第64話 女王
数週間に及ぶ帰路の旅を経て、ウィリアムとアーガイル伯爵領軍は領都フレゼリシアに帰還を果たした。ウィリアムは妻ジャスミンと、出征前よりも随分と大きくなった娘キンバリーとの再会を喜び、家族水入らずの穏やかな休息を数日間楽しんだ。
そして、平和な日々の中で政務をこなす日常が戻り、しばらく経った晩夏のこと。定期的に開かれている、重臣たちとの会議の場。
「諜報員や商人たちからもたらされた情報によると、王国中央部は未だ不安定な情勢にあるようです。軍事の面に関しては、王家が王国軍を掌握したことで一応の安定を見せていますが、宮廷社会が一度崩壊したために未だ政治面の混乱が続いているようで、それに経済面の混乱も重なり、王都トリエステやジェルミ辺境伯領の領都など一部の大都市を除いて平穏とは言えない状況だと」
家令のエイダンからの報告に、ウィリアムは隣に座るジャスミンと顔を見合わせ、微苦笑を浮かべる。
「まあ、あれだけ大きな内戦をした後となれば、それも仕方ないのかなぁ……ロゼッタ女王の統治に関しては?」
「軍部や民からの人気は高いようですが、貴族や豪商などの富裕層からの評価はいまいちのようです。実際、平民将兵や王領民への親しみや慈悲を示す振る舞いが治安の安定化に貢献している一方で、宮廷の掌握や経済面の対応などは上手いとは言えないようで、妥当な評価かと思います」
「……予想通りではありますが、やはり凡庸な君主となられたようですな」
続くエイダンの報告を聞き、朗らかな表情でなかなか辛辣な感想を語ったのは、領軍隊長ロベルトだった。
「王弟ファウスト様やヴァレンテ・ジェルミ辺境伯が補佐に努めてるはずだけど……まあ、どっちも限界があるよねぇ。あの二人も苦労人だねぇ」
ウィリアムは微苦笑のまま言う。
ファウストは生真面目で責任感が強く、どうやら王国軍からの支持が厚いようだったが、とはいえまだまだ経験不足。一方のヴァレンテは、政治家としては少なくともロゼッタやファウストより遥かに優秀だろうが、彼一人で女王を補佐しつつ、宮廷貴族、旧第一王子派の領主貴族、旧第一王女派の宮廷貴族をまとめるのはいくら何でも無理があるはず。
ファウストは重圧で、ヴァレンテは多忙で、気の休まらない日々が続いていることだろうとウィリアムは想像する。おそらく今のレグリア王家で最も気楽なのは、良くも悪くもあっけらかんとした気質のロゼッタ女王当人。
「とはいえ、アルメリア家の陣営に属するアーガイル家としては、この現状が最善と言えるかと」
「そうだねぇ。ミランダ様も、正直言ってこうなることを狙ってただろうしねぇ」
エイダンの見解に、ウィリアムは頷きながら語る。
ミランダ・アルメリア侯爵が第一王女派に与することを選んだ理由の第一は、ロゼッタがアルメリア家に独立承認の確約をくれたから。しかし裏の理由として、内戦を制して宮廷と王国軍の掌握を果たせば強敵になり得るジュリアーノよりも、今後もし対立してもさしたる脅威にはならないであろうロゼッタを隣国の君主に据えたいという思惑もあったことは明らかだった。
ミランダの狙い通り、女王となったロゼッタは、今後のレグリア王国領土となる王国中央部の掌握さえおぼつかない。今後も当面は周辺諸国と対立する余裕さえ持たないであろうし、いずれ情勢を安定させたとしても、ジュリアーノよりは御しやすい相手であることは間違いない。
「……私たちとしては安心できるけど、レグリア王国の民にとっては不幸な話ね。この苦境を上手く乗り越えられない君主が上に立って、おまけに自分たちこそがそれを支持しているなんて」
呟くように言ったのは、ジャスミンだった。
「そうだねぇ。彼らにとっては気の毒な話だし、大勢の不運を喜ぶようなことは本当はやりたくないけど……まあ、これもしょうがないよね。今よりもっと発展した何百年後の社会では分からないけど、少なくとも今はまだ、大陸東部の全員の安楽を求められるほど僕たち支配者層に余裕がないから」
「そうね。私たちは、アーガイル伯爵領を平和に守り続けられるだけでも幸せだと思わないといけないわね」
ため息交じりに言ったウィリアムは、そう答えるジャスミンと顔を見合わせ、微苦笑を交わした。
・・・・・・
十月の下旬。アルメリア侯爵領、領都レアンドラ。
「そうですかぁ。レグリアの宮廷内はそんなに滅茶苦茶に……」
「ああ。第一王女派の宮廷貴族に加えて、第一王子派の取り込みのために残留された一部の第一王子派官僚たちや、第一王女派に与した褒美として要職の席を与えられた東の領主貴族連中も並んだせいで、未だ収集がつかないらしい。宮廷内の力関係が定まっていない状況では秩序も乱れ、王都や王領の復興を進めようにも障壁が多いと」
大広間で式典の開幕を待ちながら、ウィリアムが言葉を交わしているのは義兄のエミリアーノ・モンテヴェルディ子爵だった。アルメリア家に仕える官僚貴族としての立場にすっかり落ち着いた彼は、トリエステに残っている宮廷貴族時代の伝手を利用し、主に元同僚たちから独自に情報を受け取っているという。
「実務能力を期待されて爵位と役職の復活を打診された元中立派も少なくなかったそうだが、大半の者は辞退し、このまま市井で生きるか、私のように逃れた先の大貴族家で官僚をやることを選んだそうだ……私も、トリエステを脱出してウィリアム殿を頼って正解だった。本当に、卿には感謝してもしきれない」
「あはは、結果としてエミリアーノ殿やモンテヴェルディ家の皆さんが幸せになったのであれば、僕も幸いです」
モンテヴェルディ家はレグリア王国という泥船を脱出し、アルメリア王国という勝ち馬に乗り換えることが叶った。愛する妻の実家を助けることができたのは、ウィリアムとしても心から喜ばしいことだった。
「……おお、いよいよ始まるようだな」
前方を向いてエミリアーノが言い、ウィリアムも前に向き直る。
大広間の最奥の壇上、荘厳に彩られた空間。中央に据えられた重厚な玉座の前に、登場したのはミランダ・アルメリアだった。
これから始まるのは、彼女の戴冠式。これまではレグリア王国の一貴族家当主の立場だった彼女は、今日この場でアルメリア家に代々伝わる王冠を頭上に戴くことで、独立したアルメリア王国の君主となる。アルメリア王国は六十余年ぶりに、再独立を成すことになる。
この大広間も、かつてアルメリア家が一国の王家だった時代には、謁見の間として用いられていたという。
ミランダはいつも以上に豪奢な装束で、集った貴族たちの前に立つ。ウィリアム、エミリアーノ、そしてルトガー・バルネフェルト伯爵やトレイシー・ハイアット子爵、ディートハルト・リュクサンブール伯爵、シャーロット・レスタ―公爵など陣営の貴族たちは、皆が彼女の堂々とした佇まいを見守る。
ミランダに次いで、王冠を手にしたケルカ教の大司教が登場。今この場においては神の代理人として王冠を掲げる彼の前で、ミランダは世俗の為政者として片膝をつき、首を垂れる。その頭上に静かに王冠が載せられ、そして彼女は再び立ち上がる。
誰もが静まり返る荘厳な空間は、いくつものガラス窓から差し込む陽光の輝きに照らされている。
「……かつて、私の祖父の時代。アルメリア王国は、ひとつの独立した国家だった」
貴族たちを見回し、ミランダは静かに語り始める。
「一度は君主家としての独立を失ったアルメリア家は、今日再び、一国の主となった。我が頭上に戴く王冠が、我が背後に据えられた玉座が、その証である……誰に与えられたものでもない。この私が、戦い勝利した末に勝ち取った王位である。ここに居並ぶ王国貴族の諸卿が、共に戦ってくれたことで私にもたらした支配者の地位である。私はアルメリア王国の新たな女王として、この日を忘れることは決してない。共に戦った同志たる諸卿に見守られながら戴冠したことを、諸卿がこれまで私に示してくれた誠意を、生涯忘れはしない。私は諸卿の君主として、諸卿がこれまでくれた誠意に、これからくれる忠節と献身に、正しく応えることを誓おう。諸卿の家を、領地を、財産を、貴族としての特権と誇りを、正しく庇護することを唯一絶対の神に約束しよう」
語り切ったミランダは、そして腰に帯びた剣を抜く。玉座や王冠と並び、アルメリア家に代々伝わるという宝剣を。
「我は女王である! 我こそが、この国の主である!」
高らかな宣言に、居並ぶ全員が一斉に首を垂れる。女王陛下。我らが主。口々に言いながら、伏して君主への忠誠を示す。
東部統一暦九八六年。十月二十八日。アルメリア王国は再興され、ミランダ・アルメリアは女王となった。




