第32話 偽装退却(戦況図掲載)
「……何故、敵の左翼が後退する?」
レスター家の陣営の本陣。敵側の動きを眺めながら、クリフォードは怪訝な顔で呟いた。
こちらの左翼は、敵の右翼を崩壊に追い込もうとしている。傭兵として雇い入れた北部人の別動隊による森からの奇襲も相まって、敵右翼はこちらの狙い通り、陣形を崩し始めている。おそらくは、こちらの中央主力が突破される前に敵右翼の方が先に敗走するだろう。
そう思いながら戦況を見守っていたところ、唐突に敵左翼、アーガイル軍がじりじりと後退し始めた。それに対して、いくつかの中堅貴族家の軍から成るこちらの右翼は追撃を行っている。
最初、こちらの右翼が優勢になったのかとクリフォードは考えた。が、それにしてはアーガイル軍の後退はあまりにも秩序立っているように見える。
そもそも、あの破壊騎兵の騎馬突撃にさえ耐えたアーガイル軍が、言っては悪いがこちらの陣営の中でも特に精鋭というわけではない右翼を相手に、簡単に押し負けるとは思えない。何らかの意図を持ち、あえて下がっていると考えるべき。
しかし、敵の中央主力の左側面を死守すべき敵左翼が、この段になって下がるべき理由が分からない。このままアーガイル軍を追ってこちらの右翼が前進すれば、いずれ敵の中央主力の左側面に辿り着く。互いに至近距離で左側面を向け合うというのは、こちらの右翼はもちろん、敵の中央主力にとっても危険な状況のはず。今そのような不安定な状況を招いても、敵側に利益はない。むしろ、中央突破による勝利の可能性を損ないかねない。
クリフォードが振り返ると、参謀を務めるレスター公爵領軍隊長も、やはり怪訝な表情でアーガイル軍の動きを見ている。
そして間もなく、領軍隊長は何かに気づいたように目を見開く。
「閣下、あれを! 敵はただ下がっているのではありません! 左後方へと移動しています!」
その言葉を受け、クリフォードは再びアーガイル軍の方を向く。状況を理解し、この先の展開を予想し、顔を青くする。
「……まずい、これは敵の罠だ」
領軍隊長の言った通り、敵左翼のアーガイル軍は、彼らから見て左後方、戦場の北西方向へと後退していた。
戦場においては、将兵たちの視野は狭い。こちらの右翼前衛の将兵たちは、アーガイル軍が全体として陣形を維持しながら後退していることには未だ気づいておらず、おそらくは自分たちがアーガイル軍を押し込んでいて優勢だと思いながら、懸命に追撃している。
必然的に、アーガイル軍の後退する方向へこちらの右翼も釣られて進むこととなり――結果として、徐々に戦場から離されていく。それまではこちらの中央主力と隣り合っていた右翼の左側面が、少しずつ敵側に曝されていく。
右翼の指揮を任せている貴族は、後衛から戦況を注視するうちに、アーガイル軍が偽装退却を行っていると気づいたようだった。右翼指揮官のもとから伝令が何人も走り、おそらくは追撃中止が伝えられる。
が、右翼の将兵たちが迅速に動きを変える様子は見られない。致し方のないことだった。まともな訓練も受けていない民兵が多くを占める、追撃の最中で興奮している軍勢に、急な停止命令を行き渡らせて従わせるのは不可能に近い。
結果として、右翼指揮官の命令はむしろ悪手となる。右翼後衛にいた一〇〇〇弱の将兵たちは多くが命令を受けて停止するが、追撃戦の只中で隊列も指揮系統も乱れている前衛のおよそ二〇〇〇には命令がしっかりと伝わらず、将兵たちの足並みが大きく乱れる。
多くの者は、命令が聞こえないのか追撃を続ける。命令通りに足を止める者もいるが、どうやら状況が飲み込めず混乱している。なかには、せっかく停止したのに周囲に釣られて再び進み出す者もいる。命令を誤認したのか、勝手に後退したり、別方向へ走り出す者もいる。
大いに混乱したこちらの右翼は、もはや一塊の軍勢とは言えない。前衛は隊列も何もない烏合の衆となりながら無秩序に敵左翼を追いかけ、その左側面を無防備に敵に曝す。後衛は小勢で取り残され、脆弱な正面をやはり敵に曝す。
左側面が空いたのは敵の中央主力も同じだが、右翼指揮官の命令も通じないまま目の前のアーガイル軍を追い続けるこちらの右翼前衛も、前面に立って接近戦を行う準備などできていない右翼後衛も、即座に方向を転じて組織立った側面攻撃を行うことなど到底できない。急な方向転換をしての強襲など、よほどの精鋭でなければ不可能。そしてそのような精鋭は、そもそも偽装退却に釣られ続けて秩序を失いながら無様な追撃を演じたりはしない。
一方の敵側は、こちらと違って意図的にこのような状況に臨んでいる。となれば、こちらの隙を突く用意ができているのも当然のこと。
敵の中央主力、その後衛左側にいる総勢一〇〇〇強の部隊が、こちらの右翼前衛の左側面に向けて突撃を開始する。無秩序な追撃を行う右翼前衛は、左から迫る敵軍に対して迎撃態勢をとる様子はない。
・・・・・・
「……アーガイル軍は、戦闘中に陣形を維持しながらそのような動きができるというのか?」
開戦前。アルメリア家の陣営、貴族たちによる軍議の場。
驚きを顔に表しながら言ったのは、総大将であるミランダ・アルメリア侯爵だった。彼女の表情と言葉を受けて、ウィリアムは固まる。
他の貴族たちも一様に驚いた顔で、あるいは怪訝な表情でこちらを向いており、ただでさえ空気の張りつめた軍議の最中に皆の注目を集めたことで、ウィリアムの内心で緊張が大きく膨らむ。
とはいえ、事の発端が自分の提言である以上、緊張の責任は自身にある。
左側面をアーガイル軍の防御陣形、右側面を諸貴族軍と森で守りつつ、精強なアルメリア軍を中心とした中央主力が奮戦し、敵の中央を突破。敵の陣形を破壊し、壊走に追い込む。それが、単純ながら成功率の高い作戦として、全会一致で定められた。
その後に話し合われたのは、中央主力が敵の中央突破に手こずった場合の第二案。敵の左翼あるいは右翼を崩し、そのまま敵の中央の側面まで攻め込むことで、こちらの中央主力による攻勢を援護する方法がないかが検討されていた。
そこでウィリアムが思いついたのが、アーガイル軍が正面の敵軍と戦いながら左後方へと斜めに後退し、対峙する敵軍の左側面が味方に向くよう誘導し、そこを中央後衛の別動隊なり後方の予備軍なりに攻撃してもらう、という策。
このような場で発言するのはひどく緊張するが、喋るのが恥ずかしいなどという理由で発言を控え、将の一人としての務めを果たさないのは、共に戦うアーガイル軍にも自身の生還を待つジャスミンたちにも申し訳ない。なので勇気を振り絞って提案した。結果、ミランダたちから返ってきたのがこの反応。
「正面の敵と戦いながら、軍としての秩序を保ち、ただ後ろへ下がるだけでなく左後方へと移動し続ける。アーガイル軍にはそれが可能。卿はそう言っているのか?」
「……は、はい。さすがに正面と左側面の二方向から攻められながらは不可能でしょうが、敵が攻勢を仕掛けてくるのが正面だけであれば、それを凌ぎながら左後方へ下がることは、できる、はずですぅ」
防御的に戦うため、アーガイル軍は陣形の死守を最優先事項と定めて訓練を積んできた。左側面を味方の騎兵部隊などに守ってもらえるのであれば、自軍にはそのような動きも十分に可能。そう考えたからこそ、ウィリアムは身を縮めながらもはっきりと答える。
「……」
ミランダがウィリアムの後ろに控えるロベルトの方を見たのが、彼女の視線の動きで分かった。本当に可能なのか、アーガイル軍の実務指揮を担っている参謀に視線で問うたのだろうとウィリアムは思った。
自身の後ろで、ロベルトが頷くのが気配で分かった。能力的に確かに可能であると、彼が答えたのだと分かった。
「……そうか。では、卿の言葉を信じよう。諸卿、異論があれば今この場で頼む」
言いながら、ミランダは集っている貴族たちを見回す。その強い視線を前に、代案もなく、ミランダが信じたウィリアムの言葉を否定できる者はいなかった。ミランダの傍らに立つ継嗣のフェルナンドでさえも、微妙な表情を浮かべながらも口を開くことはしない。
「異論がないようであれば、アーガイル卿の提案を第二案の主軸とする。アーガイル軍がそのような後退で正面の敵軍を誘導した後、その敵軍への側面攻撃を成すのは――」
ミランダが中心となって軍議を進める中で、ウィリアムは自分の思いつきが採用されてしまったことに驚きを覚える。
一応は軍学も勉強した。子供の頃に学び、昨年もう一度軍学書を読んで学び直した。歴史書の戦争記録や戦記譚なども、動乱の時代に備えてあらためて色々と読んだ。そうして覚えた知識をもとに提案をしてみたが、それが通用するとミランダに見なされたのは、正直に言って意外だった。
言ってしまって策として採用されたからには、有限実行しなければならない。ウィリアムは内心で、また新たに覚悟を固める。
・・・・・・
そして現在。陣形を維持しながら左後方へと後退するアーガイル軍の陣形中央で、ウィリアムは安堵の表情を浮かべながら馬を進めている。
「敵も狙い通りに釣られてるみたいだし、上手くいっててよかったねぇ」
そう語るウィリアムの後方は、ギルバートたち親衛隊騎士がしっかりと守っている。彼らは後ろの状況を確認し、流れ矢などが飛んでこないか注視しながら、器用に馬を進めている。
そしてウィリアムの隣にはロベルトが馬を並べ、共に移動する。
「むしろ、狙った以上の結果と言ってよろしいかと。敵右翼前衛の隊列の乱れは予想を超えています。あの状態でこちらの友軍の側面攻撃を受ければ、ひとたまりもないでしょう……お見事です、閣下」
「僕はただ策を思いついただけで、凄いのは実際に動いてる皆だよぉ。それに、思った以上の成果が出てるのは運がよかっただけだろうし」
「ですが、強運もまた軍を率いる者に求められる資質です。閣下は将としての才覚もお持ちなのでしょうな」
「……だとしても、そんな才を発揮する機会はあんまりない方がいいなぁ」
ウィリアムはロベルトと言葉を交わしながら、左方向に視線を向ける。
味方の中央主力、その後衛左側から出撃した軍勢――ハイアット軍が、アーガイル軍を追う敵右翼の前衛左側面へ向けて、突撃を開始する様が見えた。




