ターン118 減給ですわ!
「そんなわけないやろ。全部、作戦通りや」
クロウリィ夫妻の背後から話しかけてきたのは、戦略担当を務める白い翼の天使――ケイト・イガラシだった。
「ああ、ケイトちゃん。久しぶりね。……作戦通りっていうのは、どういうこと?」
振り返って怪訝そうな声を上げるシャーロットに、得意げな笑顔で戦略担当は答える。
「最初から1周目で、ピットインさせる予定やったんです」
『ええっ!?』
オズワルドとシャーロットは、声をそろえて驚く。
レースはまだ、スタートしたばかり。
マシンの燃料は全然減っていないし、タイヤだって消耗していない。
ドライバーだって、疲れていない。
元々体力は化け物な、ランディである。
ピットに戻る必要など、ないはずだ。
このピットインという行為は、とてつもなく時間を消費する。
作業エリアに停めて給油やタイヤ交換を行う時間のロスだけでなく、ピットロードの入口から出口までは厳しい速度制限が課せられているのだ。
コース上を走行している車が200km/hオーバーで駆けていく横を、60km/h以下でちんたら走らなければならない。
むろん途中でピットインをして給油やタイヤ交換、ドライバー交代を行わなければ、12時間という長丁場を走り切るのは不可能。
だが無駄にピットインするなど、レースを諦める行為に他ならない。
クロウリィ夫妻が戸惑っている間に、息子のランディはピットへと帰ってきてしまった。
マシンから降りる気配はない。
即座にマシンはジャッキアップされて、タイヤ交換作業が始まる。
まだまだタイヤの余力は、あるはずなのに――
「この『ノヴァエランド12時間』では、8回のタイヤ交換義務があるんや」
タイヤ交換が義務づけられていなければ、長い距離と時間を無交換で走ってやろうという大胆な作戦に挑むチームも出る。
それはそれで、耐久レースの醍醐味ではあった。
だがタイヤを酷使し過ぎて破裂させてしまうマシンや、ヘロヘロのタイヤで無理して走ったせいで事故を起こしてしまうドライバーも出てくる。
そうなれば危険だし、事故処理でレースの進行にも支障が出る。
プロドライバーならその卓越した運転技量でなんとかしてしまえるかもしれないが、アマチュアドライバーも多く参戦しているのがこの「ノヴァエランド12時間」。
アマチュアが無茶しないよう、タイヤ交換はルールで義務化されていたのだ。
もちろん、しれっと少ない交換回数で走り切っても失格である。
「……前が塞がってペースを上げられないなら、さっさと入れてタイヤ交換義務を消化する。その戦略、分からなくもないわ。でも、かなりギャンブルの要素もあるわよね?」
他のチームは残り11時間57分を、8回のピットイン――9回の走行時間で走り切ればいい。
しかしランディ達はここで1回消化したので、残りは7回のピットイン――8スティント。
つまり、1スティント当たりの走行時間が長くなる。
その分燃料は多く積まなければならないし、タイヤだって消耗する。
あと、ドライバーは体力的・精神的にキツい。
「もちろん、ネガティブな要素も把握済み。それでもこの戦略が、1番近いんやと判断しました。12時間後、トップでチェッカーフラッグを受ける可能性に」
戦略担当のケイト・イガラシは――
監督のヌコ・ベッテンコートは――
ドライバー達3人は――
その他――ヴィオレッタやジョージ、チームオーナーのマリーを含む総勢25名のスタッフ達は本気なのだ。
本気で予選40位から名だたる自動車メーカーチームやプロドライバー達を蹴散らし、表彰台の1番上をもぎ取るつもりなのだ。
そのギラついた熱気に当てられて、オズワルドはぶるっと身震いした。
「シャーロットさん、これはギャンブルなんかやないで。データと計算が導き出した、最適解や」
ちょうどその時、ケイトの背後で〈レオナ〉がジャッキダウン。
タイヤが路面へと着地する。
甲高いロータリーエンジンの咆哮と一瞬のタイヤが滑る音を響かせて、青き光の精霊はピットから飛び出して行った。
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■□ランドール・クロウリィ視点■□
「ふ~う」
80分ちょっとの走行時間を走り終えた俺は、ピットの裏手へとやってきていた。
ここはパーテーションパネルで囲まれ、他のチームからは見えにくくなっている。
俺はもうヘルメット等の装備を外し、レーシングスーツも脱ぎ捨てていた。
着ているのは、耐火インナーだけ。
全部脱いでしまいたい衝動に駆られるけど、さすがにそれはなぁ――
仕切ってあるとはいっても、完全に外から見えないわけじゃないし。
パネルの陰には子供用のビニールプールが設置され、水も張ってあった。
俺はそこを占拠し、ザブンと浸かってしまう。
あ~。
冷たくて気持ちいい。
あのクソ暑い〈レオナ〉の運転席と比べたら、ここは天国かと疑いたくなる。
マシンのエアコン?
ちゃんと効いているよ?
だけどそれでも、暑くないわけじゃない。
例えばエアコンの効いたトレーニングジムでも、全身スウェットに身を包んで、手袋も着けて、マスクと帽子で頭を覆って激しくウェイトトレーニングすれば暑くなるだろ?
レーシングカーの運転って、それぐらい大変なんだぜ。
長く息を吐き出しながら、プールに深く浸かり続ける俺。
すると、シャーロット母さんがやってきた。
「お疲れ様、ランディ。大変そうね」
「ああ、母さん。来てくれたんだ。午前中からこれじゃ、先が思いやられるよ。俺とニーサは大丈夫だけど、クリス君がヘバらないか心配さ」
「あのクリス君やマリーちゃんと、同じチームになるとはね~。そういえばさっき、キース君、グレン君、ルディちゃんとも会ったわよ」
「まるで同窓会だよね、このレース」
「……エリックさんも、一緒に出られたら良かったのにね」
「……ああ、そうだね」
おじいちゃんなのに少年のように笑うエリックさんの笑顔が、プールの水面に浮かんで見えた。
「ランディ様。なぜインナーを、脱いでいないのです?」
背後からの声に驚いて振り返れば、メイドレースクィーン衣装に身を包んだキンバリーさんの姿があった。
ビデオカメラを回しながら、ぬらりと浮かべるその笑顔。
一般的なレースクィーンの皆様が、観客に向ける華やかな笑顔とはかけ離れ過ぎているな。
「ここはパーテーションで陰になってますし、男なら上半身ぐらい脱いでくれてもいいでしょう? ケイト様になら、絶対動画が売れます」
こ――この変態メイド。
他人の水浴び動画で、商売する気か?
「キンバリーさん。今、感傷に浸るいい感じのシーンだったんだけど?」
「そんなことは知りません。私達は、今を生きているのです。そして生きるためには、お金がいる。……仕方ないですね。代わりにニーサ様の水浴びを、カメラに収めましょう。あの方のサイズなら、インナーを着ててもくっきりと……」
なにやらカッコイイ感じにまとめようとしたって、ダメだ。
後半の呟きで、すべて台無しだよ。
雇い主のマリーさん。
おたくの使用人が、違法な副業をしようとしているぞ?
止めてくれ。
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13:00。
レーススタートから、4時間が経過していた。
現在〈レオナ〉のステアリングを握っているのは、ニーサ・シルヴィア。
俺とクリス君は、それぞれ1回の走行を終えたところだ。
ケイトさんの作戦は大当たり。
俺達の〈レオナ〉は渋滞に引っかかることが少なく、前が空いた状態で長く走り続けられた。
おかげでかなり、順位を上げてきている。
戦略だけじゃなく、運も良かった。
ちょうどクリス君からニーサへとドライバー交代が行われるタイミングで、複数の車が絡む大事故が起こってセーフティーカーが出たんだ。
こうなると、事故処理が終わるまでの間は追い越し禁止。
セーフティーカーの後ろについて、ゆっくり走行しなければならない。
その間にピットインして給油やタイヤ交換を済ませても、コース上を走っているマシンに置いていかれないで済むって寸法だ。
セーフティーカーが出た瞬間、小さくガッツポーズしてしまった。
事故で棄権した4チームには悪いけど、ドライバーも全員無事だったんだ。
俺達が代わりに優勝してやるから、許せ。
そんな風に、順風満帆と言ってもいい走りを見せてきた俺達ブルーレヴォリューションレーシング。
そのピット内に、ヌコさんの緊張感漂う声が響き渡った。
「にゃニ!? ニーサのクールスーツが、動いていにゃい!?」
チーム全体の空気が、一瞬で張り詰める。
クールスーツ――
ドライバーがレーシングスーツの内側に着込み、冷却液を循環させて熱から体を守る装備だ。
一応〈BRRレオナ〉にはエアコンも着いているものの、一般道を走行中の乗用車みたいに冷えるわけじゃない。
体を冷やすメインはクールスーツ。
それが故障したら、相当に暑いはず。
俺はピットから出て、空を見上げる。
相変わらず、切りつけてくるような激しい日差しだ。
現在の気温は39℃。
路面温度70℃。
マシンの中は、どれだけの地獄になっていることか――
ニーサが体力バカだからといって、耐えられるような状況じゃないだろう。
もうすでに、60分以上は走っているわけだしな。
俺は無言のまま、腰に巻き付けていたレーシングスーツの袖に腕を通した。
フェイスマスクとヘルメットも手に取る。
「ランディ。何をするつもりだニか?」
「すぐマシンを、ピットに入れて。ニーサの分も、俺が走る。時間配分を、ギリギリまで俺に振ってくれ」
1人のドライバーが全体の3分の2以上走ったら、耐久レースでは失格になってしまう。
そうならないよう、走行時間の再計算と調整が必要だ。
「ニーサ様は、まだまだイケると仰ってますわ」
無線機のヘッドセットに手を添えて、マリー・ルイスオーナーはそう伝えてきた。
だけどそんな話、鵜呑みにできるもんか。
「マリーさん、ニーサに伝えて。『強がるなよバカ。意地張っても、ペースが落ちたら意味がないんだよバカ。いいからとっとと、ピットに戻って来いよバカ』……ってさ」
マリーさんはそれをお嬢様言葉に言い換えつつ、バカの頭に全部「お」を付けてニーサと交信する。
なんか俺の言葉そのままより、煽り度が高くなったような?
でもちょっとぐらい怒らせた方が、意識が朦朧とせずに済むだろう。
BRRのスタッフ達は、優秀だ。
あっという間にケイトさんが、給油量を再計算。
交換用のタイヤとインパクトレンチも、所定の場所に置かれる。
ニーサがピットに入ってきた。
ストップボードにマシンの先端を軽く接触させ、地面にテープを貼って指定した停車位置に寸分の誤差もなく停車させる。
その鮮やかな手際から、まだまだ元気だったのかと思った。
――だけど、違った。
「くっ……。すまん……」
ニーサは、自力でマシンから降りることができなかった。
ヘルメットの隙間から見える顔色は紅潮しているし、呼吸は荒い。
視線もぼんやりとしている。
仕方ない。
後からセクハラとか言うなよ!
俺はニーサをシートから抱え上げ、運転席から引きずり出した。
ぐったりとした彼女をヴィオレッタに引き渡し、自分は素早くシートへと収まる。
通常は降りたドライバーがシートベルト装着を手伝ってくれるけど、今のニーサはそんなことができる状態じゃない。
代わりにチームオーナーのマリーさん自ら、俺のシートベルト着用を手伝ってくれる。
「まったく! ニーサ様は、減給ですわ!」
「え~。マリーさん、それはちょっと厳しくない? あの状況なら、俺だってヘバっていたと思うよ?」
これから俺も、コースに出る。
もしクールスーツの故障がスーツ本体側じゃなく、車内に設置してある冷却水タンクやポンプだったらやっぱり作動しない。
そしたら俺も、ヘバっちゃうだろう。
予防線を張る意味も込めて、ニーサをちょっと擁護してやる。
「違いますわ! 頭にきているのは、ランディ様の『お姫様抱っこ』でマシンから降りたことです! 今まで、あれをされたのはワタクシだけだったのに……」
「いやいや。そんな、乙女チックなもんじゃないだろ?」
ヘルメットや足をガツガツ車にぶつけながら、荷物のように引っ張り出したぞ?
そもそもマリーさんの時も、救助活動だったわけで。
喋りながらだけど、交代手順は素早く済ませていく。
ドアを閉める直前に、マリーさんと軽くハイタッチをかわした。
給油作業とタイヤ交換が終わり、エアジャッキが戻る。
さあ、ちゃんと動いてくれよ!
クールスーツちゃん!




