ターン119 俺のケツを拝んで走ってもらおうか?
■□ニーサ・シルヴィア視点■□
また、あの夢だ。
小さい頃から何度も見てきた、いつもと同じ悪夢。
愛するあの人が、黒い穴に飲み込まれそうになっている。
なのに私は、何もできない。
なんて――
なんて無力な自分。
どれだけ手を伸ばしても、あの人には届かない。
私の足は、その場から1歩も踏み出せていないのだから。
もっと――
もっと遠くまで。
もっと――
もっと速く。
私の方から、動くことができたら――
そうしたら、間に合うかもしれない。
彼が黒い穴の向こうへ消えてしまう前に、私へ向かって伸ばされた手を掴むことが。
だから私は、速く走りたいのか――
あの人の元へ、駆けつけられるように。
もっと――
もっと速く――
今日も同じように、消えゆくあの人に向かって手を伸ばす。
そして泣き叫び、届かない手をめいっぱい伸ばしながら目を覚ますんだ。
いつものことなのに、この悲しみと喪失感にはいつまでたっても慣れない。
諦めを感じながら、今日も私は手を伸ばす。
ふとその時、届かないはずの手に感触が生まれた。
「……え?」
黒い髪と瞳の彼ではない。
金色の髪を風に揺らしながら、青い瞳で正面から見つめてくる男。
私の手を握り締め、挑戦的な笑みを浮かべている。
青いレーシングスーツに身を包んだ、その男は――
■□■□■□■□
□■□■□■□■
■□■□■□■□
□■□■□■□■
「……気安く触るな、ランドール・クロウリィ」
自分の声で、目を覚ます。
開いた視界の中に飛び込んできたのは、モーターホームの天井だった。
そうだ――
私は今、「ノヴァエランド12時間」を戦っている真っ最中。
走行中に、クールスーツが故障したんだ。
それで暑さにやられて意識朦朧になってしまい、ピットインした。
そして自チームのモーターホームに担ぎ込まれ、点滴を受けているうちに眠ってしまったんだ。
「レースは……レースはどうなったの?」
起き上がって状況を確認しようとした時、何かが私の左手を拘束していることに気づいた。
「なっ! 馬鹿! 貴様どういうつもり……」
私の手は、男の手と繋がれていた。
しかも指と指を絡ませる、恋人つなぎというやつだ。
思わず抗議の声を上げようとしたけど、それは無意味だと気づいて口をつぐむ。
眠っている奴に文句を言っても、仕方ない。
手の主――ランドール・クロウリィは私が寝ているベッドの傍らでうずくまり、眠りこけていた。
こいつがここにいるということは、今はクリス・マルムスティーンがマシンを走らせているんだろう。
窓から差し込む光の加減からして、時刻は夕方ぐらいか。
「私に……ついていてくれたの?」
相手が寝ていると、いつもの尊大な口調も出ない。
寝顔を見られていたのかという、気恥しさはある。
だけどそれよりも、気遣いに対して素直な感謝の気持ちが湧いてきた。
ああ。
たぶん私がうなされていたから、手を握ってくれたんだろうな。
こいつは――
ランドールは、そういう男だ。
初めはチャラチャラした奴だと思ってた。
でも一緒に働いて、暮らしているうちに分かったよ。
チャラチャラしているんじゃなくて、誰にでも気さくで優しい人なんだと。
今回も私の走行時間を、こいつが代わりに走ったんだろう。
助けられちゃったな――
「そういえば……。似てるかも?」
夢の中に出てくる、黒髪のあの人。
髪や瞳の色は全然違うけど、優しい寝顔はあの人と似ているように思える。
「生まれ変わり……だったりして」
一瞬そんなことを考えて、すぐにバカバカしいと首を横に振る。
こいつは、地球から転生してきたって言ってたじゃない。
私がいた、不思議な世界の住民とは違う。
黒髪の彼とは、別人だ。
そのことを少し残念に思っている自分に気づき、驚く。
そういえば、ランドールと同じ部屋で暮らしているうちに悪夢を見る回数が減った。
私の中で黒髪の彼より、ランドールの存在が大きくなってきてしまったの?
――ダメよ。
そんなことになったら、あの人が可哀想。
黒い穴の向こうに消えていく時の、絶望に染まった表情。
あの後、彼はどこへ行ってしまったのか?
どうなってしまったのか?
せめて私だけでも、あの人のことを忘れないであげたい。
想い続けていたい。
それにランドールには、好意を寄せている女の子達がいっぱいいる。
ケイトさん。
マリーさん。
ルディちゃん。
アンジェラは――体だけが目当てみたいだし、少し違うかな?
みんな本気で、ランドールが好きなんだと感じる。
他に忘れられない男がいる私が、そんな中に入っていけるわけないじゃない。
そうだ。
こいつが目を覚ましたら、いつも通りに悪態をついてやろう。
お互いにケンカ腰で言い争っていれば、これ以上2人の距離が縮まるなんてことはあり得ない。
腕は認め合っているけど、性格は反発し合っているドライバー同士。
私達の関係は、それでいい。
「でもそれは、目を覚ましたら……でいいよね」
私は手を握ったまま、ランドールの無邪気な寝顔をもう少しだけ観察してやることにした。
■□■□■□■□
□■□■□■□■
■□■□■□■□
□■□■□■□■
■□ランドール・クロウリィ視点■□
「……ん……んん……」
少しずつ、意識が覚醒していく。
あ~。
俺、なにをやってたんだっけ?
確かニーサの様子が気になって、モーターホームに行ったんだ。
そこでは仮眠中の彼女が、やたらとうなされてて。
空中に向かって必死に手を伸ばすもんだから、思わずその手を取ってしまった。
俺はニーサの手を振りほどくこともできずに、その場で途方に暮れていたんだ。
そしたらつい、ウトウトと――
「ヤバっ!」
身の危険を感じて、一気に意識が覚醒した。
ニーサより先に目を覚まさなければ、大変じゃないか。
彼女が目を覚ました時に、俺が手を握りながら横で寝ていたら?
「この破廉恥夜這い野郎!」
とか言いながら、大暴れするに決まっている。
そうなる前に起きて、この場を立ち去らなければ。
「……って、あれ?」
ベッドの上に、ニーサの姿は無かった。
驚いて立ち上がった拍子に、肩から何かが落ちる。
それは仮眠中のニーサが掛けていたはずの、タオルケットだった。
「俺が風邪ひかないように、掛けてくれたのか? モーターホームの中は、冷房がよく効いているから……」
うーん。
幸運にも、寝てしまった拍子に手を離したのかな?
それでも俺が隣で寝ているだけで、ニーサは充分怒りそうな気がしないでもない。
まあルームシェア時代は、カーテン越しとはいえ隣で寝ていたわけだし――
慣れているのかもな。
あれこれと考えているとモーターホームの扉が開き、ヴィオレッタが顔を出した。
「お兄ちゃん、そろそろ出番よ。準備して」
「OK、OK。分かったよ。今はニーサが走っているのか?」
「そうよ。かなりの長時間運転なのに、全然ペースが落ちなくてみんなびっくりしているわ」
「クールスーツさえちゃんと動いているなら、ニーサはそれぐらいやるさ」
そうだ。
ニーサ・シルヴィアは、凄いドライバーだ。
だから彼女が俺に突っかかってくると、そういうドライバーに意識されているんだと思えて妙な気分になる。
むかつき半分、楽しさ半分ってところかな。
今の関係は、凄く心地いい。
もっと長く、この関係を維持したい。
その為には――
「ドライバーとしていいところ見せ続けるよう、頑張るしかないね」
「何? どうしたの? お兄ちゃん?」
「なんでもない」
ヴィオレッタの後に続いて、俺はモーターホームの外へ出る。
だいぶ太陽が、低くなってきていた。
■□■□■□■□
□■□■□■□■
■□■□■□■□
□■□■□■□■
夕暮れのノヴァエランドサーキットに、俺と〈レオナ〉は飛び出す。
これが俺の担当する、最後の走行時間。
その後はクリス君にドライバー交代して、レース終了の21:00まで彼が走り切る。
2kmのロングストレート、「ストレート・トゥ・ヘル」に入った瞬間だ。
紫色のマシンがOHVエンジンの荒々しい音を響かせながら、俺を抜き去っていった。
ガゼールさんところの〈エリーゼ・エクシーズライオット〉か。
ドアに大きく描かれている銀髪の女の子が、「突撃、突撃ィ~!」とでも叫んでいるような気がするから不思議だ。
コースインするなり抜かれた俺だけど、あんまり気にしていない。
なぜならあの〈ライオット〉は、これでようやくウチと同一周回。
コース丸々1周分近い、差をつけているってこと。
それに向こうは、温まってバリバリにグリップするタイヤ。
こっちはピットアウトしたてで熱が入ってなく、ツルツルに滑るタイヤ。
そりゃ、あっさり抜かれるってもんでしょう。
「せっかくだから、スリップ使わせてくれ」
俺と〈レオナ〉は〈ライオット〉の後ろにつき、風よけにして空気抵抗を減らす。
このレースだと吸入空気制限装置で、どの車も最高出力は500馬力前後に調整されている。
だけど排気量の小さい〈レオナ〉は回転力が細くて、加速と直線の伸びは下から数えた方が早いレベル。
前を行く〈ライオット〉は8.6ℓ(8600cc)っていう頭おかしいほどの大排気量だから、直線はかなり速い。
その代わりエンジンが重く、コーナーはイマイチなんだけどね。
〈ライオット〉のスリップストリームについたおかげで、いつもは280km/hちょっとまでしか伸びない車速も291km/hまで伸びた。
ごくろうさん。
え~っと。
いま〈ライオット〉に乗っているのは、キース先輩かな?
助かったぜ、キース先輩。
お礼にタイヤが温まったら、サクっとぶち抜いてやるからな。
そこへ、唐突に無線が入る。
『ランディ~! すぐ後ろに、奴がきてるだニよ! 絶対に、抜かせるんじゃないだニ!』
分かっているさ、ヌコさん。
後方モニターを見なくても、背中にビシバシ殺気を感じるからな。
まだ完全に日が落ちたわけじゃないから、マシンカラーも判別できる。
夕日の色と一体化して分かりにくいけど、あれは真っ赤なレイヴン〈RRS〉だ。
角丸長方形のヘッドライトが、「タイヤの温まっていないノロマはどけ!」とばかりにパッシングで威嚇してくる。
絶対どかないね!
ここであんたを抑え込むのが、俺の1番大事な仕事だ。
急な2コーナーに向けて、フルブレーキング。
コーナーを立ち上がった時、前を行く〈ライオット〉は少し離れた。
逆に後ろからくる〈RRS〉には、差を詰められてしまう。
タイヤはまだ冷えているから、仕方ないといえば仕方ない。
でも、許容できるのは差を詰めることまでだ。
抜いていくことは許さない。
バックモニターに、〈RRS〉3号車のドライバーが大きく映りこむ。
黄色がメインカラーで、緑色のラインが入ったデザインのヘルメット。
地球でF1に乗っていた頃から、あんたはそのヘルメットだったな。
「俺のケツを拝んで走ってもらおうか? アクセル・ルーレイロ!」




