翼を回し始めたのでしょう」
「……大丈夫さ。きっとルディは無事だ。ドクターヘリなんて、出番はないよ。サーキットの医務室でメディカルチェックを受けてひと晩ベッドで休んだら、明日にはまた元気な笑顔を見せてくれるって」
俺自身、まったく信じていないことを口にする。
あれだけ激しい事故だったのに、それだけで済むわけがない。
済むわけがないんだ。
「ええ、そうですね。きっと、ランディの言う通りです」
俺が自分の言葉を信じていないのは、ジョージだってよく分かっているだろう。
それでも話を合わせてくれる気遣いが、とても有難かった。
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事故現場には、思わず目を逸らしたくなる光景が広がっていた。
引きちぎられたガードレール。
力なく地面に倒れた金網フェンス。
周囲に散らばるカーボン製部品の残骸。
それら事故の爪痕の先にある物体がなんなのか、分からなかった。
分かりたくなかった。
車どころか、箱型すら保てていない。
あんな変わり果てたものに、ルディが乗っていたと思いたくない。
すでに現場にはファースト・レスキュー・オペレーションが駆けつけ、救助活動が始まっていた。
車外へと救出されたルディに、ドクターが応急処置を施しているようだ。
ようだというのも、救助スタッフに取り囲まれていてルディの姿は見えない。
チーム関係者とはいえ、救助・救命の素人である俺達がそれ以上近づくことは許されなかった。
確認できたのは人垣の間から覗く、ぐったりと横たわったルディの足。
そしてサービスロードのアスファルトに、点々と描かれた黒い紋様。
それが血だと頭では分かっているのに、オイルか何かだと思いたい自分がいる。
呆然と立ち竦んでいると、頭上から風が吹きつけてきた。
ドクターヘリだ。
ヘリポートにいるはずのドクターヘリが事故現場まで飛んできたということは、一刻も早く病院へ搬送する必要があるんだ。
ストレッチャーに乗せられる時、ルディの腕がだらりと垂れ下がっていた。
それを見て、俺は心臓を握り潰されたような気分になる。
あの手――
一緒にチャンピオンになろうと、握手を交わした右手――
思わず、自分の右手を見つめてしまう。
あんなに温かさが――情熱が伝わってきた手だったのに。
ひょっとしたらもう、冷たくなっているんじゃないのか?
そんな考えを振り払いたくて、そのまま右手で額を叩く。
額と一緒に、瞼も押さえた。
何も見たくない。
そうやって現実逃避しているうちに、ヘリの音が大きくなった。
飛んでゆく――
ルディを乗せたヘリが、空に舞い上がってゆく――
雲ひとつない青空だった。
ルディの瞳と、同じ色だ。
なのに残酷で突き放してくるような色に見えるのは、なんでだろう?
「……ピットに戻るぞ。現場に来ても、結局何の役にも立たなかったな……」
アレス監督の言葉が、やけに癇に障った。
ちょうど俺が、無力感に打ちのめされていたからかもしれない。
思わず掴みかかろうとして――やめた。
監督が、憔悴しきった顔をしていたから。
「役に立たなかった」という言葉が、自分自身を責めているものなんだということはすぐに理解できたから。
掴みかかろうとして振り上げた手を、そのままそっと監督の肩へと置く。
「ええ、戻りましょう。チームの皆に状況を説明して、搬送先の病院に行かなきゃ」
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病院の手術室前。
そこには、ラウドレーシングの主要メンバーが集まっていた。
ソファに腰かけ、眉間を指で揉みほぐしながら項垂れているアレス監督。
チーフエンジニアのタイジーさんは、何度も「わたしのせいだ」と呟きながら、頭を掻きむしっている。
マリーさんは頻繁に手術室前を離れては、戻ってきていた。
病院の外に出て、仕事関係の連絡をしているらしい。
社長だから忙しいはずなのに、スケジュールを調整してここに残るつもりみたいだ。
ジョージは放心していた。
伊達眼鏡はずり落ちて、ほとんどかけていない状態だ。
なのに、変身していなかった。
痩せ細ったままの手足は、いつもよりずっと弱々しく見えた。
レースクィーンのアキラさんは同じ女の子、同じエルフということでルディと仲が良かった。
彼女は、ただひたすらに泣いていた。
大好きなヴァイさんがチームを去った時でさえ、ここまで泣いてはいなかったのに――
シャーロット母さんとオズワルド父さんも来ていた。
ジュニアカート時代、ルディはよくクロウリィ家に来てトレーニングしていた。
だからウチの父さんとも、親しくしていた。
母さんにいたっては、RTヘリオン時代の監督だ。
実の子である俺達と変わらないぐらい、ルディを可愛がっていた。
一心不乱にルディの無事を祈る母さんの肩を、父さんは優しく抱き留めていた。
そして俺は、隣で震えているヴィオレッタの頭を撫で続けている。
本当は、自分が誰かに慰めて欲しかった。
励まして欲しかった。
だけど俺は、兄貴だから。
地球の兄さんだったら俺が震えている時、慰めたり励ましてくれたはずだから。
そう思うと、泣き言は言えなかった。
不意に、手術中のランプが消えた。
皆が一斉に、期待と不安の入り混じった視線を手術室のドアへと向ける。
あまり間を置かず、ルディと同じエルフ族の執刀医が出てきた。
手術の結果と、容態の説明が始まる。
「手術は成功です。一命は、取り留めました。ですが――は、――りません」
なにを――
いったいなにを言ってるんだ? この先生は?
間違いだよな?
きっと手術直後で疲れているから、ボーっとして間違えた説明をしてしまったんだ。
そうでないなら、俺の聞き間違いだ。
だけど聞き間違いじゃないことは、すぐに分かった。
分かってしまった。
ヴィオレッタと母さんが、泣き崩れたから。
本当――なんだな――
だとすると、ルディはもう――
こんな残酷な事実を、ルディのお兄さん――ミハエル先生に、伝えないといけないのか?
俺には無理だ。
チラリとアレス監督を見る。
立場上、ミハエル先生にルディの容態を伝えるのは監督の役目だろう。
監督も充分承知しているらしく、苦しそうな顔で頷いてきた。
ミハエル先生、まだ来ないでくれ。
俺は残酷な事実を告げられて苦しむ先生も、告げて苦しむ監督も見たくない。
「はぁ、はぁ、はぁ……ランディ?」
背後から聞こえた声に、背筋が震える。
まさか――
早すぎる。
ミハエル先生はルディと一緒に、今は東地域のブラックダイヤモンドシティに住んでいたはずだ。
中央地域にあるこの病院まで、こんなに早くは来れないはずだ。
ゆっくり振り返ると、そこには見たくなかった顔が――
額にびっしりと汗をかき、息を荒げて駆けつけたミハエル・シェンカー先生の姿があった。
いつもと違い、ヒゲをきれいに剃り落していたミハエル先生。
そのせいで、唇が震えているのがよく分かる。
アレス監督が挨拶し、状況を報告しようと1歩踏み出す。
だけどミハエル先生は、俺の方へと駆け寄ってきた。
藍色の長髪を振り乱す先生に、両肩を掴まれる。
「ランディ! 教えてくれ! 妹は……ルドルフィーネは、大丈夫なのか!?」
取り乱す気持ちは、良く分かる。
俺もヴィオレッタが事故に遭ったら、きっと冷静じゃいられない。
だけど取り乱すにしても、俺に詰め寄ってこないで欲しい。
出鼻をくじかれて、アレス監督が引き下がっちゃったじゃないか。
このままだと、俺がルディの容態を説明しないといけなくなるじゃないか。
分かってる。
俺は、ミハエル先生の元生徒だ。
ルディの上司だけどあまり知らないアレス監督より、俺の方が話しかけやすかったんだろう。
俺は諦めて、掠れる喉から言葉を絞り出した。
「一命は、取り留めました。だけど――は、――ないって執刀医の先生が……」
ミハエル先生は、俺の両肩から手を離した。
「あ……あ……ああ……そんな……。嘘だろう? 嘘だと言ってくれよ、ランディ。お前、嘘が下手くそな奴だったじゃないか。いつの間に、そんなに嘘が上手くなったんだよ?」
「嘘じゃ……ありません」
先生の両膝が、床の上に落ちた。
皆がそうであってくれと願う叫びが、先生の口から溢れ出す。
「嘘だぁーーーーー!!!!」




