ふさわしい最期
夜が明け、日が高く昇り、それでも王都ウィンザーハーツは慌ただしい様相を崩していなかった。暴徒たちの略奪も一段落して入るものの、リィングリーツ宮の城壁を挟んで国軍と市民の間では緊張状態が続いている。
民主派は元老院のゲンメル議員を中心としてまとまり、王子ガッツォを旗印とすべく彼の屋敷を囲んでいる。ガッツォ自身は完全に怖気づいてしまって屋敷から出てこないようではあったが。
一方で王党派の方は上に戴くべきイェレミアス王子がこのどさくさで姿を消してしまったため、原因は分からないが正気を失った状態の王妃インシュラを神輿にし、彼女の実家であるロクスハム王国の支援を待っている。
この緊張状態とは裏腹に、リィングリーツの森はいつものように静まり返っていた。夏の盛り、虫や鳥などの生き物たちの声はせわしなく聞こえてくるが、人の争いの声などはまるで聞こえてこない静寂の世界。
「う……くそ」
崩れた崖下から、まず最初に出てきたのは年若い少年、ヤルノであった。
脇腹は押さえているが、大きな怪我は無さそうである。
上手く風下からヴェリコイラの追跡を躱してウシャンカの老人に反転攻勢を仕掛けた。老人を見つけるのは簡単だった。何しろ自分を「匂い」で追っているのは間違いないのだから、彼が通ってきた道を遡るだけである。
実際すぐに老人と犬達を見つけることができたし、風下に回り込むのも簡単だった。しかし遠くから投石紐による「狙撃」での攻撃は犬達の「耳」と、老人のとっさの判断で躱されてしまった。
そこでヤルノは来る途中に仕掛けた罠に彼らを誘い込んだ。大きな岩で出来ている崖の、「要」となっている石を外し、少しの衝撃で崩れるように仕込んでいたのだ。
本当に崩れるかどうかは賭けだったし、自分がそれに巻き込まれないかどうかも同様であった。ただ、体重が軽く、年若く身のこなしも早い自分なら何とかなるだろうという自信はあったが。
それでも崖崩れから抜け出せず、自分もまきこまれてしまったのは彼の「運」がすでに底をついているのを指し示しているのかもしれない。
「ツキ」が落ちているのだ。思えば王別の儀のあと、何をやっても上手くいかない。少なくとも彼だけはそう感じていた。そう感じていることが弱さにつながったのかもしれない。
「じじいと犬はどうなった……? 土砂崩れの下か?」
いつもの丁寧な言葉遣いすらも鳴りを潜めている。
しかし彼の独り言に応える者など何もいない。いない事こそが「答え」なのだろうか。
ゆっくりと、少しだけ崩れた崖を登って岩の上に腰かけて呼吸を整える。
「ぅ……」
心臓の脈動と共に脇腹が痛んだ。どうやら肋骨が折れているようである。しかし痛みを堪えながらゆっくりと深呼吸をすると、血を吐いたりはしなかった。内臓の損傷はないようだ。
「残るはヴェリコイラだったか、あの犬コロ一匹だけか……」
まだ勝利を確信するには少し早い。老人が死んだかどうかも気がかりではあるが、ギアンテを囮にしてヴェリコイラを残してきている。この作戦は彼にとって何物にも代えがたく失いたくない人、ギアンテを危険にさらしているのだ。
早く戻って無事を確認したい。自分だけが生き残ってはこの勝利などに何の意味もない。ヤルノは崩れた崖を下から見上げてため息をついた。
折れた肋骨を気遣いながら慎重に崖を登っていく。
早く会いたい。
会って、どこかへ逃げるのだ。リィングリーツの森の中で二人きりで暮らしたっていい。
嵐のような激情も、麻薬のような快楽もいらない。
ただ、彼女さえ生きて、自分の傍にいてくれたら。
今ヤルノの心の内にあるのはそれだけであった。
自分だってこんなところで死ぬわけにはいかない。慎重に、一つずつ、少しずつ、崩れた崖肌を登っていく。後方から老人や犬の声は聞こえない。これならもう大丈夫だろう。そう思って崖の一番上の岩にまで手をかけた時であった。
まるでその向こうに山でもあったかのように、岩の向こうからヌッと黒い影が姿を現した。
「なっ!?」
思わず悲鳴を上げてのけ反る。
どんよりとした瞳、大きく垂れさがった耳、迷路のようなシワ。岩の向こうから姿を見せたのはブラッドハウンドのヴェリコイラであった。
思わず頭が真っ白になった。何故こいつがここに、ギアンテはどうしたのか。ここにいるということは、まさか。
しかし考えている暇などない。突然姿を視界に入れたのは互いに同条件、ヴェリコイラもヤルノと同様彼の出現に一瞬戸惑ったようであったが、すぐに攻撃態勢に入った。前のめりにヤルノに噛みつこうとする。
一方のヤルノの方は全く対応が取れなかった。驚いた拍子に既に重心を後ろに移してしまっているし、そもそも崖を登っている途中である。両手はふさがっているし、これ以上のけ反れば崩れた崖を転落する羽目になり、今度こそ致命傷は免れまい。
万事休す。その言葉が脳裏を過ぎった。
それでも別に構わないかとも思った。自分はもう十分にやった。好き勝手やりたい放題にやってきた。そろそろ自分の順番が来ても、そう不思議ではない。
リィングリーツの森の中で獣にかみ殺されるというのも、よくよく考えれば自分にふさわしい最期のような気がしてきた。
ここにヴェリコイラがいるという事は恐らくギアンテも殺されたという事だろう。彼の唯一の気がかり。それも望みが薄いというのならば、やはりここで死んだとて後悔はない。
生きようとする者は死に、死のうとする者は生き延びる。一瞬のうちに覚悟を決めた時、ヴェリコイラの首筋に黒い影が奔った。
「ヤルノ!!」
聞き覚えのある声。恋焦がれた愛しい人の声。どうにかして彼女に、自分を見て欲しい。ここ数ヶ月はそれだけを祈って行動を続けてきたと言ってよい。
後ろから追いついたギアンテの短刀が、ヴェリコイラの喉元を捉えたのだ。




