第55話 別動隊の戦い③
「敵の予備軍が動きました。敵左翼に増援として合流しています。敵本陣に残っているのは直衛のみです」
「……どうやら、ヴァロワール卿は最も愚かな判断をしたようだな」
偵察を務めた騎士の報告を受け、そう呟いたのはフェルナンド・アルメリアだった。
彼がいるのは、森林と平原が混じり合う一帯、点在する小さな森のうちのひとつ。位置としては戦場の南東側、すなわち敵本陣の右後方にやや離れた地点。
敵軍が戦場に到達するよりも前、昨夜のうちに、フェルナンドはこの森の中に身を隠した。アルメリア侯爵領軍騎士を五十騎ほど連れて。
もし敵軍が事前偵察などでこちらを発見するようであれば、騎馬の機動力に任せて自陣まで逃げ戻るつもりだった。が、いくつもの森が点在するこの一帯で、フェルナンドたちの潜伏した森は戦場から離れていたこともあり、敵の偵察は森の中までは及ばなかった。
会戦が始まった後も敵本陣の右後方に潜み続けることに成功したフェルナンドたちの任務は、奇襲によって敵将オクタヴィアン・ヴァロワール侯爵を討つこと。
とはいえ、潜伏地点から敵本陣までの距離は数百メートル。他の森の陰に隠れながら突撃したとしても、最終的には身を曝して敵に迫ることになる。そうなれば、ほぼ確実に見つかる。
そして敵本陣の前には、一千の予備軍。こちらの奇襲に気づいたオクタヴィアンは、すぐにこの予備軍の中に身を隠すだろう。そうなれば、いくら騎馬突撃の勢いがあるとはいえ、五十騎で一千の敵に斬り込んで大将首を狙うのは分の悪い賭けとなる。
なので奇襲を実行するのは、敵側が勝利を焦り、予備軍までをも戦闘に投入して本陣を無防備にした場合のみ。オクタヴィアンがそうする可能性は高いと大将ウィリアムもフェルナンド自身も予想したが、果たしてそれは的中した。
「総員、俺に続け! 敵将を討ち取るぞ!」
「「「応!」」」
愛馬に騎乗し、森から打って出たフェルナンドに、五十騎の騎士たちが続く。未来の主君を先頭に、敵本陣を目指して疾走する。
点在する森を死角として利用しながら加速し、その死角もなくなる距離まで敵本陣に迫ると、身を隠すことなく一直線に駆ける。敵の本陣直衛が態勢を整える前にできるだけ距離を詰めようと、馬を全速力で走らせる。
・・・・・・
「敵の伏兵です! 南東方向より数十騎が接近!」
周囲を見張っていた本陣直衛の一人が叫び、オクタヴィアンはそちらを振り返る。報告通り、敵騎士と思われる数十騎が疾走してくる様を目撃し、思わず目を見開く。
「なっ……」
「閣下! 急ぎ避難を!」
領軍隊長に促され、オクタヴィアンは騎乗している馬を操り、北西方向へ逃げようとする。親衛隊騎士の数騎がオクタヴィアンの周囲を囲むように続き、そして残りの本陣直衛は領軍隊長に率いられ、迫り来る敵騎士たちに立ちはだかる。
逃げながら、オクタヴィアンは再び後ろを振り返る。発見した時点で既に加速していた敵騎士たちは、想像以上に素早く迫ってきて、彼我の距離はずいぶんと縮まっている。
本陣に残った領軍隊長の指揮のもと、直衛たちが敵騎士たちの突撃を止めようと壁を築く。しかし、加速した騎馬の群れを押し止めるのに、数十人の歩兵と弓兵、そして十騎足らずの騎士だけでは到底足りない。彼らは僅かな時間を稼いだのみで、あっさりと敵騎士たちの突破を許す。
「くそっ、こんなことが……」
死への恐怖が、オクタヴィアンの心中で高まる。
予備軍とは不測の事態に備えるためのもの。安易に動かすべきではない。それは軍学の基本知識として知っていた。その上で、賭けとなることを承知で予備軍を戦闘に投入すると決断した。
自分の身の安全を賭けに投じるというのがどういうことか、今初めて、実感をもって理解した。死の危険が迫る中で、ようやく思い知った。
今思えば、予備軍を大胆に投入するという、果敢な決断を成す自分自身に酔っていなかったとは言いきれない。勇気ある決断の末に勝利を果たし、リッカルダ第二王女の感謝と敬愛を受けるという誘惑に、判断を引っ張られたことを否定はできない。
自分は何と馬鹿だったのだろうか。側近たちの進言を受け入れていれば、少なくともこれほどの苦境に立たされることはなかったであろうに。
「閣下! お急ぎください!」
「分かっている!」
隣を走る騎士に急かされ、オクタヴィアンは怒鳴るように答える。周囲の騎士たちはともかく、オクタヴィアンの騎乗の技量は決して高くない。敵騎士たちは次第に追いついてくる。
こちらの予備軍がいる左翼後方まで辿り着けば、その隊列に紛れてしまえば、少なくともこの奇襲によって殺される心配はなくなる。だからこそオクタヴィアンは、激しい揺れで落馬しそうになりながらも懸命に馬を走らせる。
「くそっ! 新手だ! 左前方!」
そのとき。騎士の一人が叫び、オクタヴィアンたちは左前を向く。逃走の進路上に、さらに別の敵騎士が確かに迫っていた。
おそらくは戦場の左後方の森に隠れていたのだろう。その数は僅かに四騎のみ。本来は戦況に何の影響も与えないであろうごく少数の敵が、しかし孤立しているオクタヴィアンたちには大きな脅威となる。
「突破するしかありません! このまま前進を!……ぐあっ!」
オクタヴィアンを囲む四騎の騎士のうち、三騎が前に出て横に並び、主の盾となりつつ正面の敵騎士を突破しようとする。しかし次の瞬間、三騎のうち二騎が前のめりに倒れ、残る一騎も倒れた馬に足を取られるかたちで転ぶ。
後方を走っていたオクタヴィアンと残る一騎は、不意の状況変化に慌てて急停止する。その反動に耐えられず、オクタヴィアンはついに落馬して無様に地面に転がる。
全身に鈍い痛みを覚えながらなんとか起き上がり、前方を見ると、突如倒れた二騎の馬には矢が突き立っていた。正面の敵騎士を見ると、それはただの騎士ではなかった。
軽装の騎士と、クロスボウを構えた兵士が馬に二人乗りしている。オクタヴィアンが少数の護衛を連れて味方の陣形に逃げ込もうとした場合に、その足を止めることだけを考えた兵力。
「あぁ……」
してやられた。敵の方が一枚も二枚も上手だった。
諦念と共に声を零しながら、オクタヴィアンは後ろを振り返る。
残る一騎の騎士はオクタヴィアンと目が合うと、主を守りきれないことへの悔しさを表情に滲ませ、そして襲い来る数十騎の敵騎士を前に絶望的な戦いに身を投じる。
たった一騎では数秒と持たず、瞬殺されたその騎士を突破し、敵騎士の群れはいよいよ目の前まで迫る。
騎馬突撃の質量に飲まれる寸前、オクタヴィアンの脳裏に最期に浮かんだのは、自身が恋焦がれるリッカルダの笑顔だった。
・・・・・・
「おお、フェルナンド様は上手く動いてくださったな」
「そうみたいですねぇ。よかったよかった……あ、敵軍も気づきましたねぇ」
敵陣の後方でアルメリア侯爵領軍の騎士たちが堂々と掲げる、アルメリア家の家紋旗。それに気づいた敵軍の各部隊が、自軍の本陣が消滅したことを理解して士気を崩壊させ、退却を始めた様を眺めながら、ウィリアムはルトガーと言葉を交わす。
フェルナンド率いる伏撃部隊からは、黒い旗も掲げられている。それは、敵将オクタヴィアン・ヴァロワール侯爵を討ち取ることに成功したことを示す合図だった。
「閣下。追撃いたしますか?」
「そうだねぇ。各部隊に追撃するよう命令を伝えて」
「承知しました」
ウィリアムは勝利を決定づけるための命令を発し、ロベルトがそれに頷く。命令が中央と両翼の各部隊に伝えられ、アルメリア家の陣営の別動隊は、背中を見せて逃げる敵軍を激しく追撃する。
「それにしても、ヴァロワール卿も気の毒にな。恋にのめり込まなければ、このような結末にはならなかっただろうに」
聡明で、どちらかといえば思慮深い人物として知られるオクタヴィアン・ヴァロワール。彼がおそらくは陣営の躍進を志し、このような賭けに近い戦いに臨んだ背景には、リッカルダ第二王女への恋心もほぼ間違いなく影響している。だからこそため息交じりに言うルトガーに、ウィリアムは微苦笑を返す。
「まあ、感情に支配されて行動してこそ人間ですからねぇ」
野心。恐怖。信仰心。誇りや意地。見栄。自己陶酔。そして恋心。そうした個人の感情が貴族家や貴族領そのものを動かす要因となった例は、歴史を見れば枚挙にいとまがない。
昨年から始まったこの動乱も、決して例外ではない。
数世代にわたって募らせたレスター家への恨みや猜疑心の帰結として、話し合いによる和解と共存の道をはじめから排して戦争に踏みきったミランダ。会戦で敗北した後、逆転勝利に賭けて再戦する選択肢があったにもかかわらず、妻の忘れ形見である愛馬の死を受けて全てを諦めたと言われているクリフォード。敗ければ家が滅亡することを覚悟で、貴族としての躍進や因縁深き隣人への勝利を求めたトレイシー。それぞれの決断と行動には、彼ら個人の感情が確実に大きな影響を与えている。
第一王子派の陣営においても、同じことが言える。
ジュリアーノ・レグリア第一王子がアルメリア王国の再独立を認めれば、ミランダはわざわざ第一王女派に与して戦う理由はなかった。しかし、大貴族家の独立を許してレグリア王国による大陸東部統一の体制を崩すことを、おそらくは彼の誇りが許さなかったために、ジュリアーノはミランダの求めを受け入れなかった。
ジュリアーノの傘下にいる第一王子派貴族たちは、自分たちが早く地位を得ることを求め、中立派貴族の粛清を彼に急がせた。そして今は、派閥全体の勝利よりも自領を荒らしたくないという目先の個人的な利益を求め、第一王女派への攻勢から離脱して北進しているという。
ウィリアム個人でさえ、その判断は感情と切り離されてはいない。
伯父であるルトガーと敵対する陣営に入りたくはない。いかにも強そうなミランダに命運を委ねる方が安心できる。そうした個人的な感情は、アルメリア家の陣営に属することを決断する上で大きな後押しとなった。
人が人である以上、思考と感情を切り離すことは難しい。感情を排した理屈は、理屈を排した感情よりも、無価値となり得る。
「おっ、なかなか冷笑的な名言が出たな。だが、確かにそれは人間の真理だ」
ウィリアムの言葉にルトガーが感心したような表情を返す間にも、激しい追撃は進む。
大将オクタヴィアンを失ったヴァロワール家の陣営の軍勢は、秩序を失って壊走。全体の意思決定を成すべき大将がいないために混乱を極め、再集結は絶望的となる。
アルメリア家の陣営の別動隊が負った損害は、死傷者の合計で一千弱。戦闘の事後処理と休息を終えた後、負傷者の世話のために多少の人手を残し、七千五百ほどの兵力を保ちながらさらなる南進を開始する。その進軍を阻む敵はいない。




