ターン115 空気が見える女
ノヴァエランドサーキットのパドックエリアは、マシンや機材の搬入作業をする人達でごった返していた。
そんな中、1台のレーシングカーが姿を現す。
輸送トラックの垂直リフトゲートに乗せられて、そのマシンはゆっくり地上へと降りてきた。
市販状態でもかなり低い車高だったのに、今はそれに輪をかけて低くなっている。
広げられた車幅が、より一層地を這うようなイメージを強調していた。
大型のリヤウイングや後部底面空力装置。
複雑な形状をした前バンパー、サイドステップが目を引く。
最近のレーシングカーは、空気の流れで上からマシンを押さえつけるだけじゃない。
後ろで渦を発生させ、車体下部の空気を引き抜いてダウンフォースを稼ぐのが流行だ。
もちろんケイトさんが空力パーツを設計したこのマシンには、細かい部分までその思想が浸透している。
「ウチは空気が読める女やで!」
ってケイトさんは豪語していたけど、なんだかそれだと意味が違う気がする。
「空気が見える女」が妥当だろう。
空力エンジニア、データエンジニア、戦略担当と、今回のケイトさんは多忙だ。
ジョージの奴も、サスペンション担当エンジニアとチーフメカニックを兼任。
ヌコさんはエンジン担当エンジニア兼、レース監督を務める。
そんな彼らの努力の結晶が、このマシン。
チーム名がメインスポンサー名を含んでいるから、〈BRRレオナ〉というそのままな車名で出場登録してある。
この名前でも、宣伝効果は充分に得られるはずだ。
マリー・ルイス嬢が代表取締役を務めるブルーレヴォリューションブランドのイメージカラーそのままに、車体色は青く輝くブルーメタリック。
大きな企業ロゴの右下には、くるくると渦巻く銀色のリボンが描かれていた。
これはマリーさんのトレードマークである、銀色の縦ロールヘアを表しているんだろうな。
足回りのメーカー。
タイヤメーカー。
オイルメーカー。
他にも様々な企業のロゴが、マシンの至るところに散りばめられていた。
これを見ると、大勢の人達に支えられてレースをしているんだという実感が湧く。
気が引き締まるぜ。
ところがそんな引き締まった俺の気を、緩めるような出来事が起こった。
腰に衝撃が走ると同時に、楽し気な声で名前を呼ばれる。
「ランディせんぱ~い! 元気にしてました?」
「ルディか。おかげさんで、元気だよ。そっちも元気そうだな」
少し視線を落とすと、青い瞳で上目遣いに見上げてくるエルフ少女の姿があった。
翡翠色のショートボブが、夏風に吹かれて爽やかに揺れている。
俺の腰にタックルして巻き付いているのは、アクティブな私服姿のルドルフィーネ・シェンカーだった。
「えへへへ……。久しぶりに先輩に会えたから、元気いっぱいです」
「そ……そうか……。それはいいんだけど、あんまりくっつくのは……。俺達、敵チーム同士だし」
「え~っ? これぐらい、別にいいじゃないですか。いつも近くにいるケイト先輩やマリー先輩やニーサさんと違って、海外在住のボクは普段先輩と離れているんです。今のうちに、先輩成分を補充しないと」
いやいや、色々マズいよ。
お互いのチーム関係者に見られたら、よく思われないだろう?
「何をやっているんだいルディ! もう、レースウィークに入っているんだよ!」
ほら、めんどくさい奴が来た。
口うるさい、赤髪長髪ファザコンエルフの登場だ。
「え~。ブレイズさん、固いこと言わないで下さいよ。レーシングスーツに着替えたら、ボクはちゃんとスイッチを切り替える自信があります」
「もうとっくに、レースは始まっている。情報が漏れないよう、敵チームのドライバーとの接触は最小限に控えるべきだ」
Tシャツにジーンズというラフな格好のブレイズ・ルーレイロは、厳しい口調でルディに説教した。
「ふーん……。ブレイズ。しばらく会わないうちに、ずいぶんシビアな考え方をするようになったじゃないか」
「僕とルディは、レイヴン企業チーム3号車のハンドルを握るんだ。これぐらい気を配って、当然だろう? ……ところでランディ、ヴィオレッタちゃんは来てる?」
一瞬「さすがワークスドライバーになると違うな」なんて思ってしまったけど、やっぱりブレイズはブレイズだった。
お前だって、ヴィオレッタに現を抜かしているじゃないか!
「悪い虫には、見えなくなる魔法をかけた」
「なら僕には関係ないから、見えるはずだろう? ヴィオレッタちゃんは、どこにいるんだい?」
ブレイズの隣でルディが、申し訳なさそうな顔をして俺を見ている。
「ウチのチームメイトが、馬鹿ですみません」って言いたげだ。
どんな理由をつけて追い返してやろうかと思案していると、タイミングの悪いことにヴィオレッタがやってきてしまった。
「こんにちはブレイズさん、ルディさん。お久しぶり」
「や……やあ、ヴィオレッタちゃん。しばらく見ないうちに、また綺麗になったね」
「やだ~。ブレイズさんったら、お上手」
――ケッ!
ブレイズよ。
ウチの妹は「綺麗」だなんて言われ慣れているから、その程度の褒め言葉でドキドキしちゃったりなんてことはあり得ないんだぜ。
「ブレイズさんは、レイヴンワークスの3台目に乗るんですって? 凄いわ! 尊敬しちゃう。こんなに難しいサーキットで起用されるなんて、きっとブレイズさんは勇敢なのね」
おーい、ヴィオレッタ。
そんなにヨイショしなくていいぞ。
――あ、いや。
コレはヨイショというより、手の平で転がすモードに入っているな。
「勇敢なブレイズさんのことだから、ひょっとして決勝は硬いタイヤを選択しちゃったりする?」
「はははっ。滑りやすいハードタイヤでも、僕のテクニックなら問題ないね。だけど温まりを考えて、ミディ……」
そこで、ブレイズの台詞は途切れる。
横からルディが、強烈な下段蹴りを見舞ったからだ。
「……ブレイズさん、さっきなんて言ってましたっけ? 『もうとっくに、レースは始まっている』? 『情報が漏れないよう、敵チームのドライバーとの接触は、最小限に控えるべきだ』? 自分が言ったことを、もう忘れちゃったんですか? 脳ミソを、軽量化し過ぎたんじゃないですかね?」
惜しい。
だいぶ口を滑らせてくれたけど、ミディアムなのかミディアムハードまでかは聞き出せなかった。
ウチがハードかミディアムハードかで悩んでいるから、たぶんミディアムハードだろう。
足をさすりながらうずくまるブレイズを見て、俺はふと思い出した。
レイヴンワークスの3号車は、ブレイズとルディに加えてもうひとり――
「ブレイズ。おたくのエースは、一緒じゃないのか?」
「ああ。モーターホームの中で、精神集中しているよ。レースウィーク中は、神経質な人だからね」
「そうか……」
まあいい。
たぶんコース上で、相まみえることになるだろう。
ブレイズはまだヴィオレッタと話したい様子だったけど、ルディに連行されて自分のチームへと帰っていった。
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場所は変わって、ここはチームにあてがわれたピットの前。
レーシングスーツに着替えた俺は、〈BRRレオナ〉の運転席に収まっている。
ヘルメットにシューズ、グローブも装着して、レースで走行する時と全く同じ格好だ。
ただ今は、レース中でも予選中でもない。
車はエンジン停止状態で、ピット真正面の作業スペースに停められていた。
前窓からは、ストップウォッチを構えたマリーさんの姿が見える。
彼女は車内にいる俺にも分かりやすいよう、指を折りながらカウントダウンを告げた。
エンジンが停止しているから、マリーさんの鈴を転がすような声は車内にも届く。
「5秒前! 3! 2! 1!」
カウントゼロ。
タイム計測開始と同時に、車に内蔵されたエアジャッキに圧縮空気が送り込まれた。
車体が持ち上がる。
市販車の丸型と違い、近代レーシングカーらしい蝶型のハンドル。
俺はそれを、素早く上へと跳ね上げた。
ドライバー交代の邪魔にならないよう、こうして上に跳ね上げられる構造になっているんだ。
シートベルトは着けていない。
レース本番中でもピットに入ってきたら、停車する前にターンバックルを捻りロックを解除してしまうからね。
シザーズドアを跳ね上げて、俺は素早く車外へと降りる。
交代でマシンへと滑り込むのは、同じブルーのレーシングスーツを着込んだ男――クリス・マルムスティーン君だ。
クリス君が無線のプラグや、体を冷やすクールスーツのチューブを接続していく。
その間に俺は、彼のシートベルトを装着してやった。
幸いウチのチームは、ベルトの調整があまり必要ない。
俺の身長が183cm。
クリス君が、180cmちょうど。
ニーサが178cmと、体格がさほど変わらないから。
乗り込む時、ドライバーそれぞれに合わせて作られたウレタン製のパッドをシートに敷くだけで充分。
ドライバー交代をしている間に、前輪のタイヤ交換は終わっていた。
乗用車と違い、本格的なレーシングカーは1穴のセンターロックナットでタイヤを固定している。
だからインパクトレンチでブルルンとやれば、一瞬で取り外し・取り付けが可能だ。
この「ノヴァエランド12時間」では、タイヤ交換をするタイヤマンは2名までとルールで決められている。
これも人件費削減による、参戦コスト抑制のためだ。
2名までだから、当然4輪同時交換はできない。
給油マンが、クイックチャージャーのノズルを給油口から引き抜いた。
それを待ちわびていたタイヤマンが、再びインパクトレンチを起動。
今回のレースだと、給油とタイヤ交換の同時作業も禁止されているんだよな。
待たされていた鬱憤を晴らすかのように、タイヤマン達は目にも留まらぬ速さで後輪タイヤの交換を終える。
彼らは作業終了と同時に、手を挙げて合図した。
それを見たジャッキマンのジョージが、素早く圧縮空気を抜きエアジャッキを戻す。
マシンの4輪が地面に着く瞬間、マリーさんはストップウォッチのボタンを押してタイム計測を終了した。
そのままクリス君はエンジンを始動し、ピットロード出口まで走り去る――なんてことはしない。
なぜならこれはレース本番ではなく、ピット作業の練習だからだ。
「最初の頃より、2秒短縮。いい動きですわ」
マリーさんは、満足そうにストップウォッチを眺めた。
たかが2秒と思われるかもしれないけど、レースの世界で2秒は大きい。
普通、同クラスで競い合っているレースカー同士はコンマ数秒しか周回タイムの差がない。
だからピット作業でミスして2秒遅れたら、ドライバーはコース上で10周とか20周とか頑張らないと取り戻せない。
これは、緊張するな。
前世と合わせると20年以上レースをやってきた俺だけど、実はレース中のピットインって初めてだ。
F3まではレース距離が短くて、途中でのタイヤ交換や給油ってないからね。
今日のピット作業練習は、これで終わり。
俺はヘルメットとフェイスマスク、頸椎を保護するHANSを脱ぎ捨てた。
ピットのシャッター前で空を見上げ、ひと息つく。
ついでに上半身だけレーシングスーツも脱ぎ、袖を腰に巻き付けた。
「やっと、サマになってきたではないか」
「うっさいな。ニーサだって、交代作業は不慣れだろ?」
「クリスから私へのドライバーチェンジの方が、コンマ2秒早かった」
「手動計測だから、誤差だよ。誤差」
相変わらずケンカ腰になっちゃう俺とニーサだけど、最初の頃に比べると険悪な雰囲気は薄らいだように思える。
多少気に入らないところはあれど、お互いにこう思っているからなのかもしれない。
――「勝つためには、コイツが必要だ」と。
ニーサの顔を見ると心臓が苦しくなる謎の感覚も、最近では少し和らいだ。
あとはやたら突っかかってくるところさえ、なんとかなればな~。
そんな感じだから親父さんと喧嘩して、家を出る羽目になるんだよ。
あっ、そういえば――
「なあ、ニーサ。ニーサはなんで、親父さんと喧嘩したんだ?」
ニーサはちょっとビックリした表情で、飲んでいたドリンクのストローから唇を離す。
「なんで貴様に、そんなことを話さなければならないんだ? ……と言いたいところだが、当事者が来てしまったからこの話題は避けられないな」
――当事者?
ニーサの奇妙な台詞と、俺の背後へと向けられた視線。
それにつられて、俺は振り返った。




