ターン135 参戦すると言われても、今さらもう遅い
優しい風が、俺の頬をそっと撫でる。
展望公園内に植えられている広葉樹の葉が、サワサワと優しいBGMを奏でていた。
それに合わせて、マリーさんの縦ロールもゆっくり揺れる。
園内照明の光を、反射しながら――
閉じられた瞳と、少し突き出された唇。
いわゆる、「キス待ち」と呼ばれるポーズ。
マリーさんの頬が薄桃色に染まっているのは、お酒に酔っているからなのか。
それとも、恥ずかしいからなのか。
ついに来てしまった。
この瞬間が。
いつものように、好意に鈍感なフリをして有耶無耶にすることが許されない状況が。
ああそうさ、俺は気付いていたよ。
ケイトさん。
ルディ。
マリーさん。
3人から、真剣に好意を寄せられていることに。
気付かない方が、どうかしている。
たぶん俺が好意に気付いていることに気付いていないのは、彼女達3人だけだ。
宇宙クラス大根役者の俺だぞ?
そんな俺のすっとぼけに気付かないなんて、本当に恋は盲目というかなんというか――
周りはみんな、気付いている。
第1戦のスモー・クオンザでジョージが「誰か1人に決めろ」と言ってきたのは、そんな俺の態度が気に食わないからだろう。
自分でも、不誠実だと思う。
そりゃ彼女達のように、中身も見た目も魅力的な女性から思いを寄せられていることは嬉しいさ。
光栄だと思う。
だけどもし、俺が彼女達のうち誰かの気持ちに応えてしまったら?
恋人同士になってしまったら?
果たして、今のような関係でいられるだろうか?
仲間としてお互いを信頼し、一緒に勝利へ向かって突っ走る。
あるいはライバルとして、コース上で火花を散らしてぶつかり合う。
恋人同士より、魂が近しいと思える存在。
そんな関係には、二度と戻れないんじゃないのか?
特にマリーさんとは、スポンサーとドライバーの関係。
昔は俺をプロにはさせないとかなんとか言っていたけど、今はそんなことはないだろう。
恋人同士になろうが、今と変わらない支援をしてくれるはずだ。
でもそれは、ランドール・クロウリィというドライバーを見てくれていることになるんだろうか?
恋人だから支援してくれるという関係に、なってしまうんじゃないだろうか?
俺は怖いんだ。
スポンサーとしてレースを戦う、彼女の剣でなくなってしまうのが。
だからもう少し、今のままの関係でいたい。
今のままの関係で――いたいのに――
なんでマリーさんの顔が、近づいてくるんだ?
なんで彼女の唇が、大きく見える?
ベビーピンクの口紅とグロスで仕上げられた、可愛らしくて柔らかそうな唇。
それが俺に、少しずつ迫ってきていた。
――違う。
近づいているのは、俺の方だ!
――やめろ!
そんなことをしたら、俺とマリーさんの関係は――
だけどもし、ここで何もしなかったら?
それはそれで、マリーさんを傷つけてしまうんじゃないのか?
結局、こうする以外の道は無かったのか?
頭がぼんやりとして、いい考えが浮かばない。
きっとお酒のせいだ。
ああ、もう歯止めが効かない。
アルコールに流されてこんなことをしてしまうなんて、本当に俺は最低な野郎だ。
もう二度と、お酒は飲まない。
そう心に決めた時、鋭い風切音が聞こえた。
近づいていた、俺とマリーさんの顔。
その中間点を、なにか細長いものが走り抜ける。
傘だ。
傘が閃光のように空を切り裂いて、俺達のすぐ隣に生えていた広葉樹の幹に突き刺さったんだ。
なんだよコレ!?
傘は槍じゃないぞ!?
こんな非常識な真似をする奴がいると、傘メーカーさんも説明書に書かないといけなくなるじゃないか。
『武器として投擲しないで下さい』ってさ。
ガスッ! という大きな音に驚いて、マリーさんも目を開けた。
金属製の先端を幹にめり込ませてビヨンビヨンしている傘を見つけ、驚きのあまり口元を押えている。
俺は傘が飛んできた方向へと、視線を走らせた。
そこに立っていたのは、真っ赤なチャイナドレスに身を包んだ女性だ。
――今夜はやたらと、チャイナドレスに縁があるな。
腕を振り抜いた、フォロースルーの姿勢を取っている。
傘を投げたのは、彼女で間違いなさそうだ。
誰だ?
このゴージャス系美女は?
青い瞳に、プラチナブロンドの髪。
頭の上で左右1個ずつのお団子を作り、それに水色のカバーを被せた髪型。
こんな子、知り合いには――
――あ。
金色のドラゴン尻尾が見えた。
ニーサ・シルヴィアじゃないか。
髪型と格好がいつもと全然違うから、分からなかったぜ。
「……どういうつもりですの?」
マリーさんが、ビックリするぐらい冷たい声で尋ねた。
「私は……その……。マリーさんが、ランドールの毒牙にかからないように……」
いつも堂々とした態度のニーサらしくない、戸惑った声と表情だった。
追い打ちをかけるように、マリーさんは詰め寄る。
「ずいぶん卑怯な言い訳をなさるのですね。あなたが追ってこないよう、べッテルとキンバリーには足止めを命じていたはずです。彼らを倒して、ここまで辿り着いたのでしょう? ワタクシの想いは、分かっているはずですわ」
「それは……」
「あなたは自分の意思で、ワタクシの邪魔をした! それすら認めないというのですか!? ふざけないで下さりますの!」
ケンカをしたら、竜人族な上に一流アスリートでもあるニーサの方がずっと強い。
だけど今、マリーさんは恐ろしい剣幕でニーサを圧倒していた。
「知っていますのよ? ニーサ様にはランディ様の他に、忘れられない殿方がいらっしゃるのでしょう? そんな方が、ワタクシ達の戦いに割り込んでこないで下さる?」
ニーサも俺を?
いや、そんなはずはない。
会う度にケンカ腰で突っかかってくるし、数日前に最低呼ばわりされたばっかりじゃないか。
項垂れているニーサの横に並びかけながら、マリーさんは鋭い視線を投げつけた。
「5年です。ワタクシはあなたより、5年も早くランディ様と出会った。まあケイト様の方がさらに早く出会っていたのですが、あの方はランディ様よりかなり年上ですからね。脅威ではありません」
マリーさん。
それケイトさんの前では、絶対言わないであげてね。
25歳になった去年の誕生日をお祝いした時、
「四捨五入したら30……四捨五入したら30……」
って、虚ろな目で呟いてたんだから。
それに6歳年上ぐらいなら、俺は気にしない。
「もう遅いのですわ。今さら出しゃばってきても。……さあランディ様! 先程の続きを!」
「えっ!? ちょっとマリーさん、この状況で? ニーサの前で?」
語尾が元に戻っていたから、てっきり酔いが覚めたんだろうと思っていた。
だけどこれは、絶対まだ酔っている。
マリーさんは俺の顔面を両手の平で挟み込み、逃げられないようにしてから唇をむちゅ~と伸ばしてきた。
なんだこれは?
さっきの吸い寄せられるような可愛らしさは、どこへ飛んでいった?
これじゃまるで、酔っ払って女性社員にセクハラするエロオヤジじゃないか。
こんなムードの無い状況でキスは嫌だと、俺の乙女心が全力で警鐘を鳴らす。
目線でニーサに助けを求めても、彼女は「ああ……」とうろたえるばかりで動けない。
誰か――
誰か助けてー!
そんな俺の願いを聞き届けてくれたのは、人じゃなくて機械だった。
ブーンブーンという、くぐもった低い鳴動。
携帯情報端末のバイブレーター音だ。
最初は聞こえないフリをしていたマリーさん。
だけど長く鳴るもんだから仕方なく、俺の顔から両手を離しハンドバッグへ手を突っ込んだ。
「……うっ! なんてタイミングですの!」
携帯情報端末画面を見た、マリーさんの表情が曇る。
なにか、仕事上のトラブルでも起こったか?
マリーさんは俺に背中を向けていたから、意図せず画面が見えてしまった。
そこには通話しようとかけてきている人物の名前が、はっきりと表示されている。
『ケイト・イガラシ』。
慌てたマリーさんは、操作を誤ったらしい。
音声のみの通話じゃなく、3Dホログラムのビデオ通話機能を選択してしまった。
ケイトさんの上半身が立体映像で描き出され、画面からニョキっと生えてくる。
小人サイズのケイトさんは表情がやつれ、目が血走っていた。
深いクマも、刻まれている。
ここまで表情が判別できるなんて、最新携帯情報端末の立体映像技術は凄いな!
『ま……マリーちゃん、聞いて~! ウチの会社、めっちゃブラックやわ! 若造のウチに、とんでもない仕事を押し付けてきよった! こんなビッグプロジェクト、絶対無理やねん。ほっぽり出して、中央地域に帰りたい~!』
「そ……そうですの。大変ですわね。でもそれはケイト様が優秀だから、会社も大きな仕事を任せたのではありませんの? チャンスですわよ?」
『出世や評価なんて、どうでもええねん! もう3日間、職場にカンヅメや。お風呂にも入れてないねん。今のウチ、めっちゃ臭いで。こんな姿、ランディ君には見せられ……あれ? マリーちゃんの後ろにいるの、ランディ君ちゃうん?』
あっ、しまった。
携帯情報端末のカメラに、映る位置だったか?
『あ~。GTフリークスの第4戦で、ナタークティカ国のアンセムシティにおるんやな? ……ん? 時差を考えても、真夜中なんちゃう? こんな時間に、2人で何しとんねん?』
「それはその……あの……」
今度はマリーさんがさっきのニーサみたいに、しどろもどろになってしまった。
俺も何か言った方がいいのか悩んでいると、ズボンの尻ポケットが震えた。
GTフリークスドライバーになってからようやく持ち始めた、地球でいうスマートフォンサイズの小型携帯情報端末だ。
取り出して、画面を確認する。
俺のも着信通知だ。
『ルドルフィーネ・シェンカー』。
俺はマリーさんと同じく、3Dビデオ通話機能を立ち上げた。
画面から笑顔のルディが飛び出してきて、興奮気味にまくし立てる。
『ランディ先輩! ラウネスネットのニュース、見ましたよ! 第4戦は、優勝ですって!? 凄い! おめでとうございます……って、邪魔ですよブレイズさん! 画面に割り込んでこないで下さい!』
何かをカメラの撮影範囲外へ、押し戻そうとするルディ。
一瞬だけチラリと、ブレイズ・ルーレイロの長い赤髪が見えた。
『フン! 少しはやるじゃないか、ランディ! だけど君は僕のライバルで、数周とはいえパパを抑え込んだ男なんだ。優勝ぐらい、もっと早く達成してもらわないと……』
――あ、蹴った。
ルディがヤクザキックで、ブレイズを完全に排除したみたいだな。
ルディとブレイズは今年、「GT-Bワールドチャレンジ」というカテゴリーでコンビを組んでいる。
車はGTフリークスより遅いGT-Bマシンだけど、世界中を転戦するカテゴリーだ。
熱っぽく、賛辞の言葉を並べてくれるルディの周り――つまりは携帯情報端末の画面に、次々とメッセージ通知が流れてくる。
シャーロット母さん――
オズワルド父さん――
妹のヴィオレッタ――
ヌコさん、クリス君、グレン先輩、キース先輩、ポール、アンジェラさん、ジョージの父親であるドーンさん。
おっ。
鬼族のヤニ・トルキからもきた。
あいつは今、ガンズ国家連邦でストックカーに乗っているんだったな。
メッセージ本文は一部しか表示されていないけど、どうやらどれも優勝に対するお祝いのメッセージみたいだ。
「大人気……ですのね……」
俺の画面を覗き込みながら、マリーさんはちょっと困り顔になってしまった。
「ふふふ……仕方ありませんわね。ワタクシがランディ様を独占するには、時期がまだ早すぎるようです。お酒の勢いで……というのも無粋。当たり散らして、申し訳ありませんでした」
マリーさんはニーサに向かって、深々と頭を下げる。
「いや……そんな……。こっちこそ、ごめんなさい。危ない真似をして」
ニーサの方も、頭を下げる。
っていうか、俺にも謝ってもらおうか?
あの傘マリーさんじゃなくて、俺に当たりそうな軌道だったんだけど?
「……帰りましょう」
マリーさんの言葉を待っていたかのように、レンタカーらしきワゴン車が公園の入り口に停車した。
ちょっとよろけながら執事服姿のベッテルさんが降りてきて、
「お迎えに上がりました」
と告げる。
「ベッテルさん。さっきはすみませんでした」
またも頭を下げるニーサに対して、ベッテルさんは不敵に笑いかけた。
「ニーサ様は、お強いですな。本気を出した私とキンバリー、2人がかりでも敵わぬとは」
キンバリーさんの姿はない。
ニーサの奴、再起不能なまでにやっつけてないだろうな?
チャイナドレス竜人族。
元傭兵執事。
変態メイド。
この3人でどんな激戦を繰り広げたのか、気になるような聞きたくないような――
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展望公園からの帰り道――
俺、マリーさん、ニーサは、ワゴン車の後部座席で揺られている。
その間も、携帯情報端末は通話モードにしたままだ。
画面の向こうにいるケイトさんやルディも交えて、5人でワイワイと話しながらドライブを楽しむ。
きっと、いつまでもこんな時間が続くわけじゃない。
だけどお願いだ。
もう少し――
もう少しだけ――




