毒舌令嬢は自由になりたい
「――まったく、好きでやってるわけじゃないってのよ……!」
ため息まじりに吐き出した毒が、目の前の泉に溶けていく。
泉は私の撒き散らす毒を浴びてなお、変わらぬ清冽な光を放っている。
「だいたい、さっきのあれは何なの? 『公爵令嬢のくせに、入学してきたばかりの子爵令嬢をいじめるとは何事か!?』ですって? 誰がディアナをいじめたっていうのよ。ちょっと注意しただけでしょう? 婚約者のいる男性にやたらとべたべた触れるのは非常識だって、今どき乳飲み子でも知ってるわよ」
……いや、乳飲み子はさすがに知らないか。
自分の吐いた毒に、我ながら失笑である。ははは。
乾いた笑いが森の中に響き、私はまたため息をついてしまう。
本当に、鬱陶しい毎日が続いていた。
思えば、ローリエン公爵家の令嬢として生まれ落ちたその日から、私の運命は決まっていたようなものだ。
同い年の第一王子オルランド殿下の婚約者の座を狙うべく、幼い頃から厳しい令嬢教育を強いられ、淑女たれと諭される日々。婚姻による王族との結びつきは我が家の悲願でもあったから、私は家族や親族の期待を一身に背負わされた。
その甲斐あってか、殿下との婚約が決まったのは学園に入学してすぐのこと。
すでに『淑女の鑑』だの『当代随一の才媛』だのともてはやされるようになっていた私に対し、陛下は「オルランドを助けてやってほしい」と仰った。
凡庸と評されがちなオルランド殿下ではあるけれど、一応立太子が決まっている。生涯の伴侶として、また一番身近な補佐役として、良好な関係を築いてほしいという願いがあったのだろう。
ところが、当の殿下は最初から、私のことをよく思っていなかったらしい。
「ふん、少し勉強ができるからって、いい気になるなよ」
初顔合わせの第一声が、これである。控えめに言って、最悪である。
私だって内心、「ちょっと顔がいいからって、いい気にならないでよ」とか思っていたのだけど。
実際、殿下は陽の光を集めたような金髪にエメラルドの瞳をした、眉目秀麗な好青年だった。
ただし、あくまでも見た目だけなのよ、あれは。
残念なことに、中身が全然伴わない。凡庸なだけならさほど害もなかろうに、なんだか妙に捻くれていて、顔を合わせれば常に悪態をついてくる。
そんな人と仲睦まじい関係を築けるわけもなく、私たちの距離は一向に縮まらないまま、一年が経過。
二年生になったこの春、新入生の中に話題の令嬢がいた。
ディアナ・ベルス子爵令嬢である。
彼女は、いわゆる子爵の庶子であるらしい。平民だった実の母が亡くなったとかで、ベルス子爵家に引き取られたのだそうだ。
平民同然の暮らしが長かったせいか、ディアナは私たち貴族にとっての決まり事やマナー、暗黙のルールに疎かった。突然貴族社会の一員になった彼女は新たな環境になかなかなじめず、途方に暮れていたらしい。
そこに手を差し伸べたのは、なんとオルランド殿下だった。
殿下は「こういうときこそ、王族である自分が面倒を見てやらねばなるまい」とかなんとか、聞かれてもないのに偉そうなことを言っていた。多分嘘である。
ディアナは明るいピンクブロンドの髪にアンバーの瞳を持つ、小柄で可愛らしい令嬢。鼻の下を伸ばした殿下が何を考えているのかなんて、手に取るようにわかってしまう。
まあ、別にいいのだ。殿下に対する恋情など欠片もなく、むしろ「なんでこんなやつと……」という不敬な不満ばかりが募っていた私である。正直、勝手にすれば? という思いしかなかった。
ところが、ディアナに手を差し伸べたのは、殿下だけではなかったのだ。
気がついたら、宰相の令息とか王国騎士団長の令息とか、世界を股にかける大商会の子息までもが彼女と行動をともにするようになっていた。しかも彼女は、学園の一部の教員や王弟殿下との距離も縮めているらしい。なんでそんなことになっているのか、てんで意味がわからない。
でも令息たちはディアナ様のそばを片時も離れることなく、いつも彼女を取り囲んで楽しげなのだ。
ただそうなってくると、面白くないのが令息たちの婚約者の方々である。
彼女たちは、まずディアナに対して意見した。令息たちと適切な距離感を保つよう、苦言を呈したのだ。でもディアナは、あっさりこう言ったらしい。
「だってみんな、私と一緒にいたい、私と一緒にいるほうが楽しいって言うんだもの」
まるで反省の色が見られない……!
早々に埒があかないと悟った令嬢たちは、今度は自分たちの婚約者に詰め寄った。なぜ自分を蔑ろにし、ぽっと出の子爵令嬢に付き従っているのか。婚約とは家同士の結びつきでもあり、いったい何を考えているのかと。
令息たちはその抗議をのらりくらりとかわし、まともに取り合おうとはしなかったらしい。
婚約という家同士の契約をうやむやにしたまま令嬢たちを軽んじ、ディアナとの逢瀬に現を抜かし続けるポンコツ令息たち。
この状況に、令嬢たちは怒り心頭で私のもとを訪れた。
「レティシア様がオルランド殿下を放ったらかしにしたうえ、好きにさせていたせいでこのような事態になったのですよ!」
宰相令息の婚約者でもあるプレトル侯爵令嬢が、金切り声を上げる。
「……私のせいだと仰るのですか……?」
「そうです! レティシア様がオルランド殿下の手綱をしっかりと握っておられたら、こんなことにはならなかったのです!」
いやいや、なぜ断言できるのだ。根拠はあるのか。
でも恨みのこもったまなざしで睨まれては、何も言い返せない。ちょっと怖い。
「とにかく、レティシア様の責任なのですから、早くなんとかしてください!」
……えー!? なんでよ!?
つい声が出そうになって、慌てて押し込める。淑女たるもの、感情を露わにしてはならない。やばいやばい。
「……私が、ですか?」
恐るおそる、控えめに、「私、戸惑ってます」といった風情で聞き返す。
でもプレトル侯爵令嬢はふんすと鼻息も荒く、当たり前だといわんばかりの口調で答える。
「もとはといえば、レティシア様のせいでもあるんですから! なんとかしてもらわないと困ります!」
……だから、なんで私が……!?
とは思うものの、令嬢の圧がすごすぎて反論なんてできるわけもない。
かくして。
私は『ディアナ様御一行』を見かけるたびに、諫めて歩くしかなくなった。
「殿下、少しよろしいでしょうか?」
そう言って私が近づくと、殿下は途端に顔を歪めて「小賢しい女がうるさいな」とか「お前は説教ばかりで可愛げがない」とか「そんなことをして俺の気を引こうとでも思っているのか? 鬱陶しい」とか、面と向かって悪意ある言葉を浴びせるばかり。
ディアナはディアナで、「ひどい! 私がオルランド殿下と仲よくしてるからって、いじめなくてもいいじゃないですか!」なんて言い出す始末。
いや、いじめてないし、そもそも殿下が何をどうしようがほんとどうでもいいからそのセリフはお門違いもいいところよ? と言いたいところなんだけど、言ったところでもはや言葉が通じる相手ではないからどうにもならない。
さっぱり改善しない状況に業を煮やした令嬢たちは、「レティシア様のせいなのに!」「どうしてくれるんですか!?」などとますます居丈高に興奮し始める。
挙句の果てには学園の様子が世間にも知れ渡り、私はお父様からも責められることになった。
「殿下のお心一つつなぎ止めておけないとは……。情けない」
お父様はそう言って、深いため息をついた。
いや、ため息をつきたいのは、こっちなんですけど……!!
そんな八方塞がり、四面楚歌で孤軍奮闘な状況に耐えられなくなった私は、一人で学園の裏にある森に来ては、鬱憤を晴らすようになった。
人目につかない奥まった場所にある泉のほとりで、ひたすら愚痴り、毒を吐き、ストレスを発散するようになったのだ。
「ほんとにもう、どいつもこいつも……」
しゃべり出したら止まらない。
今日も私の毒舌はヒートアップする。
「ディアナもディアナだけど殿下たちも殿下たちよ。一人の令嬢をみんなでおだてて持ち上げて、何が面白いの? ちやほやするのは勝手だけど、いつまでもみんなでディアナを共有できるわけじゃないのよ? ほんと、気色悪いったらありゃしない」
泉はただ黙って、水面を揺らしている。
「プレトル侯爵令嬢たちだって、そう。いつまで自分の婚約者にこだわっているつもりなの? あんなポンコツ令息たちなんか、さっさと見切りをつけてもっとまともな令息を探せばいいのよ。家同士のつながりを疎かにするようなやつら、結婚したってうまくいくわけないでしょうに」
ふう、とひと息つく。
泉はなおも静かに、ただそこにあり続ける。
「お父様はお父様で、私の話には耳も貸さないし。こっちが歩み寄ろうとしたって、殿下のほうが喧嘩腰なんだからしょうがないじゃない。こんな婚約、最初からうまくいくわけがなかったのよ。それもこれも、結局は私が殿下と同じ年に生まれてしまったせいよね。はあ、なんであの年に生まれちゃったのかしら。何年かズレてたら、こんな面倒くさいことにはならなかったはずなのに。なんでよりによって、あんな『顔だけ能無しクソ野郎』と同じ年に生まれちゃったんだろう」
「……ぶふっ!」
唐突に人の声がして、私はぎょっとした。
咄嗟にきょろきょろと辺りを見回してみる。でも、人の気配はない。
誰もいないと思っていたのに、まさか……。
私は注意深くまわりを警戒しながら、声のしたほうへと近づいてみた。泉を挟んで私がいた場所とちょうど反対側、大きな欅の木の根元を見ると――。
「はは、ごめんごめん」
見覚えのある人が、木の根元を枕にして寝ているじゃないの……!
「あ、あなたは、ロドルフ様……?」
「たかが平民に『様』はいらないんじゃない? レティシア・ローリエン公爵令嬢殿」
そう言って、目の前の青年はがばりと起き上がる。
「クラスも違うし話したことだってないのに、高貴な公爵令嬢殿が俺を知っているとは驚きだね」
「知らないわけがないでしょう? 平民特待生のあなたは有名人だもの」
私の言葉に、ロドルフ様はなぜかちょっと不愉快そうに眉根を寄せた。
「貴族社会とは無縁の平民特待生は、ただでさえ目立つからね。覚えていただけるなんて、光栄ですよ」
「そうじゃなくて、あなたの能力の高さを賞賛している人が多いからよ。あなたのがんばりを見て、平民だからといって侮れない、自分も負けてはいられない、と奮起する人は意外と多いのよ?」
私がそう言うと、ロドルフ様はまんざらでもないといった顔をして、「そうなの……?」とつぶやく。
「それはそうと……」
私はおずおずと窺うように、ロドルフ様の顔を見返した。
「一応確認するけど、あなた、私の言っていたこと――」
「もちろん、全部聞いてたけど」
あっけらかんと答えるロドルフ様に、私は思わず天を仰ぐ。
「やっぱり……。なんてことなの……! 私としたことが、なんたる失態……!」
「ついでに言うけど、今日だけじゃないからね」
「はあ!?」
「俺は入学してすぐに、この場所を見つけたんだ。学園での生活はいろいろと面倒くさいことが多いから、一人になりたいと思ったときにはここに来てた。あんたは三か月くらい前から、ここへ来るようになっただろ?」
「そ、そうだけど……」
「俺がいつものようにここでうとうとしてたら、いきなり威勢のいい愚痴が聞こえてきたんで目が覚めちゃったんだよね。でもそれ以来、何度となくご令嬢の楽しい愚痴を拝聴させていただきました」
わざとらしく、恭しい態度で話すロドルフ様。
その悪戯っぽい笑みに、いきなり明かされた衝撃の事実に、私はただただ呆然としてしまう。
誰もいないと思って躊躇なく淑女の仮面をかなぐり捨て、思う存分、心のままに吐き出していた毒舌の数々を、まさか他人にことごとく聞かれていたなんて……!!
「ほ、本当に、今日だけじゃなく……?」
「そうだよ」
「これまでも、ずっと……?」
「ええ、わりと頻繁に」
一気に羞恥心に襲われた私は、混乱のあまり「ええぇぇぇぇ……」と言葉にならない小さな悲鳴をもらす。
でもロドルフ様は事もなげに笑って、こう言った。
「いいんじゃないの? 完璧な淑女と名高いあんたも、人並みに怒ったり愚痴ったりするんだなって、俺としては親近感がわいたけどね」
「親近感……?」
「ここで毒を吐いてるあんた、生き生きしていて面白くて、目が離せないくらいすげえ可愛いよ」
「か、かわ、可愛い……?」
思いがけない褒め言葉に、ますます頭が混乱してしまう。
そんな私の顔を覗き込み、ロドルフ様は「ほら、やっぱり可愛いじゃん」と満足げに微笑んだ。
それから私は、泉に向かってではなく、ロドルフに向かって毒を吐くようになった。
「さっきもあの人たちに会ったから、一応声をかけたのよ。でも私が近づいていっただけでとてつもなく嫌な顔をされて、まずは殿下に『またお前か』と言われてしまって」
「おっと。敵意むき出しだなー」
「ディアナには『レティシア様ったら、そんなにやきもちを妬かないでくださいよお』とか言われるし」
「レティシア、ものまねうまいじゃん」
「え、そう?」
私たちはお互いのことを、「ロドルフ」「レティシア」と呼び合うようになっていた。
この泉のほとりで会うときには身分のことなど考えず、ただの友だちでいようという話になったのだ。
「そもそもあの人たち、私が殿下のことを好きだという前提で話しているでしょう? どこをどうやったら、そんな勘違いに行きつくのかしら」
「まあ、殿下がイケメンなのは事実だからな。殿下自身、当然好かれてるとか思ってるんじゃないの?」
「は? なんで? あの人の頭の中って、いったいどうなってるの?」
「レティシアがどんなに冷遇されても、婚約解消の話が一切出ないからじゃない?」
「だからそれは、我が家の意向だと言ったでしょう? 私がどんなに嫌がっていても、お父様は婚約を解消する気なんてさらさらないのよ……」
実際、お父様には幾度となく、「殿下のお気持ちをつなぎ止めるよう努力しろ」と言われていた。
この婚約は、家門の悲願が最優先。
私の気持ちなんて二の次どころか、無視されまくっている。
「でもさ、このままだったらほんとに殿下と結婚することになっちゃうし、結婚後も多分冷遇一直線だよ? それでいいの?」
「仕方ないわよ。そういう運命だったんだって、もう諦めてるんだから」
「婚約を解消させてほしいって、親にちゃんと話したことはあるのか?」
「ないけど」
「じゃあ、話してみたほうがいいんじゃないの? 言わなきゃわかんないことだってあるだろ」
「言っても、どうせ変わらないわよ」
そんなこと、お父様からしたら言語道断、もってのほかだと一蹴されるだけだろう。
結果がわかりきっているのに、当たって砕けてみる気にはならない。
ふう、と小さくため息をついた私は、知らず知らずのうちにつぶやいていた。
「自由になりたい……」
そのつぶやきが聞こえたらしいロドルフは、気遣わしげな声で尋ねる。
「……もしも自由になれたら、レティシアは何をしたい?」
「自由になんて、なれるわけ――」
「だから、もしもさ。もしも自由になれたら。想像するくらいはいいだろ?」
「……まあ、そうだけど」
聞かれて、私は考える。
もしも。
もしも殿下との婚約が、なくなったら。
家門の意向とか期待とか、淑女としての体面とか、そんな鬱陶しいしがらみから全部解き放たれて、自由になれたとしたら――。
「……私、行ってみたいところがあるのよ」
ぽつりと答えると、ロドルフは首を傾げた。
「行ってみたいところ? どこ?」
「フェアラス王国よ。あの国には、『アイレの湖』と呼ばれる湖があるらしいの。精霊王が唯一浄化した湖だと伝えられていて、引き込まれそうなくらい透明度が高くて、底のほうまではっきりと見えるんですって。それを直接、この目で見てみたくて」
私の言葉に、ロドルフはなぜか虚を突かれたような表情になる。
「どうしたの?」
「……いや、なんでも……」
それきりロドルフは難しい顔をして、何やら考え込んでしまう。
でも、私は。
自分の中にくすぶる切なる願いを図らずも自覚して、言いようのない高揚感に打ち震えていたのだ。
◇・◇・◇
ひとたび口にしてしまった思いは、もはや否定することができないほどに私の中で存在感を増していた。
――――自由になりたい。
もちろん、そんなの不可能だと、わかってはいる。
貴族たるもの、たとえ相手が好きでもなんでもない顔だけ能無しクソ野郎だとしても、私情を挟まず婚約・婚姻を受け入れなければならない。
でも、一度自覚してしまった心からの願望を、無視することなどもはやできそうもなかった。
このまま投げやりな気持ちで、すべてわかったようなふりをして、諦めてしまいたくはない。
そう思った私は、お父様に話してみたのだ。
せめて、殿下との婚約を解消してもらえたら、と。
結果は、惨憺たるものだった。
「お前は自分が何を言っているのか、わかっているのか!?」
問答無用で罵倒され、もっとひどいことも散々言われて、最終的には自室で反省しろとでもいわんばかりに謹慎を命じられてしまう。
まさかこんなことになるなんて、と自嘲する私に、追い打ちをかけたのはロドルフから届いた手紙だった。
『突然だけど、家の都合で学園を休学することになった』
そんな言葉で始まる手紙には、家庭の事情でしばらく学園には通えないことが淡々と綴られていた。
ただ、手紙の最後は、こう締めくくられていた。
『三か月後の建国記念パーティーまでには、絶対に帰るつもりだ。俺がレティシアをエスコートするから、待っていてほしい。
俺は、レティシアを自由にしたい。行きたいところへ行き、見たいものを見て、言いたいことを言いながら、いつも笑っていてほしい。そんなレティシアを、ずっと隣で見ていたい。
だから君も、自由になることを諦めないでほしい』
なんだか涙があふれて、止まらなかった。
ロドルフの気持ちがうれしくて、でも到底叶うことのない願いが、ただ虚しかった。
ようやく謹慎が解けて学園に復帰しても、私は何もする気にならなかった。
殿下やディアナたちに会っても、プレトル侯爵令嬢たちの圧を感じても、声もかけなければ目も合わせない。黙って通り過ぎる私に訝しげな顔が向けられても、もうどうでもよかった。
泉にも、足が向かなかった。
行ってもどうせ、ロドルフはいない。
いつのまにか、ロドルフの存在が、自分でも信じられないほど大切なものになっていた。それを、認めざるを得なかった。
泉のほとりで猛然と一人気ままに毒を吐くより、ロドルフの隣で笑いながら愚痴る時間のほうが、ずっとずっと楽しかった。うれしかった。救われた。癒された。
――――会いたい。
ロドルフの不在に想像以上の寂しさを感じて、でもその感情に名前をつけることはできず、心にぽっかりと穴が開いたような気分で過ごすこと、三か月。
必ず戻ると言った人が戻らないまま、とうとう学園主催の建国記念パーティーの日を迎えた。
「レティシア・ローリエン公爵令嬢!」
会場に足を踏み入れた瞬間、飛んできたのは聞き慣れた尖った声。
立ち止まった私にステージ上から鋭い視線を投げつけているのは、言わずと知れたオルランド殿下だった。
「お前との婚約は、今日ここで破棄させてもらう!」
殿下の左腕には、当たり前のように子爵令嬢ディアナがぶら下がっている。
その後ろでは、宰相の令息とか騎士団長の令息とか、いつものポンコツ令息たちが忌々しそうな目つきでこちらを睨んでいる。
「お前はこのディアナが学園に入学して以降、何かと難癖をつけては執拗に非難や批判を繰り返し、彼女を虐げ続けてきただろう! そんな性根の腐った悪女は、王子妃に相応しくない!」
敵意を含んだ口調ながらも、なぜかドヤ顔を決める殿下。
私はその姿を、冷ややかに見返した。
もちろん、私だって婚約破棄は願ったり叶ったりである。あの顔だけ能無しクソ野郎から解放される日を、どれだけ夢見たことだろう。
でも、殿下がそれをここで声高に叫んだとしても、叶うことなど恐らくない。お父様も国王陛下もそんなつもりは毛頭ないということを、私はとうに知っている。
結局は、籠の鳥。
自由を願うなんて、馬鹿げている。
――――だけど。
たとえ籠の中だとしても、鳴くことだって暴れることだって、噛みつくことさえできるのよ……!
覚悟を決めた私は、にやりと口角を上げてほくそ笑んだ。
「悪いけど、あんたみたいな『顔だけ捻くれ男』、こっちから願い下げよ」
「……は!?」
予想外に言葉が返ってきたことに、しかも完璧な淑女と名高い私が唐突に繰り出したぞんざいな口調に、殿下は驚きのあまりあんぐりと口を開けている。
「当たり前でしょう? 顔を合わせればやれ『小賢しい』だの『可愛げがない』だの『鬱陶しい』だの、悪しざまに罵ることしか知らないんだもの。そんな人と一生をともにしたいだなんて、思うわけないじゃない。見てくれだけよくたって、中身が全然伴わないんじゃあ、お話にならないわよ」
「はあ!?」
「だいたい殿下、初顔合わせのときの第一声が『少し勉強ができるからって、いい気になるな』だったって忘れたの? いや、第一声がそれ? ってなるわよね、普通。なんで初手から喧嘩腰? ほんと、失礼すぎて、内心笑っちゃったわ」
かつてのお恥ずかしい自分を容赦なく暴露され、顔を真っ赤にする殿下。
なお、ギャラリーのまともな令嬢たちが「え、殿下って、ちょっとひどくない……?」なんてささやく声も聞こえてくる。
でも、私の毒舌は止まらない。
「ディアナのことだってそうよ。私はあくまで、常識を伝えただけ。普通の貴族令嬢はやたらめったら異性に触れたりしないし、婚約者のいる相手ならなおさらそうでしょう? まあ、ベタベタされてあからさまにデレデレしちゃってたそこのポンコツたちも、どうかとは思うけど」
槍玉に挙げられたディアナと令息たちは、私のド正論にぐうの音も出ないらしい。「あ……」だの「うっ……」だのと言いながら、顔を引きつらせている。
「それに」
私はゆるりと視線を移す。
会場の中央付近では、プレトル侯爵令嬢たちがこちらを遠巻きに眺めている。
「あなたたちだって、こんなポンコツ令息に振り回される人生、煩わしいとは思わない? 目の前のあざとい珍獣に現を抜かすような愚か者、さっさと見限ったほうが身のためよ。私と違って、あなたたちならそれができるでしょう?」
言われた令嬢たちは全員黙りこくったまま、眉間にしわを寄せている。
「というわけで、言いたいことはだいたい言ったし、私なんかお邪魔でしょうからこれで失礼いたしますわ、殿下」
あっけらかんとそう言って、カーテシーなどするわけもなく、くるりと身を翻したときだった。
「相変わらず、キレッキレの毒舌だなー」
待ちわびたその声に、ちょっと乱暴なその口調に、私はパッと顔を上げる。
「……ロドルフ……!」
「ごめんごめん、ギリギリになっちゃった」
走り寄るロドルフは、しかし驚いたことに、見慣れたいつものロドルフではなかった。
なんだかやけに煌びやかな衣装を着て、普段はボサボサな灰色の髪もなぜかサラッサラのアッシュブロンドになっていて、これでは精一杯着飾った平民というより、立派な貴族令息である。
「ロドルフ、あなたいったい――」
「ちょっと! なんであんたがそこにいるのよ!?」
突然ものすごい形相になって殿下の腕を振り払い、わけのわからないことを叫び出したのは、なんとディアナだった。
「あなた! 隠しキャラのロドルフでしょう!? 今までどこにいたのよ、もう! 散々探したのに!」
……ん?
『隠しキャラ』とは、なんぞや……?
「あれ、ロドルフって、もしかしてディアナと知り合いだったの?」
「まさか。話したこともないけど」
「え?」
ディアナの不可解な言動に、顔を見合わせる私たち。
でも当のディアナは、「最初から隠しキャラ狙いでハーレムルートを目指したのに、なかなか出てこないなんてひどいじゃない!」とか「どこをどう探しても見つからないと思ってたのに、なんでよりによって悪役令嬢と一緒にいるわけ!?」とか、我を忘れて絶叫している。なんのこっちゃ。
「なんかよくわかんないけど、オルランド殿下がレティシア嬢との婚約を破棄するなら、俺がもらってもいいですよね?」
平然とした顔で、さも当然といった風情で、でも有無を言わさぬ雰囲気を纏いながら、ロドルフが唐突に言い放つ。
「は!? お前は確か、平民特待生の――」
「ああ、この前までは、そうでした。でも今の俺は平民特待生のロドルフではなく、フェアラス王国の王族、ロドルフ・フェアラスなんですよ、殿下」
前触れもなく投下された特大の爆弾発言に、会場全体が一気にどよめく。
「お、お、王族!? フェアラスの!?」
「ええ。俺の父親、実はフェアラスの現王の兄なんです。若くして亡くなったんですけどね。王城の侍女だった俺の母親と道ならぬ恋に落ちて、母は俺を身ごもったんですよ。でも父はそれを知ることなくこの世を去ってしまい、母は俺の存在を隠したままひっそりとこの国に移り住んだ。そして、平民として暮らしていたんです」
「そ、そうだったの……?」
つい、小さな声が漏れてしまう。
ロドルフはふっと楽しげに笑って、「そうなんだよ」と優しく答える。
「まあ、あのまま平民として生きていくつもりではいたんですけどね。のっぴきならない事情ができたんで、フェアラスに行って事実を伝えたんです。そしたらすんなり王族として認めてもらえて、いずれは臣籍降下して公爵を賜ることになりまして」
「はあ!?」
「そういうわけなんで、レティシアは連れていっていいですよね?」
茶目っ気たっぷりに笑うロドルフを、唖然としたまま見つめることしかできない。
ステージ上ではなぜかディアナが地団駄を踏んで悔しがり、男性陣はその様を見てドン引きしている。
ロドルフはそれを横目に、恭しく私の手を取った。
「レティシア、一緒に来てくれる?」
「え、あ、あの……」
「君の願い通り、『アイレの湖』に連れていくよ。ほかにもたくさん、行きたいところに連れていってあげる。だから俺の隣で、ずっと笑ってて」
「い、いいの……?」
「俺の気持ちは、とっくに知ってるだろ? 毒を吐き散らかすレティシアが、可愛くてたまんないんだよ」
ぎゅっと手を握られて、この上なく愛おしげな笑みを返されて、どんどん顔が火照っていくのを止められない。
その後――。
他国の王族の前で宣言してしまった婚約破棄をなかったことにはできず、私とオルランド殿下の婚約は無事に白紙となった。
もともと、フェアラス王国はこの国とは比べ物にならないくらい、圧倒的な国力を誇る大国である。
そのフェアラスの王族に、完璧な淑女と噂の公爵令嬢を妻として迎えたいと言われたら、無下には断れない。いくら王子の婚約者とはいえ、その王子が冷遇しまくっていると有名だったのだから、なおさらである。
そんなわけで、「もう片時も離れるつもりはないから」と断言するロドルフに押し切られ、私はそのままフェアラス王国へと旅立つことになったのだ。
ちなみに、あれからオルランド殿下やディアナたちがどうなったかというと。
『当代随一の才媛』として補佐役を期待されていた私を自ら切り捨てたオルランド殿下は、結局立太子が叶わなかった。王の座は、まだ幼い弟殿下が継ぐことになるらしい。
そしてゆくゆくは、ディアナのベルス子爵家に婿入りすることが決まったというオルランド殿下。王子が子爵家に婿入りなんて前代未聞だけれど、あれだけの騒ぎを起こしたのだから仕方がない。殿下もディアナも「こんなはずじゃなかった!」とお互いを罵り合い、しょっちゅう不毛な言い争いを繰り広げているらしいけど。
一方、プレトル侯爵令嬢たちはあのときの私の言葉に触発されたのか、全員が婚約を解消したそうである。
「すべてをレティシア様に押しつけていた私たちが、間違っていたのです」
そう悟った令嬢たちは、あれ以来、言いたいことがあるなら遠慮せずにきちんと伝える努力を惜しまなくなったそうだ。まあ、私ほどの毒を撒き散らす令嬢は、いないだろうけど。
でも、おかげで学園全体の風通しはよくなったんだとか。結構なことである。
そして、お父様には、ロドルフが直接最後通牒を突きつけた。
「家門の期待を無理やり押しつけ、レティシアの思いを無視し続けたあなたに、親を名乗る資格はありませんよ。レティシアは今日から、フェアラスの王族に連なる者。ローリエン公爵家との縁は切れたも同然と思っていただきたい」
がっくりと項垂れるお父様を置き去りにして、私は今、フェアラスでロドルフにとことん甘やかされている。
「『アイレの湖』もいいけど、フェアラスには風光明媚な観光地がたくさんあるからね。どこへでも連れていくよ?」
婚約が決まってからというもの、ロドルフの愛情表現は留まるところを知らず、スキンシップの類いが格段に増えて落ち着かない。
「ち、近いわよ、ちょっと……」
「いいじゃん。今までずっと、我慢してたんだから」
「そ、そうなの?」
「そりゃそうだよ。一応、レティは殿下の婚約者だったんだし。でも触れたくて触れたくて、どうしようもなかった。レティの毒舌をこっそり盗み聞きしながら、どうやったら自分のものにできるか一人でずっと考えてたよ」
「えー……?」
「レティが『アイレの湖』を見てみたいって言ったから、俺も腹が決まったんだ。俺がレティを自由にしてあげたいと思ったし、そのための力が必要だと思ったからこそ、フェアラスの王族として名乗り出ることにしたんだよ」
そう言って、ロドルフはあっという間に私をその腕に閉じ込める。
「でも残念ながら、完全な自由ではないんだけどね」
「ど、どういう意味?」
「俺がレティを手放すことは絶対にないからさ。俺から自由になることはできないけど、そこは諦めて?」
蠱惑的な熱を宿す瞳にずきゅんと射抜かれてしまった私は、ただこくこくと、黙って頷いたのだった。




