第29話 リクガメの守り
最初の激突で勝敗が決することはなく、両軍は拮抗する。中央、右翼、左翼、それぞれの軍は正面の敵軍とぶつかり合い、せめぎ合う。その様が、ミランダのいる本陣からは一望できる。
最前面に立つ下馬騎士や歩兵たちが血と泥にまみれながら白兵戦を展開し、後方から弓兵が曲射によって戦いを援護する。壮絶な殺し合いの中、無数の怒号や悲鳴、断末魔の叫びが生まれる。
中央主力は、アルメリア侯爵領軍の将兵が多く配置されていることもあり、かなり攻撃的な戦いを展開している。敵の中央主力もレスター公爵領軍を多く配置しており、容易い相手ではないはずだが、それでも正規軍人の質と量で勝るこちらが有利に戦いを進めるだろう。
右翼の諸貴族軍も、質の面では頼りなく思っていたが、存外よく戦っている。押し勝てるかは分からないが、元より彼らにそこまでは求めていない。敵軍の左翼を前に崩れずにいてくれるのであれば十分。
そう考えながら、ミランダが最後に目を向けたのが、左翼を守るアーガイル軍。驚くべきことに……というべきか、やはりと言うべきか、中央主力に勝るとも劣らない奮戦を見せている。徴集兵に至るまでそれなりに鍛えられているという練度はもちろん、高い士気がなければここまでの戦いを成すことはできまい。
良き家臣と良き領民は、良き領主の下にこそ存在し得る。危険な戦場の只中に自ら立っていることも合わせて考えると、ウィリアム・アーガイルという人間は、幸いなことに自分の見込み違いではなかったらしい。
「閣下。敵の騎兵部隊が前進しています」
「ああ、分かっている……早くも勝負に出てくるか」
総勢およそ千二百の敵騎兵部隊が、アーガイル軍の左側面へと移動していく様を見ながら、ミランダは参謀である領軍隊長の言葉に答える。
自分がクリフォードの立場でも、同じ策に出る。まともに激突しても力負けすることが予想される以上、戦場において最大の突破力を持つ騎兵部隊を投入し、早急に敵陣営の側面を打ち砕きにかかる。こちらの右翼は側面を森に守られているので、必然的に左翼のアーガイル軍が狙われることになる。
果たして、あの勇敢な領主貴族と配下の将兵たちは、敵の騎馬突撃を受け止めきれるのか。ミランダは少しの緊張と、そして少しの興奮を抱きながら見守る。
敵の騎兵部隊は、大きな弧を動くように移動し、アーガイル軍の左側面を正面に見据えるように位置取る。
・・・・・・
戦況の安定は、将兵たちの奮戦によって継続する。下馬騎兵を中心としたアーガイル軍の前衛は危なげなく敵右翼の前衛の攻勢を防いでおり、敵兵はウィリアムのいる陣形中央までは来ない。敵側の矢も、こちらの前衛を越えて中央や後衛まで届くことは少ない。想像していたよりは、死の危険は近くない。戦場の空気に慣れてきたウィリアムは、ある程度の落ち着きを得る。
「閣下。敵の騎兵部隊がこちらの側面へ回って来ます。騎馬突撃を敢行するつもりでしょう」
バーソロミューを指揮官とした前衛の戦いを見守っていたウィリアムは、参謀であるロベルトの言葉に左を向く。敵の陣形最右翼を担っていた騎兵部隊が、一度戦場から距離を置くように大きく膨らんで旋回し、こちらの陣営の左翼を担うアーガイル軍のさらに左に移動していく。
「……それじゃあ、長槍兵は槍衾を。あと、弓兵部隊は援護の用意を」
「御意」
ロベルトは答え、部隊長たちへウィリアムの命令を伝える。アーガイル軍の陣形左端に並ぶ、徴集兵の中でも選りすぐりの精鋭である長槍兵部隊。そして陣形の後衛を担う領軍弓兵部隊。それぞれが敵の騎馬突撃に備える。
アーガイル軍の陣形の左に到着した敵騎兵部隊は、そこで隊列を整える。
総勢で千二百ほどもいる敵騎兵部隊のうち、およそ半数がアルメリア家の陣営の最左翼、アーガイル軍から見て左後方に控える八百騎の騎兵部隊を警戒するような態勢をとる。そして、残る半数の騎士たちがアーガイル軍を向いて横隊を作る。掲げられているのは、リュクサンブール伯爵家の家紋旗。あの有名な破壊騎兵たちが、これから騎馬突撃に臨むつもりであることはもはや明らかだった。
敵の六百騎はこちらの左側面を目がけて前進を開始し、徐々に加速していく。それを受け止めるべく、アーガイル軍は各将兵がそれぞれの役割を果たす。
バーソロミュー率いる前衛は、引き続き堅実に戦い、戦列を維持する。敵右翼によるアーガイル軍の正面突破を決して許さない。
そして、総勢二百五十人の弓兵部隊は、ここまで行ってきた敵右翼への遠距離攻撃のみならず、騎馬突撃への牽制においても磨き上げた実力を存分に発揮する。
「左八十、距離百! 構え!」
命令を発するのは、弓兵部隊指揮官である騎士。馬に騎乗している彼女は、馬上の高い視点から迫りくる敵騎兵部隊を見据えつつ、弓兵たちに命令を下す。
その命令に従い、弓兵たちは一斉に動く。左を向き、矢を番え、弓を上に向けて曲射の姿勢をとる。
開戦前に風の流れを確認し、矢の試射までを行った彼らは、指示された方向と距離に向けて矢を放つには、どの向きにどの角度で弓を構えればいいかを理解している。全員が同じ方を向き、同じ高さに弓を掲げ、そして射撃命令を待つ。
ほとんどの者が今日まで実戦経験を持たなかった弓兵たちは、それでも恐れることなく戦場に立っている。その心中にあるのは、故郷や家族を守るという決意。アーガイル家とウィリアムへの忠誠心。
そして、弓による射撃という、専門的な技能を持つ者としての誇り。厳しい鍛錬を長年続けて身につけた己の実力が実戦でも通用することを、敵味方に知らしめたいという欲求。
「……放て!」
部隊長の命令で、弓兵たちは一斉に矢を放つ。槍衾を築く長槍兵たちの遥か頭上を越え、放物線を描くように飛翔した矢は、およそ百メートルの距離まで迫る敵騎兵部隊に降り注ぐ。徐々に加速する敵騎兵部隊との距離を適切に予測した部隊長と、命令通りの位置に矢を降らせた弓兵たち、それぞれの見事な働きの結果として、二百以上の矢は敵騎士たちの現在位置を概ね直撃する。
全身に金属鎧を纏った騎士が騎乗し、一部は馬までもが鎧を装備した、重装備の騎士たちに襲いかかる矢の雨。鎧に弾かれるものも多いが、少なからぬ数が鎧の隙間を縫って、あるいは鎧に覆われていない箇所へ、鋭く突き刺さる。垂直に近い角度で勢いよく命中したために、鎧を貫く矢もある。
矢を受けた騎士は怯み、不運にも顔や首に矢を受けた者はそのまま戦闘不能となって落馬。乗っている馬が矢を受けた騎士たちも、馬ごと倒れたり、痛みに暴れた馬から振り落とされたりと、突撃を続行できなくなる者が多い。倒れた騎士たちのうちさらに不運な者たちは、後続の騎馬に踏み潰される。
「右十、距離二十、構え!」
そうした戦果を確認しながら、弓兵部隊長はさらに命令を発する。弓兵たちは次の矢を番え、弓を構える向きと角度を調整する。
そこへ、正面で対峙する敵右翼の後方から矢が飛来する。騎馬突撃への援護のつもりなのか、敵右翼の弓兵たちが、おそらく技量的にやや無理をして、これまでよりも長距離の曲射をくり返す。次々に放たれる矢はアーガイル軍の前衛を越えて左側面や後衛まで届き、騎馬突撃を迎え撃つ長槍兵たちやその後ろに並ぶ補佐の兵士たち、そして弓兵たちを襲う。
敵弓兵の技量不足のためか、矢の一部は勢いを失ってこちらの前衛に落下し、あるいは狙いを外れる。また、敵右翼の弓兵は、これまでの矢の撃ち合いでこちらの弓兵によって既に少なからぬ損害を負っており、そのため飛んでくる矢の数自体が大したことはない。
結果として、アーガイル軍の物理的な損害は少ない。弓兵のうち矢が命中した数人が倒れるが、それ以外の者たちは曲射の姿勢をとったまま待機を続ける。動揺は見せない。
馬上の弓兵部隊長も、矢の雨に怯みはしない。矢の一本は前髪が揺れるほどの至近を掠めたが、本能的に瞼が動いた以上の反応はせず、騎馬突撃を続ける六百騎との距離を測り続ける。
一方で、長槍兵やその後ろに控える歩兵たちは、大半が徴集兵であるために、突然降ってきた矢に対して多少の動揺を見せる。
「持ち場を離れるな! 第四列と第五列の者は、死傷者が抜けた穴を塞げ!」
長槍兵の指揮を担う歩兵部隊の古参士官が、鋭く明確な命令を発して彼らの動揺を鎮めようとする。徴集兵とはいえ長槍を任されていることへの自負と誇りを持つ彼らは、少しの間を置いて動揺から立ち直り、命令に従う。
三列に並んで槍衾を作る長槍兵たちのうち、矢を受けてその場に倒れた者、矢を構えられなくなって後方に下がる者の持ち場を、予備である四列目と五列目の長槍兵たちが埋める。
その間も、騎馬突撃を敢行する敵騎士の群れは迫りくる。加速を続け、いよいよ最高速度に達する。
密集した騎馬による全力の突撃。多少数を減らしたとはいえ、その威圧感は未だ凄まじい。リュクサンブール伯爵家の旗を高々と掲げながら迫る破壊騎兵たちは、その名の通り戦場の全てを破壊しかねない突破力を帯びている。
「いいか、死んでも持ち場を離れるな! お前たちが逃げれば、あの騎馬突撃に蹂躙されるのはお前たちの家族だぞ!」
騎士の叙任も受けている古参士官は、迫りくる敵騎士たちを前に微塵も怯むことなく声を張る。長槍兵の隊列の中央、三列の槍衾のすぐ後ろに自らも立ち、敵を睨みつけながら長槍兵たちを鼓舞する。その傍らには副官である若い歩兵が立ち、アーガイル家の家紋旗を堂々と掲げている。
長槍兵たちは勇気を振り絞り、士官の命令通りに持ち場を守る。石突を地面に突き立て、あるいは槍の柄を腰だめに構え、穂先を敵に向けて姿勢を維持する。
騎馬突撃が放つ凄まじい威圧感も、彼らにとっては未知のものではない。出征前の訓練のおかげで、彼らは迫りくる騎馬の隊列の迫力を知っている。既知のものに対する恐怖心は、未知のものに対するそれよりは小さい。
そして、彼らには守るべきものが多い。かつて軍隊生活を経験した徴集兵、特に長槍兵は、社会的信用もあり、任期を終えて除隊後に自作農や商人として一定の成功を収めている者が多い。彼らの大半は財産や家族を持ち、領内社会においてそれなりの立場を持ち、だからこそ社会への帰属意識も強い。
故に、彼らは徴集兵でありながら、アーガイル伯爵領を守るためならば懸命に戦う。
数列の横隊を組んで襲い来る騎馬の壁。その地響きによって揺らぐことなく、槍の壁が立ちはだかる。古参士官と、その傍らに掲げられたアーガイル家の家紋旗を中心に、騎馬突撃の壮絶な破壊力を迎え撃つ。
「放て!」
そして、騎馬突撃が槍衾の三十メートル手前まで迫ったとき、弓兵部隊長が命じる。弓兵たちは命令と同時に矢を放ち、先ほどよりも短い放物線を描いて飛翔した矢は、ちょうど二十メートルの距離まで迫った敵騎士たちに襲いかかる。
槍衾に突入する直前に矢の雨を浴び、また少なからぬ騎士が脱落。その他の騎士たちも、足並みを多少乱して疾走の勢いを鈍らせる。しかし今さら足を止めることなどできるはずもなく、鈍った勢いのまま騎馬突撃が成される。
騎馬の横隊、その最前列が槍衾に突入し、壮絶な破壊の波が生まれる。槍の穂先に串刺しにされる騎士や馬。逆に、騎馬の重量に踏み潰され、あるいは騎士の振るう剣に斬り伏せられる長槍兵。怒声が、鬨の声が、悲鳴が、断末魔の叫びが、土埃を舞い上げ血飛沫をまき散らしながら周囲を満たす。
凄まじい衝撃を受けながら、それでもアーガイル軍の長槍兵たちは持ちこたえてみせた。
後方の弓兵部隊は、曲射による援護で敵騎兵部隊の勢いを削いだ。そして長槍兵たちは、故郷の社会を、己の築き上げた人生を、そして家族を守りたい一心で持ち場に踏みとどまり、密集隊形で槍を構え続けた。その結果として、名高き破壊騎兵による騎馬突撃は止まった。
死傷者が抜けた穴を、槍衾の後方に並んでいた予備兵力が急ぎ埋める。その援護として、長槍兵たちの隊列の間から、クロスボウを構えた徴集兵たちが矢を放ち、立ち往生した敵騎士たちにさらなる損害を与える。弓兵たちも、引き続き曲射で矢を浴びせる。
突撃の勢いを完全に止められた敵騎士たちは、後退を開始する。




