第56話 鞍替え
オクタヴィアン・ヴァロワール侯爵と、ヴァロワール家の武門の筆頭である領軍隊長が戦死。会戦に臨んだ兵力のうち、徴集兵や各貴族家の軍は散り散りとなった。ヴァロワール侯爵領軍についても、どれほどの数が領都アレシーまで帰還できるかは未知数。
この衝撃の報せをもたらされたリッカルダ・レグリアは、愕然とした。
「……そう、彼は死んだの」
オクタヴィアン。聡明で善良で、しかし自分への恋心が絡むといつもより愚かで、だからこそ可愛らしかった。彼の死を受けて、感情が動かないと言えば嘘になる。
しばらく顔を伏せて黙り込み、そしてまた顔を上げる。そこにはもう悲しみの色はない。
「参ったわね。まさか、こんなことになるなんて」
兵力ではヴァロワール家の陣営が敵軍を上回っており、敵の大将を務めているというアーガイル伯爵は聡明だが頼りない人物という評判。おまけに、彼は昨年のアルメリア家とレスター家の戦争では形式的に自家の軍の将を務めていただけで、会戦で大軍の総指揮を担った経験などない。
なので総合的に見れば、こちらが有利だと思っていた。それでも、会戦を指揮した経験がないのはオクタヴィアンも同じである以上、彼が必ず勝てると確信していたわけではない。
とはいえ、これほどの大敗北に終わるとは思っていなかった。まさか、大貴族家当主で最高指揮官である自身を死に追いやるような敗け方をするとは想像だにしていなかった。
報告によると、本来は本陣防衛を兼ねて近くに残すのが常道である予備軍を、戦闘正面に投入したために、手薄になった本陣に小部隊の奇襲を受けて死んだという。無謀な判断故に命を散らすとは、彼の恋心を煽り過ぎたか。
「殿下。アルメリア家の陣営の軍勢は、このアレシーを目指して南進しているとのこと。ここは急ぎ王都トリエステに帰還すべきかと存じます」
「ええ、分かっているわ」
大将であるオクタヴィアンが戦死し、各貴族家の軍は離散し、徴集兵も逃げ出したとなれば、敵軍は誰にも阻まれることなく前進を続けるだろう。
ヴァロワール家が残っている領軍と領都周辺から集めた民兵で立ち向かうとしても、守りに徹して敵軍の侵攻を押し止めるのがせいぜい。撃退できる可能性は極めて低い。オクタヴィアンが死んだ以上、ヴァロワール家には敵軍を押さえておく以上の働きなど期待できず、となれば自分がここにいる意味はない。リッカルダはそう考える。
「今日中にアレシーを発ちましょう。荷物をまとめて、間に合わない分は捨て置いて――」
「殿下、失礼いたします。ナタリー・ヴァロワール様が参られました」
そのとき。リッカルダのいる客室の扉が叩かれる。オクタヴィアンの妹が訪ねてきたことを、扉の向こうに立つ近衛騎士が告げる。
「……どうぞ」
瞬時に外用の表情に切り替えた上で、リッカルダは答えた。扉が開かれ、オクタヴィアンとよく似た端麗な容姿の女性が一礼し、入室する。
ナタリー・ヴァロワール。今は亡き先代ヴァロワール侯爵の次子で、オクタヴィアンの妹。兄を失ったばかりの彼女は、しかし涙を見せることなく、表情を引き締めていた。
「第二王女殿下。既にご存知かもしれませんが、兄の戦死の報について私から正式にお伝えしなければならないと思い、参りました」
「……ありがとう、ナタリーさん。ええ、私も聞きました。彼が亡くなったなんて未だに信じられません。信じたくありません」
愛する人を失って呆然とする淑女。誰の目にもそう映るであろう表情と声色で、リッカルダは答える。
「あなたもきっと、衝撃を受けていることでしょう。素晴らしいお兄様を失ったあなたの悲しみの深さは、想像もできませんが……」
「はい、尊敬する兄が世を去ったことに、大きな衝撃と深い悲しみを覚えております。ですが、今は嘆き悲しむ前に、ヴァロワール家が置かれている危機的状況に対処しなければなりません。兄亡き今、私こそがヴァロワール家の意思決定者ですので」
「……そうですね。あなたはとても強い女性です。心から敬意を表します」
胸に手を当て、悲しさの混じる微笑を作りながら、リッカルダは言った。ナタリーは毅然としたまま、微笑で応えた。
その笑みに、リッカルダが僅かな違和感を覚えた次の瞬間。
「なっ!?」
「おい、何を――」
扉の外から近衛騎士たちの声と、争うような大きな音が響く。ナタリーの入室後に閉じられていた扉が再び、今度は乱暴に開けられ、なだれ込んできたのはヴァロワール家の親衛隊と思しき騎士たちだった。
その騎士たちが列をなす後ろ、扉を守っていた二人の近衛騎士は、倒れたまま動かない。
さらに、別方向の扉の向こう、この客室と繋がった使用人控え室からも喧騒が聞こえ、間もなく親衛隊騎士たちが突入してくる。
客室内に控えていた近衛騎士たちが急ぎ剣を抜き、リッカルダを囲むが、まさか味方の城内で襲撃されるとは想定しておらず、その人数は僅かに二人。十人を超えるヴァロワール家の騎士にはどう考えても勝てない。
「殿下。どうか抵抗はなさらずに。無抵抗でいてくだされば、御命は保障いたします。殿下の家臣たちの血がこれ以上流れることもありません」
「……そうね。あなたたち、剣を収めなさい。他の者も、彼女の言う通りにしなさい」
思案の後、リッカルダは周囲にそう命じた。二人の近衛騎士は一瞬の逡巡の後に剣を収め、使用人たちは青ざめた顔のまま動かない。
さすがにこの状況では、清楚な表情など保っていられない。リッカルダの微笑が崩れ、悔しさが顔に滲む。
「ヴァロワール家は兄と私を裏切ると考えてよろしいのかしら?」
「まさしく仰る通りにございます。当家が危機を脱し、権勢を維持するためには、情勢の流れに身を委ねるのが最善。新たなヴァロワール家当主として、私はそのように考えました」
薄い笑みで答えるナタリーの考えは、リッカルダにもおおよそ想像がつく。
小山脈の東側、王家の派閥争いにおいて第一王子派が勝つか敗けるかは、もはや五分五分の状況にある。北では苦戦し、東では戦況が膠着している。自分勝手に動いている諸貴族家の軍がどうなるかは未知数。この状況から第一王子派が勝利を収めるとしても、辛勝となるだろう。勝利の後も王国中央部は内戦の混乱が後を引き、すぐには落ち着かない。その隙にアルメリア家は、ジュリアーノの意向を無視して事実上の独立を果たす。
ヴァロワール家からすれば、もはや弱体化の決定づけられた第一王子派と協力関係を維持しても大した利益は得られない。これほど追い詰められながら、第一王子派のためになおもアルメリア家の陣営と戦い続ける意味は薄い。
むしろ、このまま第一王子派という泥船に縋り続ければ、一緒に沈んで没落あるいは滅亡しかねない。ヴァロワール家も守るべき歴史と伝統のある名家である以上、いくら親類とはいえ、第一王子派と心中することはできないだろう。
一方で、第一王子派を見限って第一王女派に鞍替えすればどうなるか。
まず、王領東部で第一王女派に攻勢を仕掛けている第一王子派の主力、その兵力の半数弱を担うヴァロワール家の陣営の援軍が寝返れば、それだけで残る六千のレグリア軍は壊滅しかねない。兄ジュリアーノも戦死しかねない。
兄がその場を切り抜けて後退できたとしても、危機的状況は変わらない。アルメリア家の陣営の本隊のみならず、ヴァロワール家の協力を得てアーガイル伯爵率いる別動隊までもが西から王領に進軍すれば、東西と北に大規模な敵軍を抱えた第一王子派は完全に追い詰められる。
その段になれば、おそらく第一王子派の諸貴族も寝返るだろう。派閥そのものが消滅し、味方を失ったジュリアーノと自分は敗北する。ヴァロワール家はまんまと勝ち馬に乗ることが叶い、戦後も一陣営の主として権勢を維持できる。
問題は、既に戦争状態に突入しているアルメリア家の陣営が、ヴァロワール家の鞍替えを受け入れ、味方として認めるかどうか。しかしこの点も、おそらくは心配ない。
アルメリア家としては、戦後にその独立を認めると明言してくれた第一王女派にできる限り勝ってもらいたいはず。現状では、第一王子派の敗北は確実とまでは言えない。しかしヴァロワール家の鞍替えを受け入れれば、ほぼ確実に第一王女派を勝たせることができる。
加えて言えば、戦後のことを考えても何かと都合がいい。
このまま戦い続ければ、まず間違いなくアルメリア家の陣営の優勢が続き、ヴァロワール家の求心力は低下し続け、いずれはヴァロワール派の貴族たちが皆アルメリア家の側に寝返り、ヴァロワール家の陣営そのものが消滅する。しかし、おそらくアルメリア家はそこまでの事態を望まない。何故なら、そんなことをすればキルツェ辺境伯家の陣営と勢力圏を接してしまうから。
大陸東部の北側一帯と南側一帯の貴族同士――すなわち現在のアルメリア家の陣営とキルツェ辺境伯家の陣営は、伝統的に仲が悪い。それこそ、アルメリア家とレスター家との六十余年に及んだ因縁などよりもさらに根深く、東部統一暦の成立する以前から仲が悪い。もしキルツェ辺境伯家の陣営と勢力圏を接すれば、アルメリア家としては面倒な火種を南に抱えることになる。できることならば避けたいはず。
もし、ヴァロワール家の陣営が味方になった上で南に存続すれば話は変わる。敵対しておらず、こちらよりも数段弱い陣営。因縁深い勢力との間に置く緩衝地帯として丁度いい。
アルメリア家の陣営は様々な利益を見込み、ヴァロワール家の鞍替えを認める。ナタリーが多少の賠償金などを差し出せば、すぐに講和を結び、そして共に第一王子派を潰しにかかる。
そう考えると、こうして第二王女たる自分の身柄を確保できたのは、ナタリーにとって実に都合が良いことだろう。ジュリアーノに次ぐ第一王子派の重要人物の身柄ともなれば、これ以上ない鞍替えの手土産となる。
「……あなたはそれでいいとして、ヴァロワール家の家臣たちはそんな弱腰の決断を受け入れるのかしら? アルメリア家に頭を下げて、第一王子派を敗北に追い込めば、ヴァロワール家の躍進は確実に叶わなくなるわよ? むしろ権勢が弱まると思うけど」
「ご心配いただき恐縮ですが、問題ございません。兄の大敗と死をもって、家臣団のうち躍進を求める一派は発言力を失い、あるいは意見を変えました。既に、たとえ権勢が弱まろうと陣営が確実に存続することを望む慎重派が私と共に主導権を握っております……親類だからと言って、兄は第一王子派に肩入れし過ぎました。内々に結婚の話が進んでいたからといって、貴方に入れ込み過ぎました。兄の判断がこの事態を招いた以上、当主の座を継いだ私が方針を転換しても逆らう者はいません」
ナタリーの即答を受け、リッカルダは嘆息する。どうやら、説得をもってこの窮地を脱することはできないらしいと悟る。
「さて、今後のことですが、まずはご移動を願います」
「牢獄行きということかしら?」
「牢獄行きは殿下の家臣一同のみです。殿下には、牢獄とまではいきませんが、もっと監視しやすいお部屋に移っていただきます。いずれも一時的な措置ですので、ご安心ください」
「……分かったわ」
リッカルダは立ち上がり、ヴァロワール家の親衛隊騎士の一人に先導され、部屋を出る。
「殿下」
再びナタリーに呼ばれ、リッカルダは振り返る。
「兄上に対する殿下の御振る舞いは、全てが兄上の恋心を利用してのことでしたか?」
その言葉で、自分の内心を彼女には見透かされていたことをリッカルダは悟り、微笑する。
「いいえ。それもあったけれど、それが全てではなかったわ。彼と結ばれていたら、きっと幸福と思えるような生涯を送っていた。王女ではなく一人の人間としてそう考えているわ」
「……左様ですか。では、兄も多少は報われるでしょう」
それまで毅然としていたナタリーは、どこか寂しげな感情を声に滲ませて言った。




